僕の中では「久しぶり」という感じで、この欄を書こうとしているのだが、この間、遊んでいたわけではなく、連載中のアスパラクラブの原稿を2本(8月分:林京子と辻井喬)書き、『立松和平全小説』第8巻の解説・解題(25枚)を仕上げ、A5版650ページ余の『グランド・ゼロを書く―日本文学と原爆』(ジョン・トリート著 法政大学出版刊 9500円+税)の書評(5枚)を書いており、酷暑の中、クーラーもつけず頑張っていたのである(家人からは、何度もクーラーつけて仕事をしたら、と言われたのだが、何だか汗をだらだら流しながらの方が僕に似合っている、と思い込んでいる節があり、自然の風だけを頼りに、ときどき水シャワーを浴びて、何とか凌いでいた、というのが実情です)。
ところで、書評した『グランド・ゼロを書く』のことだが、この本は古くからの友人であるアメリカ人(現在エール大学教授、この本を書いた時はワシントン州立大学教授)が書いた「原爆文学論」で、原民喜・大田洋子から井伏鱒二・小田実・林京子らまで、原爆文学に関わる文学者について、「原爆を書く=表現する」とはどういうことか、そのことは世界史的に見てどのような意味があるのか、原爆文学を「日本」内部に閉じ込めておくのは間違いで、原爆文学こそ「世界文学」として正当(正統)に位置づけるべきである、というような明確なメッセージを持った本で、このような本が原爆をヒロシマ・ナガサキに落とした国であるアメリカの研究者によって書かれたこと、このことの意味は軽くないと思うと同時に、この本の中で繰り返し言及されたり引用されたりしている僕としては、多少面映ゆくもある本なのだが、未だに隠然たる形で「原爆タブー」が生きているような日本の出版界にあって、いくらかの「出版助成」があったとはいえ、刊行した法政大学出版の英断を快とすべきだと思っている。
亭か「9500円+税」というのは、いかにも効果だから、個人で購入するのは大変だろうと思うが、こういうホンこそ公共図書館で所蔵し、多くの人が読めるようにすべきなのではないか、と思う(しかし、図書館界でも「原爆タブー」は生きている節があり、あまり購入されていない印象を持つ)。
<閑話休題>
ここ2日ほどマスコミ・ジャーナリズムを騒がせている「辻元清美」、彼女がまだ早稲田の学生だったころのことを知っている僕としては、「清美、お前もか。何しているんだよ」と言いたくなる気持ちを抑えることができない。たぶん今も彼女は「理念=思想」よりは「感覚=情念」で動くという原則を守っているのだろうが、あれほど「正義感」(だけしかなかった、と言ったら代議士先生に失礼か?)にあふれていた彼女が、一度「権力」の魔力を知ったからって、社民党を離れて「無所属」に、だって。いずれ「政界再編」あるから、その時に備えて、みたいな言い方をしていたが、彼女を政治の世界に引っ張り出した土井たか子(と、彼女と親密であった小田実たち「旧べ平連」、と僕は思っている)が、周知のように「護憲」派の象徴みたいな人物であることを思うと、辻元清美は彼女にどのような「申し開き」をするのか。まさか「寄らば大樹の陰」とばかりに、「改憲派」が多数を占める民主党に入るのではないだろうと思うが、彼女が政界進出するきっかけになった「ピース・ボート」時代から、僕としては彼女のマキャベリック(政治的ご都合主義)な姿勢が気になったいたことを思い出し、やはり「お前もか」と言わざるを得ない気がしている昨日・今日である。
ところで、書評した『グランド・ゼロを書く』のことだが、この本は古くからの友人であるアメリカ人(現在エール大学教授、この本を書いた時はワシントン州立大学教授)が書いた「原爆文学論」で、原民喜・大田洋子から井伏鱒二・小田実・林京子らまで、原爆文学に関わる文学者について、「原爆を書く=表現する」とはどういうことか、そのことは世界史的に見てどのような意味があるのか、原爆文学を「日本」内部に閉じ込めておくのは間違いで、原爆文学こそ「世界文学」として正当(正統)に位置づけるべきである、というような明確なメッセージを持った本で、このような本が原爆をヒロシマ・ナガサキに落とした国であるアメリカの研究者によって書かれたこと、このことの意味は軽くないと思うと同時に、この本の中で繰り返し言及されたり引用されたりしている僕としては、多少面映ゆくもある本なのだが、未だに隠然たる形で「原爆タブー」が生きているような日本の出版界にあって、いくらかの「出版助成」があったとはいえ、刊行した法政大学出版の英断を快とすべきだと思っている。
亭か「9500円+税」というのは、いかにも効果だから、個人で購入するのは大変だろうと思うが、こういうホンこそ公共図書館で所蔵し、多くの人が読めるようにすべきなのではないか、と思う(しかし、図書館界でも「原爆タブー」は生きている節があり、あまり購入されていない印象を持つ)。
<閑話休題>
ここ2日ほどマスコミ・ジャーナリズムを騒がせている「辻元清美」、彼女がまだ早稲田の学生だったころのことを知っている僕としては、「清美、お前もか。何しているんだよ」と言いたくなる気持ちを抑えることができない。たぶん今も彼女は「理念=思想」よりは「感覚=情念」で動くという原則を守っているのだろうが、あれほど「正義感」(だけしかなかった、と言ったら代議士先生に失礼か?)にあふれていた彼女が、一度「権力」の魔力を知ったからって、社民党を離れて「無所属」に、だって。いずれ「政界再編」あるから、その時に備えて、みたいな言い方をしていたが、彼女を政治の世界に引っ張り出した土井たか子(と、彼女と親密であった小田実たち「旧べ平連」、と僕は思っている)が、周知のように「護憲」派の象徴みたいな人物であることを思うと、辻元清美は彼女にどのような「申し開き」をするのか。まさか「寄らば大樹の陰」とばかりに、「改憲派」が多数を占める民主党に入るのではないだろうと思うが、彼女が政界進出するきっかけになった「ピース・ボート」時代から、僕としては彼女のマキャベリック(政治的ご都合主義)な姿勢が気になったいたことを思い出し、やはり「お前もか」と言わざるを得ない気がしている昨日・今日である。