黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

1年が経ちました。

2010-12-30 06:38:56 | 仕事
 ここ何回か、この欄において「忙しい」が常套句になっていたが、(たぶん)今年最後のメッセージとなる今回も、また「忙しい」日々の記述から始めることになってしまった。
 前回から20日余り、何をしていたか? まず「私」的な面では、例の朝日新聞アスパラクラブに連載中の「黒古一夫が選ぶ現代文学の旗手たち」の1月(第15回山田詠美・第16回よしもとばなな)用の原稿を書くために、彼女たちの窮策をいくつか読み直し、また一番新しい『タイニーストーリーズ』(山田詠美)や『アナザー・ワールド 王国その4』を読む、という作業をした。毎回「3枚」前後、と短いので、執筆に時間はかからないのだが、旧作の読み直し、新作の読了、二時間がかかる。これまで、興に任せて読んできた作家たちの仕事を、「現代文学の旗手」として現代文学史の中に位置づけ直す仕事は、結構やり甲斐のあるもので、ちらほら「読んだよ。面白かった」というような声も寄せられており、いつまで続くのかわからないが、続く限り納得いくものを書いていきたいと思っている。
 その他には、先頃刊行された『立松和平 仏教対談集』(12月10日 アーツアンドクラフツ刊)に関するエッセイを書いた(「大法輪」2月号用)。玄侑宗久をはじめ山折哲雄や曹洞宗の僧侶や比叡山の僧侶、足立倫行、岩田慶治、神津カンナ、板東三津五郎らと対談したものを集めたものであるが、亡くなる前の立松がどのようなことを考えていたのかがよくわかる対談集で、このエッセイを書いている最中、ずっと立松が62歳という若さで逝ったことが「口惜しい・無念・残念」という思いを禁じ得なかった。改めて、立松和平という現代作家がこの世からいなくなったことの大きな「空洞」を思い知らされた。
 後は、例によって卒論、修論、博士論文への対応で、以前にも増して目の回るような忙しい日々を過ごしてきた。特に、修論を書いている二人が留学生(トルコとウズベキスタン)、博士論文を提出しようとしている一人が中国からの留学生ということもあり、「日本語」のチェックに夥しく時間がとられてしまった。留学生たちは、流ちょうな日本語をしゃべり、日本人の話をほとんど理解し、日本語の本もかなり深く読むことができるのだが、日本語で論文を書くこと、つまり自分の考えを日本語で論理的・実証的に展開することについては、どこでも訓練(教授)されてこなかったせいか、日本人学生と同じようには書くことができず、「直す」のに大変な思いをする羽目になっている。200枚、300枚、500枚(いずれも400字詰め)という長さの論文を日本人教師が読んでわかるように書き直させるのは至難のことで、せっぱ詰まった現在、お互い大変な状況にある。一番の責任は、留学生を気軽に引き受けた僕にあるのだが、留学生からの研究室所属オファーを断る教師たちの気持ちを今更ながらに思う。留学生たちの中には、日本人以上に優れた才能(文学的センス)を持っている学生もいるのだが、言葉=日本語の壁の高さをこの時期にいたって改めて痛感せざるを得ない。まだまだ「日本語」の点検は終わっていないので、忙しい日々は相変わらず続く。今日もこの後、送られてきた原稿のチェックが予定に入っている。

 そんな多忙な日々ではあるが、もうあきれて開いた口がふさがらない小沢一郎の「政治とカネ」を巡る民主党内部の騒動、つまらない「権力争い」で1年が過ぎようとしていることに、腹立たしい思いを禁じることができない。誰もが「国民生活第一」といいながら、その「国民」は何処にいるのだ、民主党がやっていることはまさに「国民不在」ではないか、そんなことをやっているから「のど元過ぎれば、熱さを忘れ」のごとく、世論調査に拠れば自民党の支持率が回帰した(上がった)のである。その間に、北朝鮮や中国の「対日政策」を口実に「ナショナリズム(日本主義)」が声高に己のレーゾンデーテル(存在)を主張し始めてきているようで、「危ういな」という気持ちにさせられ続けてきた。たぶん、この「ネオ・ナショナリズム」の公然たる登場は、先に「新たな<検閲>」ということで東京都の青少年有害図書規制法などのファシズム的な動きと連動している(裏表の関係にある)のではないか、と思わせる。どちらにも人々の間に潜在する「英雄待望」を利用して威勢のいい(差別的な)発言を繰り返してきた「作家」石原慎太郎が深く関わっていることを考えると、納得がいくのではないだろうか。
 そんなことを思うのも、アジア太平洋戦争、とりわけ日中戦争から太平洋戦争が始まる頃にかけて、「エログロ・ナンセンス」文学が流行ったことと、村上春樹の『1Q84』がエンターテイメント性を濃厚に持つ故に世界的にベストセラーとなったり、訳のわからないままに若いタレントが書いた小説が100万部を超えるといった偏頗な文学状況と酷似しているのではないか、また人々が「翼賛」的な体制の下で「政治」に異議申し立てしない状況(学生たちが就活で苦しんでいる状況は、まさにそのような「異議申し立て」を封じるためではないか、とも考えられる)は、次のファシズム体制の準備期間なのではないか、と思えてならない。
 ただ一つ救いなのは、保守そのものであった沖縄県知事に「普天間基地の移転は県外、それ以外の選択肢はない」とまで言わせた沖縄県民が健在だということである。仲井間知事の対立候補を応援していた僕の友人たちは、選挙には負けたが今度の知事選で「普天間基地の県外移設」を公約させたことを「成果」として、めげずに頑張っている。あの粘り腰に、僕らは「希望」を見いだすべきなのかも知れない。
 さて、来年はどんな年になるのだろうか。

新たな「検閲」?

2010-12-10 05:41:22 | 仕事
 日本海での日米軍事演習(自衛隊は「軍隊」=国家の暴力装置でない、という主張していた人たちは、アメリカ合衆国の「軍隊」である海軍や空軍と自衛隊とのこの合同演習をどのように見るのか。「軍隊」と「軍隊ならざるもの」との合同演習、そんなことがありうるのか。笑っちゃうね)や、迷走する菅内閣のニュースの陰に隠れて、表現者にとって今重大なことが強行されようとしているが、今回はそのことについて、報道では余り触れていない側面から書きたいと思う。
 そのこととは、もうおわかりだと思うが、石原慎太郎「作家」と知事の牽引によって強行されようとしている「東京都青少年健全育成条例」のことである。以前にもこの条例は石原の意を受けた東京都教育委員会から提出されたが、東京都議会で多数を占める民主党やらの反対で、一度は否定されたのだが、このたびまたぞろ「改正案」(情報からの判断では、多くの指揮者が指摘しているように「改悪案」としか思えない)が提出され、現在議会で議論されている。国政レベルでは後退に後退を重ねている民主党だが、ここでは是非頑張ってもらいたい、と切に願う。
 さて、この「行き過ぎた性描写」や「児童ポルノ」を規制するという「正しい・美しい話」、つまり「正義」を振りかざして「新たな検閲」をもくろむ「東京都青少年育成条例」、主に漫画家たちがこぞって反対しているのも、もし石原都政が意図するような規制が実現したら、戦前の治安維持法が猛威をふるってきた時代と同じように、「自由」な表現が大幅に制限され、それは結果的に「表現の自由・思想の自由」を冒すことになる、と危惧するからに他ならない。本来なら、漫画家やアニメーターだけでなく、作家や批評家たちもこの「新たな検閲」について発言すべきだと思うのだが、文学者の地位が相対的に低くなっている現在、十分な対応ができないという「情けない状態」にあるのだろう。
 そもそも、「表現の自由」は、例えば今回「条例」がターゲットにしていることの一つ「性表現」に関して言えば、女性の水着姿→ビキニ水着→上半身露出→ヘアヌード→(ネット上での)セックス場面の解禁、が象徴しているように、徐々に「規制」が緩和され、もちろん、露骨なセックス場面を誰もが見られるという状況も全て「可」ということではないのだが、「表現領域」が大幅に広がる、ということがあった。まさに、このような「野放し」状態の「表現の自由」にこそインターネット時代の問題点があるのだが、今はそのことは措き、件の「条例」について言えば、石原慎太郎さん、ご自分が小説家としてどのような軌跡を歩んできたのか思い出してほしい、と強く言いたい。
 石原さん、古い話になりますが、貴方の文壇デビュー作であり芥川賞を受賞した『太陽の季節』(55年)やそれに引き続く『処刑の部屋』(56年)や『完全なる遊戯』(57年)、あるいは貴方の初めてのエッセイ集『価値紊乱者の光栄』(58年)を思い出してください。貴方は、例えば「勃起した男根で障子紙を破る」などというような表現で、あるいは「湘南ボーイたちが集団で一人の女性を陵辱する」場面を小説に書き込むなどして「既成の価値観」を覆すことで、「新しい表現者=文壇の革命児」として認知され、現在に至ったのではないですか。
 その貴方が、ネオ・ファシスト(国家主義者・独裁者)として今や「新たな検閲」制度の提唱者になるとは、「歴史の皮肉」としか言いようがありませんが、ここまで「変節・老耄」するとは、『太陽の季節』に芥川賞を与えた選者たちも、草葉の陰で臍を噛んでいる(苦笑いしている)のではないでしょうか。
 ともかく、「茶番」はもうやめましょう。

「『1Q84』批判と現代作家論」-拙著のタイトルです。

2010-12-07 05:46:25 | 仕事
 来年早々の刊行になる新しい拙著のタイトルが決まりました。
『『1Q84』批判と現代作家論』(アーツアンドクラフツ刊)です。収録される批評は以下のものです。、
1.『1Q84』批判-空前のベストセラーとなった村上春樹の新作『1Q84』について、その販売戦略から作品内容まで、130枚ほどで批判したものです。前半部は文芸誌「月光」第2号に書いたものですが、この村上春樹の新作は多くの人が賞賛するほど優れた作品であるのか、作品内容を分析・検討し、結論的には「批判すべき作品である」としたものです。
2.辻井喬論-西武セゾン・グループの最高責任者(経営者)の地位を降りてからますます旺盛な作家活動を行っている辻井喬について、その文学は「転向」から始まるのではないか、と処女作から最新作までを俯瞰的に37枚ほどで論じたものである。
3.立松和平の文学-今年の2月に急逝した立松和平の文学について、その追悼の意味を込めて書いた36枚の概論風の作家論です。
4.野間宏論-『さいころの空』を中心に論じたもの(30枚)
5.林京子論-『トリニティからトリニティへ』について、「希望」をキーワードに論じたもの(20枚)
6.小檜山博論-北海道の地で頑張っている小檜山博の文学について、その「現代文明批判」を中心に論じたもの(45枚)
7.大城立裕論-「沖縄」と「ヤマト」との関係を軸に、沖縄発の芥川賞作家について概観したもの(46枚)
8.三浦綾子論-「北海道」をキーワードに論じたもの(20枚)
9.村上龍・大江健三郎・井上ひさし-3人の作家に共通する「ユートピア」への思いについて論じたもの(20枚)
10.「在日」文学論-①金鶴泳論、②アイデンティティ・クライシスの2側面から「在日」文学について論じたもの(59枚)
 それぞれの文章は、求めに応じて折々に書いたもので、一見すると統一されていないようにも見えますが、全ての文章は「現代社会、あるいは時代と文学はどのように関わるのか」、という観点(持論)を底意に潜めて書いたもので、その意味では「社会や時代との関係」が希薄になってきているように見える現代文学への、僕なりの「否・アンチ・批判」になっているのではないか、と思います。つまり、今度の本で取り上げた作家は、紛れもなく文学と「社会や時代との関係」を重視してきた人たちで、簡単に言えば、僕の「好きな」「気になる・注目してきた」作家たちについて論じたものです。
 その意味では、冒頭においた長文の『1Q84』批判も、僕の勝手な村上春樹へのラブレターでもあります。賞賛の嵐の中で、あるいはオマージュに囲まれて、確かな作品批評のないまま、あれよあれよという間に世界的なベストセラーになってしまった『1Q84』について、村上春樹は「誤った方向」へ行こうとしているのではないか、という思いから書いたもので、何故そのような「批判」を書いたのかは、僕の『村上春樹-「喪失」の物語から「転換」の物語へ』(勉誠出版刊)を読んでもらえれば理解してもらえるのではないか、と思っている。
 なお今度の本は、大学教師生活における最後の仕事になります。また、版元のアーツアンドクラフツの社長は、僕の最初の本『北村透谷論-天空への渇望』(79年)を出してくれた冬樹社という出版社につとめていた人で(担当の編集者ではなかったが、現在でも僕の本を担当してくれた編集者と親しくしているようです)、このことにも奇しき縁を感じている。
 後はたくさんの人が手にとって読んでくれることを願うばかりです。
 刊行されたら、またお知らせします。

「忙中に閑あり」、何をしたか

2010-12-05 06:23:01 | 仕事
 先月からそうなのだが、この時期は文字通り「師走」(教師が走り回る)で、いよいよ僕の研究室を巣立つ院生の博士論文を3本読み(指導し、一人は留学生なので日本語のチェックをしなければならない)、他に大詰めを迎えた修士論文(2本だが、両方とも留学生なので、これまた「日本語」と表現をチェックしなければならない)と卒論(5人分、たぶん5人を平均すると400字詰めで170枚前後になるのではないか)の下書きチェックがあり、連日、学生(院生)の論文を読むという生活を続けている。
 その間に、毎月書かなければならない『立松和平全小説』(第2期第10巻まで刊行中)の「解説・解題」(平均して25枚前後)と、朝日新聞のアスパラクラブに月2回(毎月第2・第4金曜日)連載している「黒古一夫が選ぶ現代文学の旗手たち」(たいそうなタイトルだが、担当者が決めたものです。最近は気に入ってきた)の原稿を平均3枚ずつ。これは枚数は少ないのだが、原則的には新刊中心に紹介・位置づけをするので、読んでいない場合は新たに読まなければならない、という事情がある。
 因みに、今月(12月)は、「桐野夏生」と「玄侑宗久」で、これまで取り上げた作家は、(最近の物故作家も可ということで)第1回から立松和平、大江健三郎、村上春樹、井上ひさし、林京子、辻井喬、村上龍、司修、島田雅彦、小檜山博、星新一、高橋源一郎で、計14名になる。とりあえず、来年の5月まで(1年間)連載が決まっているので、あと10名について書かなければならない。
 僕もこの連載をするようになってから気がついたのだが、朝日新聞が読者向けサービスとしてWEB上で展開している「アスパラクラブ」は、本紙とは違ったコラムや読み物が満載されていて、結構おもしろい。是非覗いてみてほしい。無料の会員登録するだけで、自在に入っていけ、僕の連載などを読むことができる。
 そんな毎日なのだが、「忙中に閑あり」ではないが、気分転換と作業時期に入ったということもあって、「たくわん漬け」用の大根(5軒分160本)を洗い、干す作業を経て、今日(5日)は漬け込む予定を組んでいる。そのほか、庭先のキュウイが収穫期を迎えたので500個ほど収穫し、1週間前になるが、樹上で完熟したものを収穫し家人と一緒にジャムにした。皮をむき、弱火で2時間、砂糖と凝固剤代わりのレモン汁を加え、終了。大きな鍋に半分ぐらいできたので、娘や知り合いに配り、第2回目を近日中に行う予定になっている。食してみたが、案外初めてにしては良くできた、と思っている。
 それと、家人の実家で義兄が育てた(植え付けは手伝った。結果として大量になった)サツマイモの処理として、「乾燥芋」作りもしている。子供の頃、母親に言いつけられて家の屋根に上がり、3~4ミリに薄切りしたサツマイモを干したことなどを思い出しながら、ここ2,3日は、乾燥芋作りに精を出している。コツは、ゆっくりふかすことと熱いうちに皮をむき、完全に冷えてから薄切りにすることで、これまでつくったものは、キュウイジャムと同じように知り合いに配り、残りは藁を敷いた段ボール箱で、白粉が吹くのを待っている状態にしてある。芋はたくさんあり、家人があの人にも、この人にもあげたい、と言っているので、今しばらくは断続的に乾燥芋作りは続く予定になっている。
 学生(院生)のかいた論文を読んだり、新刊の小説を読んだり、解説を書いたりする間の「気分転換」として(だけでなく、半ば義務的な面もあって)、「農」「食」に関わるのは、精神衛生上よいことなのではないか、と思っている。
 さあ、これから朝食を済ませ、たくわん漬けの開始である。