黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

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ふざけた話です。――集団的自衛権抗しようにを巡る自公の動き

2014-06-30 10:54:07 | 近況
 先に、安倍晋三「極右」首相の意向を受けて、政府・自民党が提出した集団的自衛権行使容認をめぐる「与党協議」における公明党の「抵抗」もついに終わった、実に残念だと書き、その記事に関して石井(透)三がm「戦後最悪な威嚇」とコメントしてくれたことに関して、その時は、僕の記憶では例えば、「60年安保闘争」時の、安倍晋三首相のお祖父さん(岸信介)が率いていた内閣の方がもっと「悪い内閣」だったのではないか、という思いもあり、返事を書かなかったのだが、先週後半から週末に掛けての自民党(政府)と公明党の動きを見ていると、石井さんの断言は「正しかった」と確信を持つようになった。
 それというのも、先週土曜日の新聞が一斉に報じたが、集団的自衛権行使容認に関して、政府(国家安全保障局)が「想定問答集」を、まだ「閣議決定」前なのに用意しており、その「想定問答集」の中身を読むと、これまでの「10回」に及ぶ与党協議は何だったのか、国民をだますための「茶番」でしかなかったではないか、と強く思ったからに他ならない。つまり、「平和の党」という看板を掲げる公明党に、僕だけでなく国民全体が(公明との支持者や創価学会員たちも)「騙されていた」ということである。
 ともかく、「想定問答集」は、初めから安倍「極右」首相の意向に沿って、日本国憲法の「平和主義」など端から考えず、ひたすら「戦争のできる国」にするにはどうしたらいいかだけを推し進める目的にしたもので、安倍首相が記者会見で美辞麗句を並べて「国民の命と暮らしを守る」などと言っていたが、そんなのは全くの「嘘っぱち」で、ただ「アメリカ」に追随し、「世界の警察」としてその疲弊度をたかめてきたアメリカを「助ける」ために、闇雲に我が国を「戦争のできる国」をしようとするものだったのである。
 その意味では、自公連立政権を支える自民党、公明党の執行部(幹部たち、当然そこには創価学会の幹部たちも含まれるだろう)にとって、与党協議は国民の目を欺くための「隠れ蓑(カムフラージュ)」で、集団的自衛権行使容認は安倍首相が記者会見した時点で自公の間ですでに「既定事実」だったということである。
 だから、石井さんが現在の自公内閣を「戦後最悪内閣」というのは、その通りだと言わざるを得ないのである
 しかし、そんな「戦後最悪内閣」を作ってしまったのは、僕ら日本国民であること、そのことも忘れるわけにはいかない。このままでは、繰り返して言うが、「徴兵制」はすぐであり、日本の若者たちが戦場に出掛けていって、(アメリカの要請に従って)「敵国人」を殺し、また自分たちも殺されることになる。若者が「殺し・殺される」戦場に狩り出されたとき、「国のため」だからといって、若者を戦場に送り出した者たちがエアコンの効いた部屋でおいしいものを食べ、旨い酒を飲んでいることを想像してみれば、たとえ「甘い」と言われようが、「殺すな!」という反戦(平和)思想がいかに大切な僕らの論理と倫理であるかが分かるだろう。
 それにしても、「平和と民主主義」の戦後に育ってきた日本の若者たち(就中、自民党の若手や公明党の青年たち)は、集団的自衛権行使容認「反対」の狼煙をどうして上げないのだろうか。僕としては、君たちの子供が、孫が戦場に狩り出されるかも知れないというのに、「沈黙は罪だ!」と言いたい
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「権力」の魔力か?――ついに、公明党が集団的自衛権」行使容認

2014-06-27 09:35:48 | 近況
 font size="4">昨日から予感はしていたのだが、今朝の新聞やテレビが一斉に伝えた「公明党 山口代表、集団的自衛権容認へ」と言うニュースに接し、何ともやり切れない思いを抱かざるを得なかった。
 「やり切れない思い」、それは「平和の党」を僭称する公明党に、愚かにも「微かな望み」を抱いていた自分が情けないということもあったのだが、それ以上に、「権力」というものがいかに「魔力」に満ちたものであるか、それは「庶民」のささやかな希望や生活を簡単に踏みにじるということを、今度の公明党の「裏切り」によって、目の当たりにさせられたところから生じたものである。
 公明党山口代表は、これまでの「与党協議」で自民党(権力)の暴走(集団的自衛権行使)に一定の歯止めを掛けることができた、と国民を置き去りにしてきた与党協議(という名の「密室政治」)における公明党の「役割=成果」を強調していたが、山口代表は「弁護士=法律家」として政府(自民党)の「集団的自衛権行使容認論」は、本当に「健保違反」でなく、また「解釈改憲」でもなく、これまで歴代内閣が言明してきた「不行使論」の枠内に収まる論理だと思っているのだろうか。
 これまで、僕らが公明党に「微かな望み」を託してきたのは、山口代表が「弁護士出身」で、かつ公明党は「平和の党」を標榜してきたのだから、その「平和」の対極にある「戦争」を行う集団的自衛権行使に関しては、どんなことがあっても「反対」を貫くだろう、と思ってきたからに他ならない。
 それが、先の憲法で保障している基本的人権に「制限」を加える「特定秘密保護法案」の時と同じように、最初は「反対」の意思表示をしながら、最後には自民党案に賛成してしまう。
 第一、公明党は、根本に戻って、戦後一貫して守ってきた「平和主義」を根底から覆して「戦争のできる国」にする集団的自衛権行使容認を、果たして「閣議決定」などという政権与党の「行政組織」だけで決めていいのか、という問題をもう一度考えるべきである。つまり、国の根幹を支える「憲法」をこうも軽々しく「変更」(解釈改憲)していいのか、ということである。また、「何故今なのか、何故そのように急ぐのか」ということも、国民の大半が「急ぐ必要ない」「時間を掛けて議論すべきだ」と言っているのに、公明党は再考する必要がある。

 そのような「検討」を今しなければ、これまでの「与党協議」は、何だったのか、ということになる。安倍「極右」首相の「我意」を通すための「地ならし」を公明党はやってきただけではないか、という批判に公明党はどう答えるのか。
 ここから見えてくるのは">、「権力」(政権与党)というものが、いかに「蜜の味」に満ちたものであるか、そこに加わっていれば、その「蜜」のおこぼれに預かれる、ということである。公明党の支持母体である「創価学会」の会員が皆そう思っているのかどうかは分からない――近所の創価学会員たちの言動を見ていると、「赤(左翼)嫌い」ではあるけれど、少なくとも「戦争賛成」というわけではなく、真の意味で「庶民=情味」だな、と思う――が、公明党所属の政治家たち(代議士を筆頭に)は、「権力の旨み」=「蜜の味」についてはよく知っているのだろう、だから自民党と「連立」(というと、格好いいが、実は自民党の「補完物」=子分に成り下がっている)という美名を隠れ蓑に、どんな自民党の「ごり押し」も容認し、「蜜」のおこぼれをいただく、何とも情けない政党であり、政治家たちである。 
 若者たちが「兵士」になって、殺す-殺されるの戦場へ狩り出され、「戦死」して帰ってきたとき、公明党(自民党も)は何というのか。
 また、集団的自衛権行使容認の次にまっているのは、当然「徴兵制」である。そんな「戦争体制」になった日本国に対して、公明党(及び自民党)は、何というのだろうか
 
 
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こんな時代が来るなんて!

2014-06-25 09:12:19 | 近況
 ついに、と言うか、予定通り、と言うか、「平和と福祉の党」を標榜してきた公明党が、安倍「極右」自民党に押し切られる形で、「集団的自衛権行使」を認める閣議決定を受け入れる方向で党内調整に入ったというニュース。
 これで日本は戦後68年間守り続けてきた「平和主義」(日本国憲法第9条の精神)を放棄して「戦争のできる国」への第一歩を歩むことになった。安倍晋三が予て唱えてきた「戦後レジューム(枠組み・思想)からの脱却」がここに至って実現の第一歩を踏み出したということなのだろうが、つまり「日本国憲法」の精神(平和主義)を否定するこのようなこの国の根幹に関わる政策を、十分な国会論議や国民に信を問う行為(選挙)を抜きにして、閣議決定などという20人足らずの閣僚の「承認」だけで決めていいのかという議論、あるいは各種の世論調査や識者の意見の大半が「反対」の意思表示をしていることを無視しての閣議決定の速さについては、今は措くとして、野党はもちろん、自民党も公明党も、また集団的自衛権行使容認を謳っている日本維新の会やみんなの党なども、集団的自衛権行使の問題について、みな十分に「党内議論」を展開していないこと(もしかしたら内部で議論しているのかも知れないが、それが国民に伝わってこないこと)にかんしても、強い「危惧」の念を持つ。 これは、現在の安倍「極右」内閣がファシズム的傾向を強めていることの証の一つと言ってもいいのだが、特定秘密保護法やTPP参加問題などの重要案件の決定についてもそうなのだが、野党がバラバラになっていること、また近々に国政選挙がないことをいいことに、安倍自公政権が「国会論議」を軽視し、「好き放題」をやっているということに対して、それが「民主主義」の根本を否定するものだという認識が、政治家にも、経済人にも、また国民にも「ない」ということ、このことは思想的には、繰り返し言ってきているように「ニヒリズム」の蔓延を象徴していることだと僕は思うのだが、そのようなニヒリズムの蔓延にほとんどの人が「危機感」を抱いていないのは何故なのだろうか。
 たぶん、集団的自衛権行使容認も、またアベノミクスという「弱者切り捨て」の経済政策も、いずれは「悲劇」の結末を迎えると思うのだが、当面はこのままの形で進んでいくとして、しかし何ともやり切れない思いは消えることなく、どこにこの「怒り」をぶつければいいのか、正直に言えば、焦燥感が募るばかりである。
 そんな焦燥感に苛まれる日々にあって、この頃は卒業の季節を迎えた武漢(中国)の教え子たちから続々と「卒業」や「就職」の報告が入ってきて、彼女たちからのメールを読んでいると、教え子たちが「日本語科」の院生だからというわけではないと思うのだが、世話になった「感謝の言葉」と共に、日中関係の将来を心配する文面も散見され、教え子たちも教え子なりに緊張関係の続く日中関係に「心を痛めている」のだなと痛感する。
 中国の学生たちは、過去に日本帝国主義(軍国主義)が行ったことに対しては、厳しい(僕には正当と思える)歴史観を披瀝する一方、現代政治(外交)に関しては余り口を開かないのでなかなか「真意」は伝わってこないのだが、、尖閣諸島(釣魚島)は中国固有の領土と堅く思っている学生が大半である現状を考えると、日本で今進んでいる憲法無視の集団的自衛権行使容認というのは、明らかに中国(と北朝鮮)を「仮想敵国」としたものであるとの思いを強くするだろうし、再び「日中戦争」が起こるのではないか、という懸念や不安を持つのではないか、と思われる。
 それは、彼ら・彼女らが「敵視」政策が戦争への呼び水になり、「戦争」の反意語は「平和」ではなく、「共生」であることを、4000年、5000年という長い間の経験から学んできている、ということに繋がる。そして、繰り返して言うが、僕は僕の中国(武漢)の教え子が日中戦争の戦場に動員されることも、また僕の婿や孫が彼ら・彼女らと銃口を向け合うことにも、断固反対である。 
 「共生」の思想をいかに現実化するか、それが「戦争」を避ける唯一の方法(思想)であることは、他国の政治にアメリカが介入したことによって、結果的に「内戦」状態になっているイラク、シリア、、アフガニスタン、パキスタンの現状を見れば、明らかである。「共生」の思想は、「寛容」の精神から生まれるからである。 
 僕らは、このことの意味をもう一度確認する必要があるだろう。
 それにしても、世の中の動きに「敏感」なはずの学生たちの大方が、「沈黙」している現状、もしかしたら僕らの世代(全共闘世代)が「政治」にのめり込んでいったことの「後遺症」なのかな、とも思うが、自分たちが「殺す・殺される」戦場に出掛ける可能性のある集団的自衛権行使容認の動きに対して、何も意思表示しないのは、それだけ心身共に「去勢」されているということか、これもやり切れないな、と思う。
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今「戦争文学」を読むことの意味

2014-06-22 10:07:49 | 文学
 このごろは、『立松和平全小説』(全30巻+補卷1 勉誠出版)の巻尾を飾る大作『道元禅師』を収録する第29巻・第30巻の「解説・解題」を書くことに専念しているのだが、立松(の著作)に導かれて日本人の「モラル(道徳)」形成に重要な役割を果たしてきた「仏教」が、その存在意義を失ってきたが故に、現在大問題となっている「集団的自衛権行使容認」などという、まさに戦後69年間守り続けてきた日本国憲法の「平和主義」をうち捨てるような、モラルハザード(論理崩壊)が生じてきているのではないか、と思ったりしている。
 というのも、人間が生きている限り逃れることのできない「生老病死」のうち、人間がもっとも怖れるのは「死」であって、「死」への恐怖を消滅させることができたら、それこそ人間が抱く「悩み」の大半は解消するのではないか、と思うからである。「宗教(仏教)」の根底にある「救済」が「死からの解放」を意味するのも、誰もが「死にたくない」と思いながら、「死なざるを得ない」状況に追い込まれることが現代社会には多すぎるからに他ならない。そんな「死なざるを得ない状況」を象徴しているのが現代における「自殺」だと思うが、どのような形で行われるにしろ、「戦争」もまた「死」を強いられることの典型としてあることを、私たちは忘れてはならない
 僕は、このところずっと続いている「集団的自衛権」に関する「与党協議」の内容を見ていて、ある時から確信を持つようになったのだが、与党の国会議員たち、とりわけ「与党協議」に出席している自民党の幹部(高村正彦副総裁、石破茂幹事長ら)は、集団的自衛権を行使して、「世界の警察」を自認するアメリカが行う「戦争」――戦後の朝鮮戦争もベトナム戦争も、また中東戦争も、イラク戦争、アフガン戦争も、みなアメリカが仕掛け・介入した結果である――に日本が参加するようになれば、過去(歴史)が証明するように、必ず「死者」が出ること、そのことを捨象しているように思えてならない。
 不思議だと思うのは、彼らは自分たちの息子や娘、孫、ひ孫たちが戦場に出されることを想像しないのか、ということである。日清戦争以来、先のアジア太平洋戦争まで、乃木希典将軍の例を持ち出すまでもなく、高級将校たち「軍人」の家族は別にして、政治家や高級官僚の子弟が戦場の最前線に出て行って「戦死」したということは余り聞かない。余り公表されていないことで、うわさ話レベルのこともあると思うが、多くの場合、政治家や高級官僚は「政治力」を使って、自分たちの子弟が兵士にならないようにしてきた、という歴史がある。 だからなのか、国木田独歩の日清戦争従軍記である『愛弟通信』以来の「戦争文学」に書かれてきた「死者」あるいは「負傷者」は、その全てが「庶民」の息子であり、父親である。このことは、『戦争は文学にどう描かれてきたか』(2005年7月 八朔社)を書くときに、集中して読んだ戦争文学から学んだことだが、前に一度触れたことのある帚木蓬生(ははきぎ ほうせい)の「軍医たちの黙示録」と名打たれた『蠅の帝国』(2011年 新潮社)と『蛍の航跡』(同)を、一昨日、遅ればせながら読了し手、改めて痛感した。この2著は、北は満州から南は太平洋の島々まで、先のアジア太平洋戦争に動員され、敗戦によって幸いにも帰還することのできた軍医30人の「手記」を基に、それぞれ短編という形で仕上げたものを短編集にしたものであるが、それぞれの巻末に伏せられた「資料(手記)」の多さを見れば一目瞭然なのだが、作者は「資料」とした手記にできるだけ「忠実」に書いている(と思われる)。
 ここに出てくるのは、ヒロシマ・ナガサキの出来事を基にした「原爆文学」と同じように、夥しい数の死者」である。戦争というものが、特に「無謀」な戦争というものが、数多くの「悲劇=死者」しか生まないということを、この『蠅の帝国』と『蛍の航跡』は、これでもかこれでもか、と読者に訴えてくる。作品としては、抒情過多の傾向にあるな、物語の展開がワンパターンだな、という印象を免れないものと言っていいが、僕はこの二つの「軍医」を主人公=語り手とする短編集を読んでいる間、ずっとこの短編集を、集団的自衛権行使を認めさせようとしている安倍首相はじめ、高村自民党副総裁、石破幹事長らに読んで欲しいと思い続けてきた。
 戦争をすれば、必ず敵味方を問わず「死者」が出るのである。その「死者」を戦前のように「国のため」に仕方のないものと考えるか、それとも戦後69年間ずっと「戦争」をしてこなかった、つまり「戦争の死者」を出さなかった「平和主義」を大切なものと考えるか、僕は子供のため、孫のため、「反戦・平和」こそ「最高のモラル」であるとする思想的立場を堅持し、間違っても「目先の利益=経済・金儲け主義」を優先させるようなことは決してしまい、と思っている。
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数の力」の恐ろしさ――安倍内閣の暴走ぶりに関して。

2014-06-17 10:22:03 | 近況
 僕は決してスポーツ(観戦)嫌いというわけではなく、中学から高校に掛けて部活を熱心にやっていた柔道やラグビー、あるいは子供の頃に道具のないままにやっていた三角ベースボールが発展した野球、さらにはアメリカンフットボールやサッカーも、仕事の合間に「気晴らし」「休憩」の口実を設けて、家人や娘たちからの顰蹙を買いながらも、よく観戦してきた。
 しかし、日曜日の午前10時から始まったワールドカップの第一戦(コートジボワール戦―2:1で日本が敗退)を頂点とするマスコミ・ジャーナリズムの対応を(はしゃぎすぎ)を見ていると、サッカー・ファンの反発を承知で言うのだが、マスコミジャーナリズムにはこのサッカー・ワールドカップの開催を良いことに、何か「重大なこと」を隠蔽しようとする、あるいは軽視してもいいのだ、という意思があるのではないか、と思わざるを得ない。
 結論的(具体的)に言えば、マスコミジャーナリズムは(作られた、あるいは図分たちで作った)「サッカー・ワールドカップ熱」を利用して、安倍「極右」政権が強引に推し進めようとしている「集団的自衛権行使容認」や大企業優遇策としか思えない「法人税の減税」、あるいは日本の農業を圧殺する「TPP」の締結、さらには「教育改革」(首長による教育委員の任命や国立大学における学長の権限強化、等々)を隠蔽しようとしているのではないか。 また、これは「右派ジャーナリズム」を代表するフジ・産経グループだから仕方がないのかも知れないが、フジテレビの「特ダネ」という番組で、コートジボワール戦をテレビ観戦していない人に向かって、街頭やその他の場所で、「コートジボワール戦を見なくていいのですか?」「何でサッカーのワールドカップを見ないのですか」とインタビューし続け、あたかもコートジボワール戦を見ていない人間は「非国民」であるかのような扱いをしていたが、スポーツ観戦をするいないは、個人の「自由」で、ワールド・カップ戦を見ない人間は「非国民」などという論調は、まさに安倍「極右」内閣が、これほどまでに多くの国民・知識人が「問題がある」と言っている集団的自衛権行使容認を「強引」かつ「非論理」的に推し進めようとしていることと表裏一体なのではないか、と思われる。
 考えてみれば、現在各種の世論調査の結果が明らかなように、確かに安倍「極右」内閣の支持率は50%を超えているが、自民党が衆参両院で議員の数で「過半数」を占めていると言っても、これは選挙制度(小選挙区制)のマジックで、自民党の得票率は第二次安倍「極右」内閣が成立する以前と、そう大差がないもので、本来安倍「極右」内閣は、国民の半数以下しか支持していない、ということも理屈では成り立つのである
 にもかかわらず、安倍「極右」内閣は、「数の力」を頼りに「暴走」を続けている。何日前の「朝日新聞」に、加藤紘一や海部俊樹ら「元」自民党の幹部たちによる集団的自衛権行使容認論についての考えが載っていたが、全員「反対」を表明していた。また、自民党の岐阜県連も安倍首相の「拙速主義」を批判する声明を出した。自民党内の「リベラル派」が少しずつ声を上げ始めたという感じで、いまこそ自民党「リベラル派」の底力の見せ所だと思うが、安倍首相は「数の力」を頼りにこのまま「突っ走る」だろう。
 しかし、僕らは本当に「非道い」人間を首相に選んでしまったものである。先日の民主党海江田万里代表との「党首討論」においても、終始「上から目線」で、海江田さんの「集団的自衛権をみとめて、自衛隊が戦場に出掛けていき、戦死してもいいのですか。若者が戦争で死んでもいいのですか」という質問に、真正面から答えず、相変わらずリフレインの如く、現実的にはあり得ない「米艦による邦人救出云々」「日本人の命と暮らしを守る」を蕩々としゃべり、いかにも自分は「救世主」であるというような態度、本当にこの人のメンタリティはどうなっているのか、と思わざるを得なかった。
 もうこうなったら、「解釈改憲」などという姑息な手段を執らず、国会を解散して、堂々と国民に「信を問うべき」だと思うが、安倍首相にそんな「勇気」もなさそうで、僕らはとんでもない時代に生きているな、という実感だけが募る
 何とかしなければ、痛切に思う今日この頃である。サッカー・ワールドカップの予選突破は絶望的なようなので、ここは心を引き締めて、何としても安倍「極右」内閣の「暴走」を止めなければ、と思うのだが……。
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「歴史=事実」が蔑ろにされている!

2014-06-11 05:15:16 | 仕事
 どんな理由があってこのように「急ぐ」のか、全く理解できないが、各界各層から様々な「反対」意見が表明され、その「反対」の意思は各種の世論調査にも反映されているにもかかわらず、いよいよ安倍晋三「極右」首相に率いられた自民党のごり押しで、集団的自衛権行使容認が「閣議決定」されそうである。
 憲法に明記してある「戦争を拒絶してきた国」から「戦争をする国」へと、いとも簡単に「閣議決定」によって「転換」させられようとしている今日の状況、もうこれは「平和の党」を標榜する「与党」公明党に頼らざるを得ないところまで追いつめられているが、僕が不思議に思うのは、事ここに至っても自民党「良識派」の動きが全く伝わってこず、衆参で多数派を占める自民党議員の「全て」が安倍「極右」首相に同調・追随しているのか、ということである。
 アジア全域で2000万人、日本人の犠牲者は民間人を含めて350万人の犠牲者を生み出したアジア太平洋戦争の「反省」を踏まえて「平和と民主主義」を国民のコンセンサスとして出発した戦後社会、安倍首相は第一次安倍政権の時から「戦後レジュームからの脱却」を唱えていたが、「集団的自衛権の行使容認」というのは、明らかに「戦前=戦争のできる国」回帰であり、そんなアナクロニズム的思想を「戦後教育=平和教育」で育った自民党議員たちは、全員「良し」としているのだろうか?
 多くの国会議員が、ここで安倍首相(とその取り巻きたち)に「反旗」を翻したら、次の選挙で公認をもらえないと怖れているのかも知れないが、日本国憲法の一つの柱「平和主義」が骨抜きにされるという「歴史的転換点」にあって、自分の目先の「利益=自民党議員であり続ける」よりは、国民全体、あるいは日本国の在り方を考えて、安倍首相に「反旗」を翻して欲しい、と思う。「反対」が多数を占める各種世論調査の結果を考えれば、集団的自衛権行使容認に「反対」を表明した方が、もしかしたら次の選挙で当選する可能性が高いのではないかと思うが、そんなことを考える僕は「甘い」のか。
 斯様に、集団的自衛権行使容認に関しては「藁にもすがる」思いでいるのだが、そんな僕の心境に拍車を掛けたのが、横浜の中学3年生が長崎への修学旅行において、ナガサキの「語り部=被爆者」に対して、「死に損ないのくそじじい」と暴言を吐いたというニュースである。
 長崎への修学旅行ということで、平和公園や原爆資料館を訪れ、「ナガサキの被爆者=語り部」から長崎における原爆被害の状況や平和の尊うさについての話を聞くということを「計画」していたと思われ、当然「事前学習(平和学習も含む)」も行われたはずだと思うのだが、そのような「平和学習」を受けたはずの生徒たちから、被学者=語り部に対して「死に損ないのくそじじい」という言葉が発せられたという事実、この事実が示唆するのは二つのことである。
 一つは、被爆者=語り部に「死に損ないのくそじじい」というような「暴言」を平気で吐く中学生こそ、まさに安倍「極右」首相が集団的自衛権の行使容認をごり押しで「閣議決定」させようとする思想・社会状況の反映だということである。つまり、そんな安倍首相率いる内閣に「50%強」の支持率を与えている「経済」を最優先させる思想=金権主義に囚われている日本社会全体の状況が、件の中学生たちを生み出している、ということである
 このことは、僕が繰り返し言ってきている「ニヒリスト安倍晋三」と同じように、この社会全体がニヒリズムに覆われていることを意味し、流行語の「今でしょう」ではないが、「現在(いま)」しか考えていない人々が多くなっているということである。僕は安倍「極右」内閣に支持を表明する人々に問いたいのは、傲慢に聞こえるかも知れないが、あなたはあなたの息子や娘、あるいは孫を「戦場」に送り出したいのですか、集団的自衛権の行使を認めるということはそういうことですよ、分かっていますよね、ということである。
 二つめ、それは日本の戦後の「平和教育」が如何に形骸化したものになってしまっているか、ということである。もちろん、東京都の教育をすっかり「右傾化」した石原慎太郎元知事の例を出すまでもなく、アジア太平洋戦争への「反省」に基づく「平和学習」を「偏向教育」の名の下に弾圧して来た日本の教育行政の「結果」と言ってもいいのだが、件の中学生による暴言はまさに歴史=事実を蔑ろにする風潮の反映に他ならない。これは、日本の教育界において、保守派からの攻撃が激しいからという理由で、「近現代史教育」がきちんと行われていないこと、また受験教育の弊害とも言える高校における「日本史の未習」問題と深く関係してと思うが、いずれにしろ、「歴史=事実から遠ざかってところで行われたであろう(と推測する)形式的な「事前学習=平和学習」の結果が、件の中学生の暴言を生み出したのである。
 じずれにしろ、「絶望」的にならざるを得ないが、繰り返し言っているように「絶望」ばかりしていてもどうにもならない。ごまめの歯ぎしりかも知れないが、できるところから諸々の「右傾化」に反意を表明していこう、と最近は特に強く思っている。
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蕗採りに行ってきました。

2014-06-09 09:41:51 | 近況
 毎年6月の第1周と決めている「蕗採り」に行ってきました。毎年、友人・知人への贈呈用も含めて1年分の「きゃらぶき」を作るために必要な「山蕗」を新潟県(谷川岳の麓)まで取りに行くのだが、今年はいろいろスケジュールの都合があって、7日(土)と決めていたのだが、その日はあいにく梅雨入り直後の雨空、しかしこの日を逃すと夫婦二人で蕗採りに行ける日はなくなってしまうので、インターネットで新潟の天気予報頼りに結構。ネットでは、山沿いは朝方まで雨が残るかも知れないが、日中は曇り空、という予測であったので、朝の出発時間を投書の3:30から4:00に30分遅らせ、いざ出発。
 車中で家人と「国境のトンネルを越えるとそこは曇りだった」というのであればいいね、などと軽口をたたきながら、雨中に車を走らせ、5時過ぎに毎年来ている採集場所に着く。雨は降り続いていたが、小雨になってきていたので天気予報に期待して、途中のコンビニで買ったおにぎりで腹ごしらえをして、雨具(カッパ)に着替え、いざ山の中へ。
 例年なら、この時期は必ず僕らより先に採集に来た人たちの痕跡があるのに、今年は皆無、フクシマの放射能が新潟の山岳地帯で基準値を少し超える徒報道されたのは3年前、昨年今年と放射能は自然放射能に近いと報道されていたのにどうしたのかなと思いながら、もしかしたら梅雨入り宣言以後じっと雨が降り続いていたから、敬遠されたのかも知れないと思いつつ、大きく成長した「山蕗」を採る。1本1本根元から鎌で刈り、そして葉を落とす。山の蕗は大腿メートル四方ぐらいに群生しているので、疲れたら座り込んで、鎌で刈り、そしてそこが無くなれば次の群生地へ、そんなことを4回ほど繰り返して、家人と採ったものと合わせて収穫用コンテナに2箱ほど採ったところで終了。時計を見たらちょうど10時で、頃合いもいいので、蕗の群生地とは山道をを隔てて反対側の杉と象僕が混在している山には入り、「蕨」を採る。ここは、誰か先に入った人がいたようで、かき取られたあとが多数見つかったが、蕨というのは生存本能か、最初に芽を出したものが採られると、すぐ近くに再び芽を出すので、そこを狙い採集する。30分ほどで、袋一つ採れたので、身支度を調え、帰宅の途につく。
 途中、愚な間圏に入ったところで、日頃行き慣れている日帰り温泉(食塩泉)で昼食を取り、汗を流す。そのころになると日頃使っていない足の筋肉や背中の筋肉が痛くなり、もみほぐしながら、夕方からの「きゃらぶき作り」に備える。
 自宅に戻り、コーヒーを一杯飲んだあと「戦闘開始」。家人は、蕗を洗いながら、蕗特有の「毛羽」をとり、水を切るためにそれを新聞紙の上に、瞬く間に決して狭くない台所が蕗の山になる。「山蕗」は幸い、別名「水蕗」とも言い、料理に使う普通の蕗のように皮をむく必要が無く、煮ると柔らかくなるので、水を切った蕗を大腿3センチぐらいの長さに切りそろえ、大鍋に入れて煮る。その役目は「きゃらぶき」を作り始めてからずっと僕の役目。きゃらぶき作りの名人から教えてもらったレシピに忠実に、醤油、日本酒、煮干し、ザラメ(砂糖)を入れ、隠し味に沖縄の黒糖を4,5粒入れ、煮上がるまで4時間~5時間。コンロの両側にとろ火で拡販せずそのまま水が無くなるまで煮るのだが、早朝に出掛けたが故に睡魔に襲われ、それと最近のガスコンロは火災予防のために長時間点火したままにしておくと「自然消火」してくれるので、うっかり寝てしまうと何十分か火が消えたまま、ということにもなるので、とろ火で4時間以上といってもその間寝ているわけにはいかない。
 ちょっと油断すると、焦げ付かせてしまう。これまで何回焦がしてしまい、せっかく採ってきた蕗をダメにしたか。台所の隣の居間で横になりながら、タイマーが1時間毎に鳴り響くようにセットし、幸い今年は焦がすことはなかったが、鍋を換えること3回(全部で鍋6杯分)、朝の9時半まで掛かって終了。
 そのまえに、煮え具合を見ながら朝食は済ませていたので、12時まで爆睡。
 夕方、僕のきゃらぶきを毎年心待ちにしてくれている近所の友人宅に届ける。彼に言わせると、味は例年通りとのこと、安心する。そのあと、夜にテレビを見ながら、瓶詰め、袋詰めを行う。そうしてみると、量的には昨年と同じということが分かり、全ての作業を終える。
 結局、蕗採りから瓶詰めまで、7日(土曜)の早朝から8日(日曜)の夜まで、まるまる2日間かかったわけだが、何歳までこんな事ができるのか、できるだけ長く続けたいと思っているが、さてさてどうなることか?
 ともかく疲れた。しかし、心地よい疲れでもある。
 そして、毎年、採集から瓶詰めまで写真に撮っておけばと思うのだが、いざとなると忘れてしまうのは何故か?来年こそは、と思う。
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不可解なり、安倍首相(安倍内閣)の動向。

2014-06-06 09:01:26 | 近況
 前から思っていたことだが、最近とみに顕著になってきた安倍首相(安倍内閣)の何とも「不可解」な言動。
 その①:持説の集団的自衛権行使容認論を展開する際に、何故今「憲法第9条」の「平和主義」を否定するような「解釈改憲」によって集団的自衛権の行使を容認しようとするのかという「問い」に対して、戦後69年、世界及びアジア(特に東アジア)の情勢が変わってきたからと答え、その典型が中国の「覇権主義」(例として、尖閣諸島周辺の「挑発」行為や南沙諸島などにおけるフィリピンやベトナムとの領土争いをあげている)であり、北朝鮮の「核実験・ミサイル発射実験」であると言い、それらの中国と北朝鮮の最近の動向は日本に「敵対」するものであり、いざというときになったらアメリカの助けを借りなければならず、そのためにはアメリカ軍を自衛隊が助ける集団的自衛権が必要なのだ、という言い方をしてきた。
 しかし、「不可解」なのは、そのように中国・北朝鮮を「仮想敵国」として、いつ戦争になってもいい体制(それが集団的自衛権の行使)を作ることを急ぎながら、「積極的」であろうが無かろうが、「平和主義」を掲げるなら、もっと「外交努力」をしなければならないのに、その努力をしないまま、昨日の「G7」でも「中国非難(中国包囲網の主張)」を繰り返していることである。 
 それは、「絶対にイラク戦争やアフガン戦争のような戦場には出て行かない」と公言しながら、公明党との「与党協議」の場では、自衛隊が紛争地域のどこにでも出て行けるのが集団的自衛権だと主張する「矛盾」と相似で、「衣の袖から鎧が見えている」ようなことを平気で行う安倍政権の「真意」が全く理解できないということでもある
 そんな安倍首相(安倍内閣)の最近の動向について、僕は前に「現代版ニヒリズム」の現れではないかと書いたことがあるが、最近はますますそのような感想を持つことが多く、ニヒリストに僕たちの「運命」は託せない、という思いが最近は強くなっている。「ニヒリズム」というのは、基本的には「現在が良ければそれで良し、将来のことなど知らないよ」、「自分さえよければ、他人のことなどどうでもいい」、という考え方だと思うが、「美しい日本」と言い、「日本を取り戻す」と言ってきた(最近は影を潜めているが)安倍首相、集団的自衛権行使容認で、どんな「将来像」をこの国に描いているのだろうか?
 「戦争のできる国」になれば、ますます複雑さを増している国際情勢の下で、これまでの戦後史を見れば分かるように、必ずアメリカに引きづられて日本の軍隊(自衛隊)は「戦争」に出て行くことになる。だとすれば、自衛隊員の全員が「無傷」で帰還することなどあり得ない。必ずや、死傷者がでる。そんな戦死者には、戦前のように「弔意金・見舞金」に払い、遺族に「遺族年金」を払えばいい、とでも思っているのだろうか
 僕らは、戦後69年、自衛隊という名の軍隊を持ちながら、「憲法第9条」が存在していたが故に、一人の「戦死者」を出さなかったことを「誇り」に思うべきだし、今またその「意味」についてよく考えるべきである。「積極的平和主義」を唱える安倍首相は、そのことについて考えたことがないのだろうか。それとも、自分には子供がいない、従っても孫もできない、だから将来にわたって自分の血を引く人間が戦争に行くことはない。とでも思っているのだろうか。もしそうだとしたら、それこそ安倍首相は「ニヒリスト」の典型、ということになる。そんなニヒリストに僕らは自分たちの将来を託していいのか。いいわけがない。
 その②:これまで安倍首相(安倍政権)は、「北朝鮮の脅威」の言い続けてきた。それは、「核実験・ミサイル発射実験」に対する厳しい制裁という形で良く現れていたのだが、1週間ほど前の日朝協議によって突然「北朝鮮が拉致被害者の再調査に応じた」ということを、安倍首相自身が発表したこと、「裏」で何があったのかは全く不明だが、津考えてもその光景は「不自然」であり、「不可解」であるとしか思えなかった。
 もちろん、「拉致被害者」が日本に帰ってくること、これは喜ばしいことである。しかし、これまで「拉致被害者」の存在を「反北朝鮮」キャンペーンの最大の目玉として使ってきた日本政府(安倍政権)が、「拉致被害者の再調査」(マスコミに拠れば、すでに生存している拉致被害者の存在は明らかになっていて、日朝両国にとってもっとも都合のよいときに「公表」することになっている、という)ということだけで、ころりと態度を変え、「制裁」を解除する。「誰もが「狙い」は何なのか、と思うのではないだろうか。
 僕は、ここでも「対中敵視政策」が関係しているのではないか、と思っているが、それとは別に、「拉致被害者の帰国」によって国民を驚喜させ、そして長期政権を可能にし、その間に集団的自衛権行使を認めさせ、「極右」政策を次々と実現していく、そんな「姑息」としか思えない政治判断で日朝協議を行った、としか僕には考えられない。果たして本当に拉致被害者は生存していて日本に帰ってくるのだろうか
 というようなことで、何とも気分の悪い日々が続いているのだが、……。
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迫り来る徴兵制・その2

2014-06-01 09:40:27 | 近況
 以下の文は、このブログが混乱していたときに北海道の畏友から送られてきたもので、読者に伝えたいと思いながら、うまくコピーできずにいたものです。
 全便でお知らせしましたように、【黒古一夫のブログ」は快復し、今まで通り機能することが分かりましたので、やはり畏友からの頼り、できる限り多くの人に読んでもらいたいと思い、ここにコピーしました。
 これを読んではっきりしているのは、自民党の「右派」は、明らかに集団的自衛権行使の先に「徴兵制」を目論んでいることが分かります。
 ならば、僕らが今迫られているのは、「人殺し」の強要、つまり「戦争への道」を是認するか拒否するか、「人殺し」への参加を承認するか否認するかの瀬戸際に立っているということですし、さらに言えば、安倍首相の「国民の命と暮らしを守る」という言葉がいかに虚しいものであるか、ということです
 正念場、といえるでしょう。

【自民、徴兵制検討を示唆 5月めど、改憲案修正へ】
       =共同通信2010年3月4日

自民党憲法改正推進本部(本部長・保利耕輔前政調会長)は4日の会合で、徴兵制導入の検討を示唆するなど保守色を強く打ち出した論点を公表した。これを基に議論を進め、05年に策定した改憲草案に修正を加えて、憲法改正の手続きを定めた国民投票法が施行される5月までの成案取りまとめを目指す。

参院選を視野に、離反した保守層を呼び戻す狙いとみられる。ただ05年草案も徴兵制には踏み込んでおらず、「右派」色を強めたと受け取られる可能性もある。今後党内外で論議を呼ぶのは必至だ。

大島理森幹事長は4日夜に「論点は他の民主主義国家の現状を整理したにすぎない。わが党が徴兵制を検討することはない」と火消しを図るコメントを発表した。

論点では「国民の義務」の項目で、ドイツなどで憲法に国民の兵役義務が定められていると指摘した上で「民主主義国家における兵役義務の意味や軍隊と国民との関係について、さらに詰めた検討を行う必要がある」と記述。




―――――以上が共同通信の記事です。自民党、政府筋は躍起となって「誤報だ」とわめきたて、このニュースは宙に浮いた形になったようです。この間の事情は(マスコミ現役ではない)小生にはまったく不明ですが、共同通信以外の他のマスコミが別途取材して真偽を確かめ(共同通信記事は事実で、自民党・政府側が虚偽の誤報説を流したように思います)、共同通信支援に向かわなかったのか、すこぶるギモンです。他社が報じた「特ダネ」を無視する、マスコミの悪弊が災いして、自民党・政府側を利する結果となった―――――ように思えてなりません。むろん、私の憶測に違いありませんが、こうした例は現役時代にたくさん見聞きしてきましたから。いまからでも遅くないから、当時からの検証をしてもらいたいモンだと。おそらく自民党憲法草案の中に、徴兵制を可能にする仕掛けが施されているハズ(たとえば、憲法条文にはあからさまな徴兵の文言は盛らず、別途、法律をつくるとか)です。

 「徴兵制」が敷かれるというのは、いよいよもって日本が「戦争」の当事国になったことの証だが、そうなる前に「集団的自衛権行使容認」を認めない運動を如何に作り出すか、今は本当に(真剣に)考えなければならない時である、と言えるだろう。
 僕は、孫(小学校5年生)が戦場に出て行く姿を見たくない、と本気で思っている。だから余計に、子供のいない安倍首相の赤ん坊を抱いた母親の絵を使ったパネルでの「集団的自衛権行使容認」論は、いかさまだ、と思うのである。




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