flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

田丸城

2007-05-24 00:00:27 | 城郭・城下町
(玉丸城 度会郡玉城町)
 田丸の宿を暫く歩くと、やがて堀と石垣が見えてくる。
天正三年(1575)織田信雄が改修した城郭である。
登城口を少し上がった左側が御殿跡、今は田丸中学校となっている。
正面に保存された富士見門があり、右に進むと北の丸跡、回り込むと天守台の残る本丸跡に達する。
本丸北側には昭和6年に勧請された城山稲荷社が鎮座している。
江戸時代、久野氏の代に何度となく天災で石垣が壊れたという記録が藩文書によってわかる。本丸南側が二の丸跡。東側の石積みが崩れている。野面積みの維持保存の難しさが伝わってきた。
 田丸城は延元元年(1336)北畠親房が玉丸山に砦を築いたのが始まりとされる。
興国三年(康永元年1342)足利尊氏によって落城、北畠氏は一時、本拠一志郡多気に移ったが、応永二十一年(1414)再び玉丸城に戻っている。
 神領奉行として北畠氏臣の愛洲忠行、姓を改め田丸政勝、親忠、国忠、忠弘が守り、元亀元年(1570)北畠具房の養嗣子となった織田信雄によって城郭が拡大された。然し、天正四年(1576)信雄は北畠氏を殺害し、北畠勢力を塞いだ。そして飯南郡松ケ島城へ移った。
天正十二年(1584)北畠氏諸流田丸直息が蒲生氏臣として田丸城に入城するが、天正十八年(1590)奥羽須賀川へ移封。代わって稲葉重通が入城。元和二年(1616)には津藩代官支配、元和五年(1619)からは和歌山藩領となり、徳川頼宣家老久野宗成が入城、以後廃藩まで久野氏が続いた。
           
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