flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

ハコモノショードーガイ

2007-05-11 06:00:40 | kourei-ki-日記-
…ようやく学業の課題が終了した。
最後に残っていたのは「博物館学(資料論)」
実は私がいちばん内容を把握している教科なのだが、、、
故に考えすぎるのだろうか?

増えてきた教科書や参考書があふれる中。
ハコモノを見つけた。
…といっても、どこかの自治体行政なんとやらではなく、収納用具である。
私はナニカトしまうのが好き。
家中イレモノだらけで激狭となっている。

一見すると、どこかの図書館の雑誌最新号とバックナンバーを入れる棚のよう。
あまり使わないものを中に入れて、外のスタンドには、今勉強しているものを入れようと思っている。
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設楽郡川路村の諸城

2007-05-11 00:00:48 | 城郭・城下町
 設楽氏が正和元年(1312)振草庄設楽郷から設楽庄設楽村に移住したのが始まりとされる。そして周辺二十六村を領し、その一つである川路村に幾つかの城を築き、設楽家並びに臣小川路氏に守らせた。
これら川路諸城は、設楽氏が家康の関東移封に同行し、廃城となった。
 川路城と小川路城はよく混同される。川路(大坪)城は、字小川路に存在し、小川路城は字市場に存在する。よってこの記事では地名に添った名称を使用する。
(写真の一部は昭和58年以前のものも含む)

   
川路市場城(小川路城)
 川路字市場、南側に宮川が流れる地形を利用した城である。現在も、山林の部分では土塁が残っている。
昭和53年に訪れたとき、土塁から「芋の化石」と思い採集したものが我が家に残るが、今考えると、石の風化したものかと考えている。

   
小川路城(川路大坪城)
 字小川路、連吾川西側に位置する。
川路市場城と同じくして訪れたとき、土塁と井戸がみられた。
往時から縁のある地主のご婦人に、お鷹井戸等を案内していただき、昔は堀や土塁で囲まれていたこと等の説明をいただいた。(その説明を基に作図)また、米袋一杯の柿をお土産にいただいたことも思い出す。
 お鷹井戸の名の由来は、城主鷹狩り用の鷹をこの井戸水によって飼育したことに由来するという。
一部残されていた西側土塁上の標柱も、道の反対側に下ろされ、その土塁も削平されていた。


大久保兄弟陣地
 川路両城に程近い連吾川西岸に位置する。
天正三年(1575)設楽原の戦いのとき、徳川家康臣大久保忠世、忠佐兄弟が守っていた。

 
川路端城
 字端城、連吾川を北西側の天然の堀として利用している。
昭和53年に訪れたとき、果樹園であった地主の方から土塁の痕跡等のご説明を受けた。また、葡萄を頂戴したことを懐かしく思う。

 
 端城東側、字宮之脇には巴神社があり、正和元年(1312)設楽兵庫守によって川路村天王宮(後の巴神社)に神領二反六畝を寄進されている。
境内には五輪塔や宝筐印塔の残欠がみられる。
コメント (2)
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