黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「エクソダス」(脱出)は可能か?

2008-08-09 10:15:47 | 文学
 ようやく「村上龍論」において1章を為す『希望の国のエクソダス』論の目途がついてほっとしているところなのだが、ここのところずっと「エクソダス・脱出」とは何か、果たして僕らにそれは可能か、というようなことを考え続けている。
 この村上龍の長編は、粗筋だけ言えば、「イジメ」をなくすことのできないことに象徴される「教育の退廃・荒廃」に耐えきれなくなった中学生が、2年生を中心に「集団不登校」を行い、その果てにインターネットを利用した金融取引やネット商売によって多額の資金を準備して、北海道は札幌市近くに広大な土地を購入し、そこに「もう一つの国」を建設するという話である。
 このような小説を荒唐無稽な「SF」(近未来SF)として処理し、そのようなジャンルの作品としてエンクロージャーすることは容易い。しかし、村上龍のこの時代を生きるところから導かれた日本という国への「嫌悪」や「違和感」、そして「侮蔑」を一つ一つ検証していった場合、この作品が凡百の現代小説の中で抜きん出たものであることに、読者は気付くのではないだろうか。
 正直言って、僕は村上龍のすべての作品が好きというわけではない。特に、関心(興味)は持っているが、ホラー的なSMやドラッグを素材にした作品類、例えば「イビサ」とか「超電導ナイトクラブ」などといった作品は、苦手である。―もちろん、今度の「村上龍論」の中では正面から論じることになると思うが、それでも「苦手」は「苦手」である。村上龍の小説における最大の特徴である「時代・社会」との関係が、素直でなく、アクロバティックであって、そのことを実証するのが面倒臭い、ということがあるからに他ならない。
 さて、『希望の国のエクソダス』に示唆されての「日本からの脱出」についてであるが、僕の知る限り、今の若い人たちはいとも簡単に「国境」を超えてしまい、形だけは日本から「脱出」したように見えるが、どうも僕の知るその実態は、そもそもはじめから彼ら・彼女らに「日本」という意識はなく、端から「コスモポリタン」であることを自認する生き方から「国境」を易々と超えていっているのである。3年前、コンパクトな『写真集 ノーモア ヒロシマ・ナガサキ』を編んだとき、その担当となった新人編集者(東京外大卒)は、カナダに留学しているとき、各国からきた留学生たちが自国のことをPRする時間で、祖母がヒロシマの被爆者であることを思い出し、ヒロシマのことを話して好評だった、と僕に話してくれたことがあるが、もう一方で彼女と同じぐらいの年のアメリカの大学・大学院を出て今もアメリカ暮らしを続けている女の子は、「日本の歴史や社会について、これまで私は全く考えたことがないが、何不自由なく生きている」と豪語して側にいた人の失笑を買ったということがあり、僕は自分の世代と彼女らの世代とのギャップを痛烈にかんじたものである。
 ことほど左様に現在はいとも簡単に「国境」は超えられるのだが、単に「国境を超える」ということと、僕の言う「日本からの脱出」は少しニュアンスが違う。それは、「日本」を否定するか、「肯定」するかの違い、である。「脱出」という意志的な行為は、「日本」の現在及び未来にどんな「希望」も持てないために選ばれた最後の手段であり、そこには不退転の決意が込められている。
 2000年に半年ほどアメリカのシアトル(ワシントン州立大学)で生活していたとき、僕を招いてくれた教授が大学近くの路上にたむろする茶髪の日本人女性に対して「彼女たちがここで何と呼ばれているか知っていますか? 東京ラーメン娘と言うんですよ」、と説明してくれたのが、大変印象に残っている。彼女らは「語学留学」を目的に渡米してきたが、途中で挫折し、今は語学学校も辞めて(退学になって)、在留資格のある間にアメリカ人男性を捕まえるのを目的に、昼間から大学周辺の路上にたむろしているのだという。もちろん、彼女たちも本当の意味で「日本から脱出」したわけではない。
 そんなことを思い出しながら「脱出」ということを考えると、村上龍が『希望の国のエクソダス』で提起したことは、実に大きな問題だと思う。僕の考えたことの詳細は、秋に出版される予定の『村上龍論』を読んでもらうしかないが、少なくともこの時代や社会を相対化するものにだけはなっている、と明言しておく(偉そうに聞こえたら、ごめんなさい)。