末期高齢者になってしまった老人の日記

我が家の花の写真を中心に、日々の暮らしの中で起きたこと等を書かせていただきます。

高野辰之記念館 その1

2015-06-04 16:25:53 | 旅行

高野辰之記念館の報告原稿を作っておきながら、掲載するのを忘れていましたので

遅れましたが掲載させて頂きます。

高野辰之記念館

 高野辰之記念館は、高野辰之の生涯と業績を顕彰するために、

辰之が学び教鞭をとった永田尋常小学校の跡地に、平成3年4月オープンした記念館です。

記念館にゆく階段

駐車場から記念館に行く階段の左右には、旧永田小学校跡地と高野辰之記念館と書かれた石碑があります。

旧永田小学校跡地石碑


高野辰之記念館石碑

 高野辰之記念館

記念館は純日本風の木造建築で、入り口正面の「ふるさとホール」を挟んで、

右側は商家風2階建て、生涯学習活動の場である「ふるさと民芸館」があり、

左側の記念館は平屋で、2棟の土蔵造りとなっています。年間約1万人が訪れているとのことです。

記念館全景

ふるさと民芸館入り口付近
 
展示室には辰之の生涯と業績紹介し、卒業証書や小学校時代のノート、家族への手紙を展示しています。


高野辰之について


高野辰之銅像

明治9年、長野県下水内郡豊田村(現中野市永江)の豪農家に生まれました。


移動中の車から撮った高野辰之の実家

辰之の歌の作詞、童話、学問や生活のすべての中に溢れる純粋一途な温かい人柄や

その大器となる基盤を育てたものの一つは、辰之を取り巻く豊かな自然環境であり、

もう一つは厳しさと慈愛に満ちた家庭環境でした。

家は代々農家でしたが、父親は優れた教養と高い道徳観の持ち主で、

小布施の豪商で有名な陽明学者、芸術家であった高井鴻山の開いた高井塾の塾生で、

農業のかたわらに月数回鴻山の元へ通い苦労しながら勉強に励んだ方でした。

辰之の本格的な文学研究は長野県師範学校卒業後の上田万年との出会いに始まりますが、

その文学好きは幼少年期からであり、14~15歳の当時日本文学全書24巻の第1編竹取物語、

伊勢物語から鎌倉、室町の近古文学まで読み通したそうです。

15歳で下水内高等学校を卒業し母校の永江小学校の教師を2年間勤め、長野師範に進学して4年間、

島木赤彦、太田水穂などとも交友を深め、和歌詩歌などを多く詠みました。

辰之は国文学における教育者でありながら、

日本のこころのふるさとを歌う「故郷」「紅葉」「朧月夜」など文部省唱歌の作詞もしました。

高野辰之と音楽

辰之は、明治の終わりから大正の始めにかけて作曲家岡野貞一と組み、

「日の丸の旗」「紅葉」「春が来た」「春の小川」「故郷」「朧月夜」などの作詞をしました。

日本人にながく愛唱されているこれらの歌には、故郷によせる優しい思いがこめられています。

辰之は、明治42年に文部省の小学校唱歌教科書編纂委員に委嘱され、

作曲者の岡野貞一とコンビで、今も多くの人に愛されている名唱歌を世に出しました。

また、全国各地の校歌100曲以上を作詞したことでも知られており、更に30編もの童話を書いています。

高野辰之が作詞した尋常小学校唱歌

日の丸の旗/白地に赤く、日の丸染めて・・・(一学年)、

紅葉/秋の夕日に照る山紅葉・・・(二学年)

春が来た/春が来た、春が来た・・・(三学年)、

春の小川/春の小川はさらさら長る・・・(四学年)

故郷/兎追ひしかの山・・・  朧月夜/菜の花畠に・・・(六学年)

高野辰之と文学

国文学者としては、国文学史教科書、近松門左衛門全集、日本歌謡史、浄瑠璃史、日本演劇史などの業績があり、

日本学士院賞を受賞しています。

高野辰之の学問観

辰之の学問の底流には「人間の喜びや悲しみの叫びが歌謡の起源、身振りは舞踊、物真似は演劇の起源」という考えがあります。 

『日本歌謡史』『江戸文学史』『日本演劇史』は代表的著作で、その研究は実証的で、資料の収集と検討分析に力を注ぎ、

日本の歌謡・演劇・民俗芸能の学術的研究に前人未踏の世界を開きました。

辰之は明治40年の覚書きの中で「その国の童話にはその国の国民思想がこもっている。

今日の小学校国語読本は、日本より外国の童話を多く採用している。

自分の屋敷の美しい朝顔に気付かないで、隣から貰った朝顔を眺めているようなもの・・・」と、嘆いています。

辰之はその頃、全国の小学校に依頼して各地に伝わる童話類の発掘をし、

その再話作品を凡そ50作、春陽堂から『家庭お伽話』として明治39年から45年にかけて発表しています。

高野辰之の斑山文庫

斑山と号された辰之は、古今の書画等を数多く収集しました。

大変貴重な物で、辰之は書画を保存するため、昭和3年に2階建土蔵造りの書庫を建て、

それを「斑山文庫」と称しました。文庫は昭和20年の東京大空襲にも耐え、貴重な品々を今に伝えています。

高野辰之の対雲山荘

昭和9年夏、辰之は野沢温泉の麻釜の近くに廃屋を求め、改造して別荘とし、これに「対雲山荘」と名付けました。

以後、毎年夏の間、大好きな温泉にたっぷりと浸かれる野沢温泉に家族とともに訪れ、

仕事や散策をしながら滞在していました。

昭和18年東京から住まいを移し、晩年はお気に入りの野沢温泉で悠々自適に暮らし、昭和22年1月、71歳で亡くなられました。