黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

ああ、いやだ!

2010-07-29 04:13:20 | 近況
 僕の中では「久しぶり」という感じで、この欄を書こうとしているのだが、この間、遊んでいたわけではなく、連載中のアスパラクラブの原稿を2本(8月分:林京子と辻井喬)書き、『立松和平全小説』第8巻の解説・解題(25枚)を仕上げ、A5版650ページ余の『グランド・ゼロを書く―日本文学と原爆』(ジョン・トリート著 法政大学出版刊 9500円+税)の書評(5枚)を書いており、酷暑の中、クーラーもつけず頑張っていたのである(家人からは、何度もクーラーつけて仕事をしたら、と言われたのだが、何だか汗をだらだら流しながらの方が僕に似合っている、と思い込んでいる節があり、自然の風だけを頼りに、ときどき水シャワーを浴びて、何とか凌いでいた、というのが実情です)。
 ところで、書評した『グランド・ゼロを書く』のことだが、この本は古くからの友人であるアメリカ人(現在エール大学教授、この本を書いた時はワシントン州立大学教授)が書いた「原爆文学論」で、原民喜・大田洋子から井伏鱒二・小田実・林京子らまで、原爆文学に関わる文学者について、「原爆を書く=表現する」とはどういうことか、そのことは世界史的に見てどのような意味があるのか、原爆文学を「日本」内部に閉じ込めておくのは間違いで、原爆文学こそ「世界文学」として正当(正統)に位置づけるべきである、というような明確なメッセージを持った本で、このような本が原爆をヒロシマ・ナガサキに落とした国であるアメリカの研究者によって書かれたこと、このことの意味は軽くないと思うと同時に、この本の中で繰り返し言及されたり引用されたりしている僕としては、多少面映ゆくもある本なのだが、未だに隠然たる形で「原爆タブー」が生きているような日本の出版界にあって、いくらかの「出版助成」があったとはいえ、刊行した法政大学出版の英断を快とすべきだと思っている。
 亭か「9500円+税」というのは、いかにも効果だから、個人で購入するのは大変だろうと思うが、こういうホンこそ公共図書館で所蔵し、多くの人が読めるようにすべきなのではないか、と思う(しかし、図書館界でも「原爆タブー」は生きている節があり、あまり購入されていない印象を持つ)。
<閑話休題>
 ここ2日ほどマスコミ・ジャーナリズムを騒がせている「辻元清美」、彼女がまだ早稲田の学生だったころのことを知っている僕としては、「清美、お前もか。何しているんだよ」と言いたくなる気持ちを抑えることができない。たぶん今も彼女は「理念=思想」よりは「感覚=情念」で動くという原則を守っているのだろうが、あれほど「正義感」(だけしかなかった、と言ったら代議士先生に失礼か?)にあふれていた彼女が、一度「権力」の魔力を知ったからって、社民党を離れて「無所属」に、だって。いずれ「政界再編」あるから、その時に備えて、みたいな言い方をしていたが、彼女を政治の世界に引っ張り出した土井たか子(と、彼女と親密であった小田実たち「旧べ平連」、と僕は思っている)が、周知のように「護憲」派の象徴みたいな人物であることを思うと、辻元清美は彼女にどのような「申し開き」をするのか。まさか「寄らば大樹の陰」とばかりに、「改憲派」が多数を占める民主党に入るのではないだろうと思うが、彼女が政界進出するきっかけになった「ピース・ボート」時代から、僕としては彼女のマキャベリック(政治的ご都合主義)な姿勢が気になったいたことを思い出し、やはり「お前もか」と言わざるを得ない気がしている昨日・今日である。

酷暑お見舞い申し上げます。

2010-07-21 19:46:01 | 仕事
 私事と暑さ逃れのために「東北」へ行ったというのに、盛岡に着いたら現地の人から「昨日から記録的な暑さです」と言われ、連休中の3日間(と今日まで)酷暑との戦いで、終日冷たい水ばかり飲んで過ごした。
 忙しい仕事(「立松和平全小説」の解説・解題の執筆、及びA5判600ページを超える『グランドゼロを書く―日本文学と原爆』(ジョン・トリート著 法政大学出版局刊)の書評、さらには自らの執筆に関する書誌作成、など)があるというのに、クーラーが嫌いなものだから、暑さに負けることを承知で、汗をだらだらかきながら、生活もだらだらと過ごすしかない状態になっている。
 ただ、僕が怠惰な時間を過ごしているのは、どうも「暑さ」だけのせいではないようで、社会の様子を見てもまた自分の内部を覗いてみても、何やらもやもやしたものがあって、一向にすっきりしないからのように思えてならない。お酒を飲める人は、酒でも飲んで「暑気払い」ということになるのだろうが、生憎ひとりで酒を飲むとビールを1本飲むことさえ困難な状態になり、「すっきり」どころか、余計もやもやが増すような気がしてしまう。
 私事は「慶事」でもあったので、家人とビールでも飲もうかと言うことになったのだが、二人で1本を飲むのがやっとで、その後はバタン・キュー。連休中の朗報と言えば、久しぶりに年上の尊敬する友人から送ったジャガイモのお礼が届き、元気に過ごしているとのことで、家人ともども喜んだのだが、それ以上のことは何もなし。
 別荘でもあればそこに逃げて、仕事をするのだろうが(情報によれば、かなり多くの大学教師たちは別荘を持っているようで、住まいに連絡などすると、返事がとんでもない山や海辺から来ることがある)、生憎そのような「成金趣味」も、また「余裕」もなく、「くそ!暑い」と嘆くばかり。
 でも、気分転換に井上ひさしの最新刊『1週間』(新潮社刊)を読んだのだが、これがなかなか面白い。朝日新聞のアスパラクラブ(WEB版)に月2回連載している「黒古一夫が選んだ現代文学の旗手たち」の7月は、村上春樹と井上ひさしなのだが、井上さんの作品は『父と暮らせば』を取り上げ、『1週間』は少ししか触れなかったが、いずれきちんと書かなければいけないのではないか、と思っている。(因みに、アスパラクラブの「現代文学の旗手たち」の8月分は、林京子と辻井喬を取り上げることになっている。この仕事はやってみると、なかなか面白く、長く続くことを願っているのだが、どうなることやら)
 ということで、久しぶりにこの『ブログ』を書いていたら、少し元気が出てきた。明日から頑張ろう。

うんざり!

2010-07-15 17:32:42 | 近況
 今尻に火がついたような状態で朝の5時から夜まで結構真面目に仕事をしている(原稿を書いている)が、気分転換に朝は新聞2紙を読み、昼はTVのワイドショウを、夕方と夜は各局のニュースを見る。
 そこで目にするのは、「民主党の内紛」「小沢派対反小沢派の暗闘」といった類の記事やニュースである。新聞記者もワイドショウのキャスターやコメンテーターも「もういいや」という気持ちにならないのだろうか。
 うんざりである。

侮ってはならない

2010-07-12 09:40:52 | 近況
 還暦を過ぎた今でもときどき反省して恐縮したり落ち込んだりするのだが、僕は本人が意図したかしなかったかは別にして、「対等・平等」の原理・原則を忘れて、人や世の中の情勢を「侮る」と、必ず「しっぺ返し」がある、と思って生きてきた。そのような考えがいつから生まれたか、それは定かではないが、仕事を辞め、田舎から大学院に通うようになり、その結果として最初の本が出版された頃だろうと思う。
 知り合いの紹介で修士論文が思わぬ形で本になり、あれよあれよという間に物書きの端くれとして批評や論文を書くようになって世界が広がり始めたころ、「市井に賢人あり」の例えではないが、肩書きや職業と関係なく世の中には自分より優れた人間がいる、あるいは学問(知識)などなくとも優れた技術や技(わざ)を持っている人がたくさんいる、という認識を得た頃からだろうか。
 それとも、1980年代初めに世界的な規模で展開された反核運動(日本では「核戦争に反対する文学者の声明」署名運動、など)を下働きとして手伝うようになって知り合った小田実の影響だろうか。小田実は、求められると色紙に好んで「人間みんなチョボチョボや」と書くほどに、「対等・平等」を生きようとしてきたが、その姿勢と思想にに感じ入るものがあると思って以降だったろうか(小田さんは身近に接すると、実際は違うのではないか、と思うことが多々あったが、建前としては一貫して「対等・平等」を謳い続け、その意味では感心させられる立派な態度であった)。
 いずれにしろ、居丈高な態度や傲慢な姿勢に対して敏感になり、自分ではおのれの生き方や考え方を律してきたつもりなのだが(とは言え、どうにも我慢がならない時、皮肉を飛ばしている間はいいのだが、ついには怒鳴ったり、高圧的な態度で接することがあり、それが他者からは「怖い」と思われる原因になっているのだろう)、残念ながら「凡人」ゆえの悲しさで、傲慢な態度や居丈高な姿勢に接するとついつい「腹を立てて」しまう。
 と、こんなことを書くのも、昨夜から本日の朝にかけて参議院選挙の速報を見ていて、予想通りとはいえ、改選第1党になった自民党が10か月前まで政権の座に就いていた頃の「失政」への反省もなく、言わば「敵失」で大量当選したと思われるのに、そのことについては口を閉ざし、みんな大声で笑っている姿に、「絶望」を感じたからに他ならない。選挙に勝つためには何でもする、例えば沖縄選挙区で自民党の女性候補は「普天間基地は県外に」と叫んでいたが、これではは鳩山前首相の「迷走」ぶりを自民党は批判できないと思ったが、そのようなことなど全く意に介さず、「万歳、万歳」を繰り返している自民党は、これから普天間基地移設問題をどうするのか。
 それに、唐突に「消費税を10パーセントに」と言い出した菅首相の、「市民運動出身」とは言いながら、長い間の永田町暮らしで「庶民の感覚」を忘れてしまった「傲慢さ」はさておき、なんだかんだ言っても「消費税10パーセント」を選挙公約として打ち出したのは自民党であったことを忘れたかのごとく、自民党に投票した国民の在り方もまた、自民党の民主党批判にうかうかと乗ってしまって恥じない「傲慢」=鈍感・思考停止なのではないか、と思わざるを得なかった。「消費税増税反対」が過半数を占めた昨日の参議院選挙の結果であるとするならば、仮に自民党が政権を取った場合、人々は消費税増税を認めるのだろうか。国民というのは、もともと「生活第一」だから、その意味では自分の生活に有利な道だけを選ぶという特性を持っているが、消費税増税をしないで、実際に財政破たんが起きたら、その時国民はどうするのか。増税に反対したのだから仕方がない、と思って全てを受け入れるのか。どうもみんな「ジコチュー」過ぎるような気がしてならないのだが、どうだろうか。
 因みに、僕の消費税に関する基本的なスタンスは、まず「無駄をなくす」ことを最優先させることが重要で、「増税」はそのような努力をしてからのことだ、と考えている。
 ともかく「傲慢さ」・「居丈高」が気になってならない。
 なお、そんな気がしてならなかったのも、昨夜見ていたTVで「勝利」した政党の責任者の言はともかくとして、彼らの言葉に便乗することが得策と判断したのか、各局のキャスターやコメンテーターの物言いがいかにも「傲慢・居丈高」に思われたからに他ならない。特にテレビ朝日の古館某とTBSの田丸某の言い方は、「国民の立場から」などとおためごかしの言い方をしていたが、その実は敗者に鞭打つやり方で、不快極まりなかった。なお、テレビ朝日の古舘の場合、以前から彼がMCを務める報道番組でどう見ても歪な意見を取材相手に押し付けたり、コメンテーターに無理やり自分の意見に押し付けたり、こいつ何様だと思っているのだ、という場面に度々遭遇していたので、ああまたか、とも思っていたのだが、昨夜の田丸某の態度には意外な印象を受けた。
 僕が頑なのか、彼らが偏向しているのか、どちらにしても「傲慢・居丈高」はご免こうむりたい。

腹が立つこと2,3

2010-07-09 04:54:27 | 近況
 ここ2,3週間ほどまじめに仕事(「立松和平・晩年の仕事」<15枚>「大法輪」、書評『良寛』<4枚>「週刊読書人」、「現代文学の旗手」第3回(村上春樹)・第4回(井上ひさし)<二回で6枚>「朝日新聞アスパラクラブ」、『立松和平全小説』第8巻開設・解題の下書き<24枚>)をし、また拙著を刊行してくれるという版元との打ち合わせなどがあり、併せてジャガイモが収穫期を迎えてきたので、半分ほど収穫し、友人・知人に送るなど、結構忙しい日々を送っていたので、参議院選挙が間近に迫っているというのに、それだけ自分の周りの「狭い世界」にしか注意が集中していなかったことについて、4時ごろ目覚めた寝床で半分ほど眠った頭で、しかし現在のご時世どうなっているのかしばし考え、そうしたら猛烈に腹が立ってきた。
 一つは昨夜つくばから帰宅してみていたTVで、参院選挙で応援演説している自民党の総裁や若手議員が、現代日本の苦境は全て民主党のせいだというようなことを言っていたが、別の僕は民主党の支持者ではないが、現代社会が抱えたの諸問題をつくった大本は60年以上にわたってこの国の政治を支配してきた保守党(自民党・のちに公明党が加わる)なのに、そのことについては全く頬かぶりして、悪いのは民主党という論調に終始している自民党という政党は、どうなっているのか、特に現在のような「格差社会」は5年余りの長きにわたってトップの座にあった父親(小泉純一郎)の政治によってもたらされたのに、そのことを知ってか知らずか(知っているんだろうな)、自衛隊の海外派遣や郵政民営化に象徴されるようなアメリカ追随政策を棚に上げ、普天間基地移設問題はあたかも民主党(鳩山前総理)の失政によってもたらされたものであるとか、「民主党のばらまき政策」こそ全ての問題の元凶だとするような物言い、過去をきちんと総括することなく、パフォーマンスで何とか現状をしのごうとする姿勢、考えていたら腹が立って腹が立って仕方がなくなった。
 それにしても、父親の時もそうであったが、「イケメン」だからってかつて(および現在)の自民党の政策を考慮することなく群がるこの国の有権者(とその予備軍)とは、何であるのか。赤字国債が膨大になった原因の一つに自衛隊の海外派遣があること、また毎年毎年3000億近い米軍への「思いやり予算」もまた、日本の借金を造ってきたこと、あの「イケメン」の小泉ジュニアはどう思っているのだろうか。腹が立つ。
 二つ目、これは前にも少しふれたことがあるのだが、サッカーのワールドカップ報道やそれに追随する「ファン」の「変わり身の早さ」にあきれるやら腹が立つやら。これは、世論調査に現れる政党支持率や内閣支持率の推移とも関連しているのだが、「岡田ジャパン」評価の揺れ、あまりにも酷過ぎないか。オリンピックに見られるように最近のスポーツが「ショ―化」していることの証なのだろうが、あまりにも勝敗にこだわり過ぎ、それが何とナショナリズムの高揚につながっているように思える昨今の風潮、スポーツも「もう一つの政治」として観戦しなければならなくなったら、腹が立つのを通り越して、悲しくないか。
 他に腹が立ったこと。私的なことだが、人の「善意」を利用して自分たちだけの利益をむさぼろうとする連中が、どうも僕の周りに横行しているように思えるようなことが、ここ何日かで2,3回あった。虫も殺さないような顔をして、他人のことなど関係なく自分の「利益」だけを追求する輩、自分が利用されていることが分かるから余計に腹が立って仕方がなかった。
 こう腹を立ててばかりいたら、絶対精神衛生上よくない。僕も立松和平にならって「全肯定の思想」を身につけるべく努力しなければならないのだろうな、たぶん。(「全肯定の思想」については、週刊読書人に書いた『良寛』の書評、および「大法輪」に書いた「立松和平・晩年の仕事」に詳しく書いたので、興味のある人はそちらを参照してください)

本が売れない!?

2010-07-07 05:24:42 | 仕事
 先日、予備校で仕事をしていたときに世話になった人と会うために東京・市谷に行った際、時間があったのでしばらく会っていなかった出版社の社長と久しぶりに会ったのだが、久闊を叙した後、彼の社長が何度も口にしたのは、最近は急激に出版した本の売り上げが落ちてきた、ということであった。
 この「出版不況」については、ジャーナリズムでも繰り返し取り上げていることであり、『村上龍』や『黒古一夫書評集』などの拙著を刊行してくれている勉誠出版の担当編集者や社長もよく口にしてきたことだが、久しぶりにお会いした出版社の経営者に話を聞くまで、学生たちや友人たちには「出版不況で大変なんだ」というようなことを話すことはあっても、正直言って、「出版不況」がそれほど深刻なものなのか切実には思わず、は他人事のように感じていた部分もないわけではなかった。
 本屋へ行けば、毎日毎日新しい本が平積みされ、新聞や雑誌でもベストセラーが喧伝され、例えば村上春樹の『1Q84』が3巻で3百数十万部も発行されていることなどを知れば、拙著の売れ行きは別にして、確かに「出版不況」という現実はあるのだろうが、そんなに切実なものではないのではないか、と思っていたのである。
 しかし、どうも学生たちの読書傾向や、先に訪問した知床で「記念碑」まで建立された立松和平の「文学」についてはあまり関心を持たれなかったというようなことについて、あるいは最近とみに話題になっているなという「I・pad」や電子書籍の問題について、改めて「出版不況」との関係で考えれば、先の出版社の社長の話と合わせて、どうも出版界に地殻変動が起こっていると考えるのが正しい認識なのではないか、と思わざるを得ないような状況にあるのかもしれない。
 しかし、本当に「本」がPCで読めるようになるから、これからは冊子本の需要が確実に減少するか、と言えば、確信的には言えないが、「違うのではないか」、と思わざるを得ない。つまり、木版画の時代から始まった「出版」という事業が、グーテンベルグの金属活字印刷術を得ることで飛躍的に伸長した歴史が、21世紀で息の根を止められ、冊子本から電子本に切り替わり、冊子本は図書館の「資料」として埃をかぶるようになるのか、ということである。
 確かに「電子本」はPC操作に慣れた人たちには便利だし、何よりも安価だ、ということがあり、需要はこれからますます増えていくだろうと予測される。しかし、この資本主義社会を支配している「利潤」追及という側面から考えた時、当然PC上で流通する電子本も「売れる」ということが至上命題とならざるを得ないが、そうなったとき「出版は水もの」と言われる根拠となってきた「どのような本が売れるか、出版してみなければわからない」というような問題はネグレクトされ、「売れる」作家の作品、「売れ筋」作品だけが、かつての(今も)ケータイ小説のように、PC上に氾濫するようになり、売れないけれど「いい本」は駆逐されるのではないか。また、「学術書」やそれに近い拙著のような文芸評論の本などはどうなるのか。そのあたりのことが全く不明なまま、「流行」に遅れないように、という風潮が蔓延しているようだが、そんな出版状況はいかがなものか、と思わざるを得ない。
 何よりも、「作家」がいなくなるのではないか、という懸念もある。

ボーダーレス時代

2010-07-02 17:22:46 | 文学
 朝日新聞「アスパラクラブ」に連載が始まった「黒古一夫が選ぶ現代文学の旗手たち」の第3回に村上春樹を取り上げ、その中心に何故『1Q84』はパート1~3を併せて驚異的な3百数十万部という発行部数が可能であったのかを置き、僕が日頃考えている「人気」の秘密について書いたのだが、改めて『1Q84』に目を通して気付いたのは、20年ほど前から言われてきて今では当たり前になっている「純文学」と「エンターテイメント」の垣根が本当に無くなってしまったのだ、ということであった。
 『1Q84』における「エンターテイメント」性のいい加減さ(アバウトさ・安易さ)や作品批評の恣意性については、昨年9月に『月光』に書いた原稿(発行は、今年の6月)で40枚ほどかけて詳しく批判しているので、そちらに譲るとして、今回改めてわかったのは、『1Q84』へのエンターテイメント性の導入について村上春樹が相当意図的だったということであり、それは現代文学の世界で「純文学」と「エンターテイメント」の境界が溶解し、ボーダーレスになっている現実をいかにも反映している、ということであった。
 つまり、DV(ドメスティック・バイオレンス)に苦しむ女性に代わって加害男性を「始末する=殺す」仕事人の登場や、ヤマギシ会やオウム真理教をほうふつとさせるカルト集団の登場、あるいはゴーストライターによって手を入れられた作品がベストセラーになる、といった小説的な装置は、僕などには「違和感」しかもたらさなかったが、多くの読者はそこに「敷居の低さ」を感じ、小説を読む楽しさ――これが危ういのは、ミステリーやホラー小説と同じレベルで『1Q84』が扱われ、この長編に底流するこの時代を生きる「不安」や「危機意識」がを感じ取れないままになってしまうことである(もちろん、そのような読み方だって「勝手で」、僕がとやかく言うことではないのかもしれないが)--。
 ともかく、この『1Q84』に象徴されるボーダーレス状態、これは現代社会のあらゆる場面で起こっていることであり、境界が溶解した社会で人間は今後どのような生き方をしたらいいのか、だんだん分からなくなってくる、ということがあるのではないだろうか。
 15年戦争下(満州事変から日中戦争を経て太平洋戦争に敗北するまで)において、世の中はずっと「不安」がキーワードになっていたということがあるが、あの時代と現代はアナロジーなのではないか、とときどき思う。例えば、現在参議院選挙の真っ最中であるが、消費税増税に関して、菅首相が「自民党案を参考に」といったことに象徴されるように、自民党と民主党の違いはどこにあるのか、あるいは自民党と「立ち上がれ日本」などの脱党組との違いは何なのか、いかにも「みんなの党」は自民党や民主党との差異を強調しているが、渡辺党首の言っていることは、かつて自民党に存在した「ハト派」の主張とどう違うのか。
 外国から見れば、どの政党も「五十歩百歩」に映じるのではないだろうか。特に現代の日本を覆う「日米合意」というゴーストに対する対応については、戦後65年、日米安保条約から50年、なんの変りもないというのは、いかに日本が「以後申し立て」のできない国になっているかを物語っており、ここにおいてボーダーレスは極まった、という感じである。せめて、僕のフィールドである「文学」の世界で、ボーダレスはボーダーレスとして、おのれの文学観に基づく「区分け」だけはしっかりやっていきたい、と思う。