近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

平成28年12月19日 梶井基次郎「闇の絵巻」研究発表

2016-12-20 19:32:06 | Weblog
こんにちは。12月19日に行われました梶井基次郎「闇の絵巻」研究発表についてのご報告をさせていただきます。
発表者は二年長谷川さん、一年野口さんです。司会は二年吉野が務めさせていただきました。

「闇の絵巻」は梶井の湯ヶ島滞在時の体験から執筆された作品とされており、作者の言及が書簡などに多く残っています。
そのため先行研究では「冬の蠅」「蒼穹」など湯ヶ島時代の他作品との比較や、成立論などの作家論に基づいたものが多く見られました。
その中でも梶井が「闇」というテーマを重要視していたことについて、幅広い解釈がなされていました。
また、近年の論文では構造的読解を行う古閑論や樫原論なども見受けられます。
今回の発表では、副題を「作中で語られる『闇』」とし、そのような語る「私」語られる「私」に着目しながら、作品の大きなテーマである「闇」について考察がなされました。

発表要旨としては、まず「闇」の定義・「闇」がどう語られているかが着目されました。作中冒頭では闇に対し「爽快な戦慄」「絶望への情熱」という言葉が使用されます。そして「絶望への情熱」を捨てると闇は「苦渋や不安や恐怖」の対象から、「深い安堵」「爽やかな安息」を感じるものと変化していきます。向き合い方によって「闇」が別の表情を見せることが指摘されました。
本テクストは「語る現在→語られる過去(療養時代)→語る現在」という構造となっており、その過去の場面では闇は光と共に語られていきます。
通常は対義語として使用される闇と光が相互に強調される関係として語られることにより、一般的な価値観を転換させるような事物の捉え方が描かれた作品であると述べられました。
また、回想場面での「私」が光の存在しない闇に初めて向き合うことにより、「私」は闇から安息を得る条件のひとつを満たしたが、現在の「私」がいる光のある都会では安息を得るには至らないのではないか・「闇を愛することを覚えた」という療養地での体験は、つまり「闇を知る」ことであったのではないか、と主張されました。


質疑応答では、まず作中において「白」「光」の対になる表現として「闇」という言葉が用いられている点が指摘されました。作中での「闇」は奥行きや濃淡のあるものとして語られていると考えられます。また、「語る現在→語られる過去→語る現在」という構造をとることで、語りの変化はあるか、それに関して前半では闇の街道を「今も新しい印象で思い出す」などと語られていたのに、後半では「いつ見ても変わらない」などと語られているのはどういうことかなどの考察も行われました。特にこの闇の街道についての語られる内容の違いは、発表者の中でも意見が割れたところであり、「今」というのは都会から見ると闇の街道が「新しい印象で思い出される」ということであり、闇の街道の景色そのものは「いつ見ても変わらない」ものではないかと考察されました。
他にも、「闇と光という言葉は対義語ではなく相対的関係ではないか」という質問も挙げられました。それに対しては先生から、「対義語というイメージで語られているという偏見を転換させるような小説なのではないだろうか」というご指摘を頂きました。
近代的感覚の基礎である視覚が制限され、聴覚や嗅覚・視覚さえも光の下とは違う形で鋭敏化する「闇」の世界を語ることであたかも「光」のみのような理智的世界から開放され「闇」「光」両方が存在するということを引き受けていく物語なのではないかと結論されました。


他にも「私」の存在する時制や場所の違い・回想の最後に登場する霧の夜についてなど様々な視点からの意見が交わされました。

以上、簡単にではありますが、報告させていただきました。

次回は年が明けてからの活動となります。作品は大江健三郎「孤独な青年の休暇」です。

平成28年11月31日 川端康成「伊豆の踊子」研究発表

2016-12-20 18:09:01 | Weblog

続きまして、遅ればせながら、10月31日に行われました、川端康成「伊豆の踊子」読書会についてご報告致します。
発表者は三年山内さん、二年鷹觜さん、一年望月くんです。司会は二年長谷川が務めさせていただきました。

「伊豆の踊子」は言わずと知れた川端康成の代表作のひとつです。
研究初期は作者と語り手とを結び付けて論じる、作家論的なものが多く見られます。これらの論では「孤児根性」の解消が重大な問題となっており、この言葉が、肉親を相次いで亡くした作者川端と語り手とを結び付ける原因となっています。研究史の転換点となったのは、上田渡論です。「孤児根性」の解消に拘泥しても、〈私〉の物語内容を読むことができても、テクスト全体を読むことはできないと指摘しています。
今回の発表では、「孤児根性」の解放という読解を解体する要素を拾い上げながら、「孤児根性からの解放物語」という読みが否定された後の本作をいかに読んでいくかという点に論点を絞って考察がなされました。
「伊豆の踊子」をいかに読むかということに論点が絞られたため、副題は「読者の目」とされています。

発表要旨としては、まず、語りの形式についての考察がなされました。本作は一人称過去回想体で語られていきますが、時間構造の操作がなされず、語られる「私」の思い違いがそのまま語られていき、一人称過去回想体という形式が主張されません。これらは、読者とテクストの距離を縮め、語られる「私」と旅の時間を共有するような効果を持っていると考察がなされました。こうした語りの特徴が、「孤児根性からの解放物語」を読者に素直に受容させてしまう要因の一端を担っていると結論付けられました。
発表者は、「孤児根性からの解放物語」として「伊豆の踊子」を読むことは、「私」の主観に取り込まれてしまっているという意見を認めつつも、語る「私」が「孤児根性からの解放物語」を目指したからには、そういった読みをすることも大切なのではないかという問題を提起しました。
「孤児根性からの物語」を解体していくことが、本作を鑑賞する態度として望ましいのか、「孤児根性からの解放物語」が「私」
の誤解だとしても、「私」の誤解を承知した上で、「孤児根性からの解放物語」を語る「私」を肯定的に評価することの可能性についてを発表者は主張しました。

質疑応答では、まず、「孤児根性からの解放物語」として「伊豆の踊子」を読んでいくことについての検討に拘泥したあまり、先行研究への問題提起に留まり、作品の考察に至っていない点について指摘されました。
旅芸人への差別意識から逃れ得ず物語を閉じる点、「私」の独善性が書き込まれている点、語られる「私」が「何も考えていなかった」ことが語られる点から、これらを暴くものとして作品が意図されているという意見が出ました。語る「私」は、語られる「私」のこれらをそのまま提示することによって、語る「私」の問題点を暴いてゆくと考えられます。
また、今年の後期テーマが「旅の文学」であることもあり、本作における「旅」についての討論がなされました。本作には地名や時間が精密に書き込まれており、旅であるという意識がはっきりと書き込まれています。旅芸人にとっての「旅」は生活の一部ですが、「私」にとってはあくまで消費される娯楽に過ぎず、こういった認識の差も、語る「私」が暴き出している要素であるという意見が出ました。
語る「私」の語り方によって、語られる「私」の問題点が暴き出されるテクストとして、「伊豆の踊子」は重要な意義を持つという結論に至りました。

今回の発表では、先行研究の問題点を精密に検討した点が評価されていました。しかし、その先の作品考察こそが重要であると気付かされました。

平成28年6月27日 岡本かの子「家霊」読書会

2016-12-20 17:32:12 | Weblog
こんにちは。
更新が大変遅れてしまい、申し訳ございません。
6月27日に行われました、岡本かの子「家霊」読書会についてご報告致します。
司会は二年長谷川が務めさせていただきました。

歌人として知られる岡本かの子ですが、晩年には数々の小説作品を世に生み出しました。
昭和十四年一月に「新潮」にて発表され、同年三月に中央公論社発行の『老妓抄』に収められたこの作品は、昭和十四年二月十八日に亡くなった岡本かの子の生前最後の作品です。
同時代には、同年同月に発表された「鮨」(初出「文芸」昭和十四年一月)との関連から「高いいのちへのあこがれ」を指摘した川端康成評があります。
タイトルとなっている〈家霊〉は、かの子と交流のあった同時代の文芸評論家亀井勝一郎が「雛妓」についての言及で触れて以来、岡本かの子の小説を読み解く上で重要な要素と見做されており、多くの先行研究で触れられています。〈家霊〉という語は当時から一般的に認知されていた語ではなく、かの子の造語だとする論も多く見られます。論者ごとに定義もさまざまで、この語の解釈が論を方向付けるものとなります。
研究初期は豪商の旧家大貫家の長女として生まれ、仏教に傾倒したかの子と〈家霊〉を結び付ける、作家論的な研究が多く見られます。
先行研究としては、〈いのちの呼応〉を通じたくめ子と徳永の交感によって自らの存在根拠・生きていく意志を描き出したとする論、職業婦人としてのくめ子に着目し、それに挫折し女番人となったくめ子を同時代の資料と比較しつつ論じたものなどがあります。
その他の論点としては、作中で語られるいのち、老いや若さについて。職業婦人から家長不在の女番人へと転身を遂げるくめ子について、そのことに対する諦めや宿命について。帳場の内外という空間的構造について。作中に書かれる「作者」や、老人の語る行為について。などが挙げられています。

読書会では、まず、山の手と下町の交叉点に作品の舞台が設定されていることについての意見が出ました。山の手と下町、新旧が交叉する場所は、堆積した時間が入り混じった場所として作中で機能しているのではないかというものです。これに対し、〈家霊〉という言葉も、堆積した時間をあらわしたものではないかという意見が出ました。本作において、時間が重要な意味を持つのではないかという方向に話がまとまりました。これに対し、先生が作品が書かれた当時の時代背景についての補足をしてくださりました。
次に、母と徳永の交感が、くめ子と青年たちの交感と照応し、登場人物が構図的に描かれているという意見が出ました。これに対し、くめ子と青年たちの交感については具体的に書かれていないという問題点が浮上しました。これには、くめ子と青年たちとの交感を敢えて書ききらないことで、連綿と続く宿命を予感させる効果があるという意見が出ました。
これに関連して、登場人物のあり方に関する意見が多く出ました。くめ子の母という生きがいを失ってもなお生き続ける徳永の生への執着が指摘されました。次に、くめ子の徳永に対する嫌悪感、そこからの印象の変化についてが論点になり、くめ子の心情の変化を読み取ることの重要性が浮き上がりました。また、くめ子の諦めの中にはせめてもの慰め、救いがふくまれていることを読み飛ばしてはならないことを先生に指摘していただきました。本作は堆積する伝統に対するくめ子の意識が変化する物語であるという結論に至りました。
「作者」の登場意義については、特権的な情報を書き込む存在として重要な意義をもつのではないかという意見が出ました。また、老人の語りには誇張表現が多く含まれており、これにはいのちの堆積を語り継ごうとする老人の意志が読み取れるという意見が出ました。

読書会ということもあり、論点が多岐に渡りましたが、積極的な発言がなされ、有意義な討論になったと思います。