近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
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平成29年12月25日 原民喜「夏の花」研究発表

2017-12-26 11:02:46 | Weblog
 こんにちは。
12月25日に行われました、原民喜「夏の花」研究発表についてご報告いたします。
発表者は三年春日くん、一年中島くん、星くんです。
司会はまたもや三年長谷川です。

 今回の発表は、語る「私」の〈観察者としての眼〉と〈詩人の感性〉、結末部における一人称から三人称への変化に着目し、〈家族〉の物語、〈妻恋い〉の物語を読み取るものでした。

 質疑応答では、「N」のエピソードの挿入部分が果たして特権化された三人称の語りといえるのかという質問が出ました。詩の挿入以降、女中が死ぬまでは「私」の視点から語られており、「甥」のエピソードは伝聞として語られています。発表者は、一人称の語りが徐々に三人称的語りに変容してゆき、「N」のエピソードに至って「N」に内的焦点化し、彼にしか知りえない情報を語る三人称の語りに変化していると論じました。
 また、〈観察眼〉と〈詩人の感性〉を対極的なものとして捉える発表者に対し、対極的なものといえるのかという質問が出ました。これは発表者のなかでも意見がわかれたらしく、カタカナの詩に移行する場面を、散文表現の限界を感じ詩の表現に逃げたと捉えるか、表現を追い求めた結果として詩の表現に行きついたと捉えるかで議論になったそうです。
 発表者はカタカナ詩の効果について、「意味や形をはぎ取った音そのもの」であるカタカナによって「破壊され意味をはぎ取られ物質化された世界を雄弁に語っている」と論じました。これに対して先生から、カタカナは読みのスピードを遅延させ、ゆっくりと噛み締めるように享受させる効果もあるとのご指摘をいただきました。これによって、言葉が迫ってくるような喚起力が与えられるといいます。
 また、先生からは、被爆者に対する冷徹なまでの〈観察眼〉について、感情をあえてはぎ取り状況に溺れない語りを自分に強いる語り手の、書き記すことへの使命感・意識の強さについてのご意見をいただきました。他人を置き去りにしていく場面では、感情をあえて書かず、事態ののみを叙述していく背後に、「私」の感情世界が広がっているといいます。出来ること出来ないことを切り分けていく合理性の裏に見える「私」の並々ならぬ感情をこそ読み取らねばならないとのご指摘をいただきました。被害者を語る上で躊躇われるような言葉を淡々と記すことこそが誠実な姿勢なのかも知れません。これは以前扱った「いのちの初夜」にも通ずるものであると思います。
 当時の楽観的な考えを後から訂正せず、偽らざる当時の「私」の心境を語る誠実さについては発表者も着目するところでした。このような極限状態において家族のことを淡々と述べていくことにも、家族への感情のつながりが見えるといいます。
 最後に、今回の作品も時代性に目を向けざるを得ない作品であったとの感想が出ました。

 今回は、発表者が「第二次世界大戦時軍用施設配置図」を用意してきたため、「私」や「N」の辿った足跡を地図上に照らし合わせて見ることができました。避難の道のりや、広島を一望できる高台の情景を、より実感を持って読むことができるようになりました。

 2017年を締めくくるに相応しい、充実した内容の発表でした。今年度残る二回の例会も有意義なものといたしましょう。