flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

多米元益城

2007-05-23 00:00:43 | 城郭・城下町

(豊橋市多米東町・多米町)
 赤岩山に連なる支丘端、標高72mの稲荷山と蝉川(朝倉川)の間に築かれた館城。
以前は城屋敷と称し、土塁に囲まれていたというが、現在は多米峠へ通じる県道と住宅地となり何も残らない。
隣接する稲荷山は現在開削され、二つに分断されている。
開削されるまでは、城屋敷跡側の斜面に削平地があった。また頂きには多米古墳群稲荷山支群があり、開削部分の2~4号の3基を平成13年に発掘調査した。
現在は1号墳が横穴式石室を開口し、残されている。この支丘の頂き部分にも、城の施設が存在しただろうと推測する。
 多米城の築城時期は定かでないが、当地の豪族、今川氏臣である多米又三郎が明応元年(1492)多米村南東雲谷村に船形山城を築城、明応八年(1499)戸田宗光が攻め、又三郎は討死にしている。
その後北条氏臣多米元益が多米城に居城し、その子元興は永正十二年(1515)城の近くに菩提寺として本顕寺を創建した。
天文五年(1536)多米元興は北条氏に従い武蔵青木城に移った。寺も同所三ッ沢に移転、豊顕寺と改められ、この地の多米氏の痕跡はなくなった。
 後に多米城は二連木戸田氏の持ち城となったともいわれている。
   

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