昨日の東京新聞を見ていたら、文化欄に「社会時評」を連載している作家の高村薫が「戦争を遠い記憶にしない」と題して、8月が「戦争」や「戦争による死者」について考える月であり、年中行事化や風化が叫ばれているが今日であるが、8月6日・9日の「ヒロシマ・ナガサキ」から8月15日の敗戦記念日まで「記憶し続けることを自らに強制する」必要があると言い、次のように締め括っていた。
<戦争も核兵器も、私たちはいまのところ直接に体験することができないし、人 は体験しないものを心身に刻むことはできない。体験のない戦争について考える のはどこまでも理性であり、理性を発動させる意志である。今日薄れているのは 記憶よりも、私たちの理性と石田と思う。>
この高村の文章における「理性」を「論理」とし、「意志」を「反戦・反核の思想」と読み替えれば、彼女の考え方は僕の考え方に近いと言える。もっとも僕は、「戦争」(この場合は、「アジア・太平洋戦争」であって、日本が深く関わった戦争という意味で広く捉えられた、朝鮮戦争やベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争ならば、「間接的」ではあるが、それなりの体験をしている、と思っている)のことを考える場合、高村薫が言う「理性」と「意志」の他に、「想像力」が必要だと思っているが、それは現代人(特に若い世代)に戦争や核被害についての「想像力」がないが故に、高村薫が次のように言うような現象が起こっていると考えているからに他ならない。
<戦争があったことも知らない若い世代には、平和は退屈なものであるらしい。 彼らは未来の殲滅戦争と廃墟を描くアニメーションで非日常の夢を代弁させ、日 常の厳しい社会生活には「希望は戦争」という虚無で相対し、それもできなけれ ば、ネットの掲示板に「殺す」「破壊する」と書き連ねる。六十三年間も続く平 和は、戦争がつくりだす本ものの破壊と死のかわりに、架空の暴力を用意して、 人間の破壊願望を満たしているのである。そして、私たち社会もそれを黙認す る。>
更に言えば、もちろん「過去の戦争やヒロシマ・ナガサキ=歴史」から何も学んでこないのは、何も「若い世代」だけではない。「大人」たちだって学ばない人はたくさんいる。特に「政治家」の場合は、「選挙」ということがあるからなのだろうか、学ぼうとしない人たちが多い。「南京大虐殺は幻だ」などと戯けたことを声高に言い、「核武装論」を唱える、こんな政治家が一国の指導者であったり、自治体の首長であったりする。一般的には「不変=普遍」だと思われる思われている小中高の教科書だって、大江健三郎の「沖縄ノート」の記述に関する裁判が起これば、沖縄戦における「集団自決」の記述を改めることに象徴されているように、その記述が時々の「権力」に左右されるという現実、今年の「八月十五日」を明日に控えて、僕らはもう一度高村薫が言う「戦争を遠い記憶にしない」という言葉を改めて噛み締める必要があるのではないか。
いかに「戦争」や「ヒロシマ・ナガサキ」が人間の普通=当たり前の営みに版下出来事であり、それらをこの地上からなくすことはどんなに必要なことであるかについて、僕は二年前に『若い人向け」にということで、『戦争は文学にどう描かれてきたか』(1800円 八朔社)と『原爆は文学にどう描かれてきたか』(1600円 同)という2冊の本を同時に出したが、小さな出版社であるが故に、この2冊の本のことについては残念ながらあまり知られていない。読めば、いろいろ知らなかったことを知ることができるようになり、石原慎太郎などの言葉がいかにデマゴギーに満ちたものであるかが分かると思うのだが……。
<戦争も核兵器も、私たちはいまのところ直接に体験することができないし、人 は体験しないものを心身に刻むことはできない。体験のない戦争について考える のはどこまでも理性であり、理性を発動させる意志である。今日薄れているのは 記憶よりも、私たちの理性と石田と思う。>
この高村の文章における「理性」を「論理」とし、「意志」を「反戦・反核の思想」と読み替えれば、彼女の考え方は僕の考え方に近いと言える。もっとも僕は、「戦争」(この場合は、「アジア・太平洋戦争」であって、日本が深く関わった戦争という意味で広く捉えられた、朝鮮戦争やベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争ならば、「間接的」ではあるが、それなりの体験をしている、と思っている)のことを考える場合、高村薫が言う「理性」と「意志」の他に、「想像力」が必要だと思っているが、それは現代人(特に若い世代)に戦争や核被害についての「想像力」がないが故に、高村薫が次のように言うような現象が起こっていると考えているからに他ならない。
<戦争があったことも知らない若い世代には、平和は退屈なものであるらしい。 彼らは未来の殲滅戦争と廃墟を描くアニメーションで非日常の夢を代弁させ、日 常の厳しい社会生活には「希望は戦争」という虚無で相対し、それもできなけれ ば、ネットの掲示板に「殺す」「破壊する」と書き連ねる。六十三年間も続く平 和は、戦争がつくりだす本ものの破壊と死のかわりに、架空の暴力を用意して、 人間の破壊願望を満たしているのである。そして、私たち社会もそれを黙認す る。>
更に言えば、もちろん「過去の戦争やヒロシマ・ナガサキ=歴史」から何も学んでこないのは、何も「若い世代」だけではない。「大人」たちだって学ばない人はたくさんいる。特に「政治家」の場合は、「選挙」ということがあるからなのだろうか、学ぼうとしない人たちが多い。「南京大虐殺は幻だ」などと戯けたことを声高に言い、「核武装論」を唱える、こんな政治家が一国の指導者であったり、自治体の首長であったりする。一般的には「不変=普遍」だと思われる思われている小中高の教科書だって、大江健三郎の「沖縄ノート」の記述に関する裁判が起これば、沖縄戦における「集団自決」の記述を改めることに象徴されているように、その記述が時々の「権力」に左右されるという現実、今年の「八月十五日」を明日に控えて、僕らはもう一度高村薫が言う「戦争を遠い記憶にしない」という言葉を改めて噛み締める必要があるのではないか。
いかに「戦争」や「ヒロシマ・ナガサキ」が人間の普通=当たり前の営みに版下出来事であり、それらをこの地上からなくすことはどんなに必要なことであるかについて、僕は二年前に『若い人向け」にということで、『戦争は文学にどう描かれてきたか』(1800円 八朔社)と『原爆は文学にどう描かれてきたか』(1600円 同)という2冊の本を同時に出したが、小さな出版社であるが故に、この2冊の本のことについては残念ながらあまり知られていない。読めば、いろいろ知らなかったことを知ることができるようになり、石原慎太郎などの言葉がいかにデマゴギーに満ちたものであるかが分かると思うのだが……。