近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

9/28泉鏡花「外科室」読書会

2015-10-06 23:52:58 | Weblog
こんばんは。二年の眞鍋です。
平成27年度後期のテーマは「耽美派とその周辺」です。第一回目の活動となる9月28日は、「外科室」の読書会を行いました。

まず、この作品の特徴として、(上)と(下)の二部構成となっていることが指摘されました。(下)の意味を考えるにあたって、
「実は好奇心の故に」、「忘れません」など、(上)のみでは解決のつかない表現がちりばめられており、(下)によって(上)が解釈されるような仕組みになっている。
時系列を逆にすることで、あえて(下)と(上)を直結させず、あくまで読者に補完させるスタイルをとっている。
高峰が実際に夫人に恋していたか、(下)において高峰が見た銀杏は果たして夫人だったか、「予は多くを謂はざるべし」として語り手は明言を避け、空白を作り出しているにも関わらず、読者はそう読まされてしまう。
という意見が出ました。

また、「高峰」「医学士」「貴船伯爵夫人」といった呼称についても注目しました。
外科手術の場面における高峰の呼称の揺れが指摘され、
麻酔無しの手術を決意してから、医学士としてのみでなく、高峰という一人の人間としての相対が、予を通して書かれるようになる。
という意見が出た上で、
(上)の最後のクライマックスの場面にも「医学士」という二人称が出てくるのはなぜか考えなければならない。
という問題提起がありました。

夫人に関しては、なぜ名前が与えられていないかという問いが出ました。それに対し、
予は身分的にも立場的にも伯爵夫人の名前を語り得ない存在である。
当時の結婚制度において夫人はあくまで貴船家の夫人として家に縛られ、自由のきかない立場にある。「外科室」が社会小説と評される由縁でもある。
予の親友である高峰が焦点化されているため。
といった意見が出ました。

他にも、夫人の死から尊厳を守るための切腹のイメージが連想されるといった意見や、予が(上)において既に(下)の出来事を想起し関連づけて語っているか否かが読み取れないといった意見もありました。
岡崎先生からは、作品の持つエロティスムにももっと目を向けるべきとのご指摘をいただきました。
せっかくの読書会なので、研究会とはまた違った雰囲気のなかで、個人の感受性豊かな読みを交換することもできればと思いました。研究発表にしても、今期はテーマが耽美派なので、美を享受する心は忘れないようにしたいと思います。