近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

平成28年12月5日 横光利一「時間」研究発表

2016-12-06 16:27:55 | Weblog

こんにちは。
本日の例会は横光利一「時間」を扱いました。そのご報告をさせていただきます。
発表者は三年眞鍋さん、山内さん。一年浦野さん、望月さんです。司会は三年小玉が務めさせていただきました。

今回は「『時間』論‐論理の超越‐」という題で発表をしていただきました。
先行研究において、「時間」という作品は直前に発表された「機械」と同一のテーマ、主体の問題を扱いながら、そこからいかに進展するかが議論の中心に置かれてきました。発表者は「機械」との比較検討の重要さを考慮しつつも、まず「時間」という作品単体を分析しなければならないと主張しました。

発表の要旨は、まず文体の特性として、逆説「しかし」や「ところが」という言葉が多分に用いられることをあげました。発表者は作品内における逆説の用いられ方が、「今まで正しいと考えられてきたこととは反対のことが、正しくなってくる」ものであると捉え、極限状態にあって、普段の論理が逆転してくる場が作品に用意されていると指摘し、状況が「私達」の意志を越えて展開しているのだと述べました。
また、十二人の集団における秩序を作り上げる法則、その象徴として波子をとらえました。それも、物語当初は集団の目的地である駅までの道中、逃亡資金である「十円紙幣」を持っていることに起因します。が、結末部において、「十円紙幣」の有無は問題にならず、「病人」という性質において集団の動力となります。波子は切り捨てられる存在から、集団を動かす存在へと意味を変転させていることを確認しつつ、一人一人の個性が描かれながらもその性質は物語内に反映されず、「私」さえも集団という一個に自然と組み込まれていく、その自己解体と集団生成が自然と書かれていると指摘しました。
そうして、「時間」は「私」が眠りへと落ち込んでいく最中にあって見出した「恐るべき怪物の面貌」でありました。発表者はこれを論理で話を進めてきた「私」にも語れない、論理を超越するものであるととらえました。その結末部において、「助かった」と感じるのは、すなわち論理的に「助かった」と判断するのではなく、高揚した気分がそう感じさせているに過ぎないとしますが、「羅漢」という宗教性を帯びた表現と響きあい、体感として救済のある文章だと主張しました。


質疑では、まず「私」を除く七人の男たちの性格が開示されている点についてより深い意味を見いだせないか意見が出ました。これに対し、個々の性格は書かれているが、それぞれの個性はその集団の中において無意味化されているのだと発表者は主張しました。そもそも、それぞれの個性を描いた文章は、人物の一側面に過ぎず、当然のように書かれた文章を裏切っていく面も持ち合わせている。つまり、性格を開示されながらも、その文章が文脈の中で行くようにも裏切られていくのだと述べました。この点はさらに、近代の文章であれば人物に設定された性格は裏切られることがほとんどないが、現代文章はそこから脱却している。つまり、その設定も裏切られていくことがあるということを先生の方から付け加えていただきました。
また別に、「私」という語り手がいつ語っているのかという議論も交わされました。逼迫した状況下でこれだけ冷静に物事を分析できることに疑問を呈し、物語の進行に応じて語っているのではないのではないかという意見でした。これに発表者は、文章は大多数が現在形で書かれており、過去を回想しながら書いているのではないこと。極限状態にあって、思考だけが働き、まさに今感得しているのだということを主張されました。また、先生からは、山本亮介氏の論文でも用いられているベルクソンの「純粋持続」を持ち出され、今「私」が直感していることそのものが、この小説の題名でもある「時間」という感覚であると指摘していただきました。

その他、文章構成や集団から捨てられない波子にある種の希望を見出す意見など、さまざまに意見が交わされました。

以上、簡単ではありますが報告とさせていただきます。

来週は内田百閒「道連」です。