黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「虚しさ」との戦い(19)――政治家に「品性」を求めるのは、無謀か?

2015-08-27 10:30:00 | 仕事
 昔、ある人から「黒古さんは、下品だ」と言われたことがあり、それが今でもトラウマになっているのか、どんなこと(言動)に対しても、「このことは、下劣かどうか」と考える癖が付いているのだが、「安保法制=戦争法案」に関する審議の中で繰り返し言われるようになった「政治(家)の劣化」について考えるようになって、どうも僕らは「国民の代表」として「国民のために働く」政治家は、「私利私欲」を離れて「国家」「国民」のことを考える「品性上等」な人たち、と「思い違い=誤解」しているのではないか、と最近思うようになった。
 その第一番は、首相という一国を代表する指導者でありながら、日教組に支援されている野党の議員に向かって「右翼」根性丸出しの「日教組はどうした」というヤジを飛ばしたのをはじめ、「女性差別」としか思われないような態度で「早く質問しろよ」とか、「そんなことどうでもいいじゃないか」などと、国会の答弁を軽視するようなヤジを飛ばしたたことである。「品性下劣」とはこのようなことを言うのだろうが、苦労知らずの「お坊ちゃん」で育った、知性のかけらもない態度は、弾劾しても仕方がないと思いながらも、どうしても「虚しさ」と同時に「怒り」も覚えるものである。
 こんなもう「お前はアホか」と言いたくなるような安倍首相に「かしづく」家来(お友だち政治家)たちも、「主君」に似て、非道いの一言に尽きる。まず、「立憲主義」(「日本国憲法」を最高法規として、全ての国民はそれを守らなければならない、とする考え)を否定する「安保法制に関して、国際情勢の変化が優先され、法的安定性など関係ない」と発言した磯崎首相補佐官、彼は東大法学部出身だと言うが、彼の「憲法無視」の発言を、東大で教鞭を執る憲法学者たちはどう思っているのか。それに、憲法無視の暴言を吐いた磯崎補佐官を「注意」しただけで、罷免することもなく相変わらず重用し続ける安倍首相(及び、安倍内閣)の「品性」は、もう度し難いとしか言いようがない
 もう一人、学生による「安保法制=戦争法案」反対のデモや集会に対して「彼らは戦争に行きたくないだけで、利己的である」と発言し、いかにも自分は「憂国の士」であるかのごとく振る舞いながら、「カネ(蓄財)」に関しては「汚く」、友人に対して未公開株の購入詐欺を働いた(と週刊誌に書かれた)武藤議員、驚かされたのは、その後の釈明会見で、「実はその友達に1億円貸していたのだ」と言ったことである。それまでは禁酒投函系の議員秘書などをしていた36歳で2期目の国会議員が、自民党に鞍替えした途端に数年間で「1億円」もの大金を手に入れ、それを友達に貸すことができるという「政治(家)」の不思議。シールズに集まった学生たちにしてみれば、そんな「デタラメな若造政治家」に「利己的」などと言われたくないだろうし、武藤議員こそ「品性下劣」な人間とだと思うのは、僕だけではないだろう
 そんな「品性下劣」な武藤議員の「未公開株購入詐欺」について、彼がつい先日まで所属していた自民党の総裁でもある安倍首相が「調査しない」と断言する、というこれもまた武藤議員に輪を掛けた「品性下劣」な発言、もうどうしようもない、と思うしかないのだろうか。
 折しも、100歳以上の高齢者に「銀杯」を送ることになっていたが、「予算不足」になりそうなので、価格が安い「銀メッキの杯」に換えるという報道、しかし、「新国立競技場」はじめオリンピック競技場に何千億円、何百億円使える国なのに、100歳以上のお年寄りに「わずか数千万円」のお金も使えないという「品性」が疑われるこの国のやり方、指導者が指導者だから仕方がないのかも知れないが、この国で起こっているのは、まさに「ポンチ絵」でしかない。

「虚しさ」との戦い(18)――「70年談話」に現れたその「歴史認識」のひどさ!

2015-08-15 15:18:05 | 仕事
 昨夕、テレビで「朗読」を聞き、そしてネットで談話の「全文」を読み、さらには今日の新聞記事やテレビのコメントに触れ、ずっと安倍首相の「70年談話」について考えてきたが、結論として僕が思ったことは、これほど国民を愚弄した「談話」はないのではないか、ということであった。
 最大の理由は、マスコミなどは、戦後50年の「村山談話」、60年の「小泉談話」に使われていた「侵略」「痛切な反省」「植民地支配」「お詫び」といったキーワードが「安倍談話」に含まれていたから、中韓米も含めて諸外国も「概ね好意的」などと報じていたが、あれほど「私が…」「私が…」というのが好きな安倍首相が「談話」の中では一度も「私(安倍首相自身)が」と言わず、一般論や「引用」的言い回しで「逃げて」しまっていることに象徴される「誠意」の無さ、「歴史に対する無定見」を今更ながら知り、絶望的な気持にさせられたからである
 つまり、安倍首相は今回の「談話」でこれまで事ある毎に「私が判断する」とか「私が決めたのだから」と言い、あたかも「決断する首相」であるかのような印象を国民に与えてきたが、実は「定見=自分自身の言葉・思想」を持たない祖父(岸信介)の亡霊に取り憑かれただけの、「空疎な歴史観」を身にまとった「支持率」だけを気にする「愚妹」な政治屋であることを、白日の下にさらけ出したということである。
 思い出して欲しいこの「愚妹」な首相は、前政権(民主党政権)の失敗に乗じて首相に返り咲いた頃、有頂天になってその「ナショナリスト=国粋主義者・ネオ・ファシスト」ぶりを発揮し、先のアジア太平洋戦争における「日本の責任」を問われると、誰に入れ知恵されたのか知らないが、「<侵略>の定義は、学問上も国際上も定まっていない」などと嘯いたことを
 また、朝鮮人女性を初め占領地域の女性を日本軍(日本帝国主義国家)が強制的に「性奴隷=従軍慰安婦」としたことに対して、敗戦前日(ポツダム宣言受諾の前日)の8月14日から占領軍(アメリカ軍)が本土上陸してくるまでの間、必至になって日本軍関係施設及び役所の「機密書類」――これには当然、従軍慰安婦を強制連行した記録もあったはず。何故なら、朝鮮人強制連行慰安婦の存在については、五味川純平の大長編『人間の条件』やその他の文学作品に数多く書かれており、それらを読めばその存在は歴然としているからである――を何日もかかって焼き尽くしたという事実を知りながら、「証拠がない」と言い続けてきたことを
 さらに言えば、日本帝国主義の「侵略」性について、安倍首相は「満州事変」(1931年)以後に限定して言及し、「西南戦争」(1878年)の原因となった西郷隆盛らの「征韓論」を引き合いに出すまでもなく、日清戦争(1894・明治27年)以前から日本帝国主義政府は朝鮮半島や中国大陸への「侵略」意思・意図を持っており、そうであるが故に日露戦争(1904・明治37年)の後朝鮮半島への「侵略」を内外に知らしめ、ついには1910年「朝鮮半島の植民地化=韓国併合」という「侵略」を完成させたのである。「安倍談話」では、なぜか日露戦争後に台湾を植民地化したことについては触れているのに、「韓国併合=朝鮮半島の植民地化」については一言も触れていないのは何故か?
 なお、これは余り知られていないことだが、中国大陸(清王朝)への「侵略」に関しても、それは「満州事変」から始まるのではなく、日清戦争後に揚子江沿いの武漢(漢口)に最初の「日本租界(植民地域)」をおいたのを皮切りに、その後「大連」や「上海」に次々と「日本租界」をおいて、中国大陸への「侵略の橋頭堡」とした事実についても、「安倍談話」は一切触れていない。たぶん、彼の歴史認識の中にこの「事実」は入っていないのだろう。
 ことほど左様に、安倍首相の「歴史認識」は「いい加減」で、最低限の知識さえ無いままに「うわべ」だけを取り繕い、「侵略」などの4つのキーワードを使えば、それで事足りる、と浅薄にも思っているから、「談話」に心が籠もらないし、「反省」の意も伝わってこないのである。
 そんなどうしようもない「談話」だが、一つだけ自分の意(だけでなく、保守派・右派を喜ばす)を込めた文言がある。それは、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子供たちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」という言葉である。ネットを見ると、早速この言葉に「ネトウヨ」と呼ばれるような人たちが飛びついて、「よくぞ言ってくれた」「名演説だ」「すばらしい言葉、立派な首相だ」「これで支持率が上がるだろう」などと欣喜雀躍していたが、確かに一見すると「まともな考え・意見」のように見えるが、朝鮮半島や中国大陸をはじめアジア太平洋諸国を「侵略」し、多大な被害をもたらしたのは日本である。その加害者・日本が「子や孫は、直接戦争に関係ないから、もう謝罪する必要がない」と言うのは、本末転倒である。「もう謝罪しなくてもいいよ」と言えるのは、被害を受けた側だけであって、加害者が言うことではない
 第一、安倍さん、貴方のお祖父さんは東条内閣の閣僚として中国侵略のお先棒を担いだ人である。本当に「中国侵略」は悪いことだったと思うのであれば、貴方は、その加害者=侵略者の「孫」として、まず「痛切な反省」を自分の言葉で語り、その上で「土下座して」中国に謝りつづけ、その結果中国はじめアジア太平洋諸国の全部が「もう謝らなくていいよ」と言うのを確認してから、初めて「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子供たちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と言えるのである。 こんなことを書くと、すぐさま「ネトウヨ」の人たちが、「お前はアホか」などと攻撃してくると予想されるが、「事実」を基にした「歴史」を消すことはできないし、人間の「誠意」は「事実」を基にしない限り、それは皆「空疎」な言葉として霧散してしまうのがオチである。 まだまだ言いたいことはたくさんあるが、今日はここまで。
 なお、最後に付け加えておきたいのは、明治以来の日本のアジア太平洋諸国への「侵略」の根っこに福沢諭吉の「脱亜入欧」思想に明らかな「アジア(人)蔑視」があるということ、である。

「虚しさ」との戦い(17)――ついに、原発再稼働!

2015-08-12 10:42:24 | 仕事
 ついに、と言うか、とうとう、と言うか、あるいは予定通り、と言うか、鹿児島県の川内原発の再稼働が多くの国民の反対があったにもかかわらず挙行された。これで、約2年間続いてきた「原発ゼロ」の記録が途絶えてしまった。
 それにしても、今更という感じがしないでもないが、昨日の安倍首相はじめ宮沢経産大臣、菅官房長官の原発再稼働に関するコメントを聞いていると、「安保法制=戦争法案」に関する議論においても変わらないのだが、いかに「人命軽視」「国民の生活軽視」の政治が今日行われているか、如実に伝わってくる。
 「世界一厳しい安全基準」(安倍首相)、どの国の安全基準と比べてそのように言っているのかわからないが、ではフクシマ以前は「世界一」でなかった安全基準で次々と原発を建設し続けてきたというのか、安倍首相の言葉が「軽く」「ご都合主義」だということは、繰り返し言ってきたことだが、この「世界一厳しい安全基準」ほど、国民を馬鹿にした言葉はない。何故なら、安倍さんは何度かの国政選挙でその都度「原発ゼロを目指す」と言ってきたはずだし、その「世界一厳しい安全基準」についてだって、自公政権に都合のいい人事(原子力ムラの住人たち)で構成した「原子力規制委員会」さえ、「絶対に安全とは言えない」と言っているのに、という問題が解消されないままであることを考えれば、実に「いい加減な言葉」だということがわかる。
 宮沢経産大臣の「安価なコスト」「経済問題」「将来のエネルギー問題」を考えて、という言葉に至っては、すでに「フクシマ」によって暴かれた、廃炉費用や使用済み核燃料の処理費用、原発立地への「交付金」、さらには万が一事故が起こったときの処理費用などを考慮した場合、決して原発は「安価なエネルギー源」ではないはずなのに、何故今更そんな「嘘」を付くのか。理解に苦しむ
 第一、フクシマが起こって判明したことだが、まだ使用できる火力発電所を原発建設の結果「休眠」させていたり、「水力発電」に至ってはそのほとんどが「休業」状態になっていること、それらをもう一度稼働させれば、原発の何基分か稼働させなくても済む、という事実をどう考えるのか、ということがある。
 さらに言えば、原発の再稼働を優先させているため、フクシマの直後は真剣に検討された「再生可能エネルギー(太陽光発電や風力発電などの自然エネルギー)」の活用が、現実としては機能しているにもかかわらず、政府・電力会社は「消極的」な態度をとり続けていることを、安倍首相や自公政権はどう考えるのか
 これらの事実と国民の60%以上が「反対」しているという現実を考えれば、原発を再稼働させる安倍政権が見ているのは、「国民の暮らしや生命」ではなく、電力会社や財界の顔でしかない、ということである。
 僕らは何でこんな「理不尽なこと」を平気で行う首相を選んでしまったのだろうか。
 ともあれ、現実的には「原発へのエネルギー依存率20パーセント」を政府の方針とした以上、安倍自公政権は川内原発に続いて続いて次々と原発の再稼働を決めていくだろう。
 しかし、「使用済み核燃料の処理問題」「核燃料サイクル問題」「核の最終処分場が未決定」「老朽化した原発の廃炉問題という、子々孫々に至っても解決しないであろう大問題を「原発」が抱えていることを僕らは忘れるわけにはいかない。
 「核と人類は共存できない」のである。

「虚しさ」との戦い(16)――ご都合主義の先に見えるものは!?

2015-08-09 16:13:40 | 仕事
 敢えて差別的な言い方をするが、「頭の悪い」人間が自分を「大物」だとか「偉い人」とか思わせるときに使う常套手段は、「ご都合主義」と決まっている。もちろん、ご都合主義の裏側には、これも決まって「尊大さ=傲慢さ」と「侮蔑」が張り付いている。
 今年の「ヒロシマ・デー」と「ナガサキ・デー」における「内閣総理大臣・安倍晋三」の挨拶(スピーチ)は、そのご都合主義の典型である。まず、これは多くのマスコミも報じていることだが、ヒロシマにおいてその挨拶に「非核三原則」の言葉を取り入れなかったことを指摘されると、ろくな説明もなくナガサキにおいて入れる、という何とも締まりのない醜態を演じたが、安倍首相(安倍政権)のご都合主義の問題点は、そんな表層的な問題にあるのではなく、ヒロシマにおける挨拶文とナガサキにおける挨拶文が、「非核三原則」の有無以外、90%以上「同じ文言=コピー」だということが象徴しているように、安倍首相は「ヒロシマ・ナガサキ」、つまり「核被害」について明確な見解を全く持っておらず、従って挨拶文にある「核軍縮を進めていく」などという言葉も眉唾物だということを露呈してしまっている、ということである。
 換言すれば、日本がアメリカの「核の傘」の下に存在することを前提とした「日米安保条約=日米関係の強化」を主張するのであれば、それはアメリカの「核」を認めているということになり、「核廃絶」の思想とは相容れないのに、その矛盾に全く気付かない(認識できない)、ということである。アメリカの戦争を「支援」する「安保法制=戦争法案」に対して、長崎市長が明確に「慎重に審議していただきたい(法案に反対だ)」と言明したことに対して(この時、式典に参集していた市民から大きな拍手が湧いた)、スピーチで何も応えず、ただ官僚が作成した(「非核三原則」を盛り込んだ)文章を、心ここにあらずという形で読み上げただけの安倍首相、ここに安倍首相(安倍政権)の基本的姿勢が現れている。厚顔無恥も極まれり、といった感じであった。
 それに、これは意図的だと思うのだが、再三再四指摘してきたように、原発の再稼働は「電力問題=エネルギー問題」などではなく、ただ「経済(効果)」の問題であり、使用済み核燃料の再処理によって生成される核兵器の材料である「プルトニウムの確保」にあることを隠し、「核廃絶」を口の端に上らせるこの「いやらしさ」、安倍首相の態度は国民を馬鹿にした最たるものである
 こんな子供でも分かるような「建前」と「本音」を使い分ける政治をやっているから、「法廷安定性など関係ない」と言ったり、自分は「国会議員」という安全地帯にいながら、若者たちが「戦争反対・戦場に行きたくない」と叫んだことに対して、「利己的だ」などと批判する愚かな先走り的な政治屋が出てくるのである。
 これは安倍政権の「傲り」現れとしか言いようがないのだが、それとは別に8月6日前後から今日8月9日までのマスコミの論調やコメンテーターの発言を聞いていて、気になったことが一つある、
 それは、「ヒロシマ・ナガサキ」の被害やそれ以前の沖縄戦、あるいは1945年3月10日の東京大空襲初めとする日本各地の空襲被害を言うとき、<被害>については大きな声で指摘するのだが、そのような「被害・被爆」に至る過程において、1931年の「満州事変」に始まって(実は、それ以前からとも言えるのだが、わかりやすくするために「「満州事変」からにする)1945年8月15日までの日本(軍)のアジア各地における<加害>については、誰も指摘しないということである。兵士だけでなく「女・子供・老人」といった無辜の民が多数死傷したアメリカ軍による東京大空襲や広島・長崎への原爆投下などによる<被害>は、元を辿れば日本(軍)の中国への「侵略」の過程で行われた「南京大虐殺」や「重慶(無差別)爆撃」などの<加害>の結果であること、このことを「歴史の事実」として僕らは忘れるわけにはいかない。 安倍首相が強引に「安保法制=戦争法案」を推し進めようとしているのも、そのようなアジア太平洋戦争における<加害>の歴史について、認識していないからである(知らないフリをしているからである)。
 先の大戦への「痛切な反省」があって、その上で日本(軍)による被害を受けた国に対する「お詫び」があって、そしてここが重要だが、アメリカ軍による「無差別爆撃(広島・長崎への原爆投下を含む)を糾弾し、アメリカに「反省」を求める、そのような「毅然」とした態度を示すことこそ、安倍首相が好きな「未来志向」と言うことになると思うのだが、「アホ」な安倍さんには、残念だが、こんな原則など理解できないだろう

「虚しさ」との戦い(15)――あの安倍首相の空々しい「ヒロシマ・デー」での式辞

2015-08-06 09:23:14 | 仕事
 今日は8月6日、70年前の朝8時15分、広島上空500メートルの高さで原爆が爆発した。
 それ以前、7月16日、アメリカはニューメキシコ州の砂漠地帯の「トリニティ・サイト」(アラモゴード市から約300キロ、ニューメキシコ州の州都アルバカーキーから約500キロ)で、世界初の原爆実験を成功させていた。アメリカの原爆開発計画(いわゆる「マンハッタン計画」)は、当初ナチ・ドイツに対して使用することを目的に開発が急がれたものだが、原爆開発に成功する以前にナチ・ドイツが降伏したために、それは第二次世界大戦後の「冷戦」を見越して、日本が降伏しないうちに「実験的」に使用することが急がれたものであった。
 雨の降りしきるトリニティ・サイトでの核爆発実験の成功によって、それ以前から計画されていた日本での使用――紆余曲折があったが、市亜種雨滴に攻撃目標として、広島、小倉(現北九州市)、長崎、新潟、横浜の5都市が決まっていた。京都や函館などが候補地として検討されたこともあった――が急がれ、結果として広島、長崎へ投下された。
 結果として広島で14万人、長崎で7万人(いずれも、原爆投下後1ヶ月の統計)が犠牲となり、それ以上の被爆者が生まれた
 今日8月6日に執り行われた「平和式典」は、その破壊の限りを尽くされた広島の被害者(死者・被爆者)悼んでのものであったが、「安保法制=戦争法案」が参議院で審議されている今年であるにもかかわらず、式典での安倍首相のスピーチは昨年までと変わることなく(昨年、一昨年のコピーかとも思われるほどに)、ただ空念仏のように(本気ではないことが明々白々の)「核廃絶に向けて努力していく」というもので、「空々しさ」の極致を行くものと僕は受け取った。
 何故安倍首相の「核廃絶に向けて努力する」というスピーチが空々しいか、言い方を換えれば「心がこもっていないか」と言えば、昨日の参議院における「安保法制=戦争法案」の審議において、中谷防衛大臣はおよそ被爆国の政治家とは思えない「(安保法制)の法文上は、核ミサイルを自衛隊が運搬することも認められる」「劣化ウラン弾、クラスター爆弾、毒ガスも<弾薬>だから、法文上自衛隊が(米軍のために)運搬することは認められている」といった、驚くべきと言うか、ついに安倍自公内閣が進めてきた「安保法制=戦争法案」制定への「本音」が出たと言うか、とんでもない答弁を展開したのである。
 この中谷防衛大臣の「答弁」は、もちろん安倍首相の考えを代弁したものと考えてよく、「自衛隊が米軍の核ミサイルを運ぶことができる」というのは、国是としてきた「非核三原則」に違反するものであると同時に、安倍自公内閣が原発再稼働に固執することと考え合わせ、権力者たちは中国や北朝鮮の「核の脅威」を前面に押し出すことで、いよいよ「日本の核武装化」を日程に上らせたのではないか、と思わないわけにはいかない。
 先日、必要があって前に購入しておいた帯に「機密文書が明かす日本核武装計画」と刷り込んだ『原発と原爆―「日・米・英」核武装の暗闘』(有馬哲夫著 12年8月 文春新書)なる本を読んだ。これによると、地味党の歴代首相、岸信介(安倍首相の祖父)、佐藤栄作(安倍首相の大叔父)、田中角栄、中曽根康弘らが、読売新聞社主の正力松太郎(初代原子力委員会委員長)らと組んで、いかに「被爆国」日本を核武装化するか、に腐心してきたか、そしてその意思は現代の国粋主義(ナショナリスト)的政治家や経済人に引き継がれているということであった。
 以前から、「日本の核武装化」が一部の政治家によって画策されてきたと言うことは知っていたが、この本を読むまで、「日本の核武装化」は「憲法改正」と共に保守党(自民党)の悲願だということを知らなかった。ここが文学者の「弱い」ところだが、昨日の中谷防衛大臣の「(自衛隊の艦船で)米軍の核ミサイルを運搬することができる」という「安保法制=戦争法案」に対する野党の質問に対する答弁は、やはり「憲法違反」を承知で強引に「安保法制=戦争法案」(日本の核武装化)の成立を目指す安倍政権の「本音」が出た、と考えるべきで、そのことを知れば、今日の安倍首相の「核廃絶を目指す」という言葉が白々しく聞こえるのも、無理ではないだろう。 なお、勘違いしている人がいるかも知れないので、もう一度言うが、「安保法制=戦争法案」は、仮に日本が外国から攻撃されたときアメリカ軍が助けに来てくれるものではなく(例えば、中国の日本が戦端を開いたとき、僕は現在の米中関係を考えると、100%アメリカ軍は「中立」を決め込むと思う。もちろん、日本に存在する米軍基地が攻撃された場合は、その限りではないが)アメリカが始めた戦争を自衛隊が助けに行く法律だ、ということである
 誰が、こんな法律を認めるというのか。「反対」の意志を固めよう

「虚しさ」との戦い(14)――何を隠しているのだろう?

2015-08-01 09:17:01 | 仕事
 暑い、ともかく暑い。通常は、エアコン(クーラー)が余り好きでない僕は、書斎が2階にあるのをよいことに、窓を全開にして仕事机に向かうのだが、この頃は熱風が窓から入ってくるのに耐えきれず、エアコンを消したり点けたりしながら仕事をしている。
 そんな暑い毎日に拍車を掛けているのが、今週から審議入りした安保法制=戦争法案に対する政府(安倍首相)答弁であり、磯崎首相補佐官の「(安保法制に関しては)法的安定性など関係ない。時の情勢によって判断されるものだ」といった、安倍「アメリカ従属」内閣による集団的自衛権行使容認に関わる「本音」発言、あるいは昨日の報道ステーションに登場した「外交専門家・岡本行夫」の、「国の交戦権、これは認めない」とした憲法第9条を全く無視した、自衛隊が海外で諸外国(と言っても、それはアメリカ軍ということだろう)と共に活動するのは当たり前、というような発言である。
 これら安倍首相、磯崎補佐官、岡本行夫の発言から透けて見えるのは、「日米安保の強化」という建前の裏側で進められている「対米従属化の強化」である。アメリカと共に、あるいは「弱体化」しつつある軍事大国アメリカの「肩代わり」を日本がする、といった「ナショナリスト・安倍晋三」の思想信条とはおよそ相容れないような集団的自衛権の行使容認、ここには何が隠されているのだろう。
 おそらく、安倍首相が自己の思想信条を曲げてまで何が何でも安保法制=戦争法案を成立させたいと思っているのも、祖父の岸信介が内務官僚であった若き時代に(実は、戦後にもそれは引き続いた)夢見た「大東亜の覇者」を、自分が成り代わって実現しようと思ってのことである。口では、「いつでも会談する用意がある」といいながら、朝鮮半島の植民地支配や従軍慰安婦問題に関して、韓国(北朝鮮)に率直に「反省・謝罪の言葉」を発することなく、経済的優位に立っているからといって、居丈高に「上から目線」で対応し、中国に対しても「侵略」の事実を認めず(それは先のアジア太平洋戦争における「A級戦犯」を祀る靖国神社参拝へと通じている)、南沙諸島や尖閣諸島などの「領土」問題をことさら強調することで、「中国敵視」を煽る、といった「アジアの盟主」然とした態度に、それはよく現れている。
 言い方を換えれば、世に蔓延している(安倍首相ら「ナショナリスト」たちが蔓延させたとも言える)「嫌中」「嫌韓」を利用して、アメリカ(軍)の後ろ盾を強調しながら(集団的自衛権行使容認は、その一つの現れ)アジアにおいて主導権を握ろうとする「野望・野心」を実現しようとする強い意志、そこに国民(自衛隊)の生命など虫けらほどにも思っていない安倍首相の「本音」が見え隠れしている。その証拠に、誰が考えても、集団的自衛権を行使して自衛隊が米軍と共に戦闘(後方支援だって、戦闘行為の一部である)すれば、それはアメリカの「戦争」に自衛隊が参加することだから、これまでのアメリカ軍の中東やアフガニスタンでの行動を見れば分かるように、必ず「死者」が出ると思われるのに、「日本(自衛隊)のリスクは増えない」と強弁し続けている。
 また、安倍首相は、具体的な説明が無いままに「戦争に巻き込まれることは、絶対ない」、「徴兵制は全くあり得ない、今後もない」、「専守防衛の考えに、いささかの変更もない」と断言しているが、ではどのようなときに集団的自衛権は行使するのか、という問いに対しては、「(時の政府が)総合的に判断して」、とその行使容認が時の政府の「恣意性」に任される、といったあいまいな答弁しかしない。このような安倍首相の答弁(姿勢)は、補佐官を務める磯崎陽輔の「法的安定性は関係ない」とする発言と同じもので、「本音」がいみじくも発現した、と考えていいだろう。
 それにしても>、「聞く耳」を持たない愚かな権力亡者(安倍晋三)の「暴走」は、何としても止めなければならない。