近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
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太宰治「姥捨」の読書会

2012-09-25 16:25:29 | Weblog
昨日は後期初の例会で、太宰治の「姥捨」の読書会を行いました。

「姥捨」は太宰治作品の中では中期にあたる作品で、内容が作家太宰の生活に一致していたり、「東京八景」における、「やがて『姥捨』という作品が出来た。Hと水上温泉に行った時の事を、正直に書いた」という記述をたよりに主に作家太宰の身辺小説として読まれてきました。

しかし、近年では作家太宰と主人公の嘉七を切り離した作品としても研究が進んでいるため、例会では「語り手による三人称の語りと嘉七による一人称の語りの二重構造」がみられることや、「嘉七の〈死〉に対する意識」などについて主に話し合いました。

作品構造としては、三人称の語り手が物語を語っていくなかで地の文に嘉七の一人称の語りが見られるため、嘉七による一人称の私小説を思わせる構造となっています。この三人称の語り手は嘉七の内面に関する叙述は詳しく語っているものの、かず枝の内面に関する叙述は一切なされていなません。かず枝は〈死〉を目前に控えていながら、はしゃいだ様子を見せたり、映画のギャグに笑い興じていたり、あまりにも楽天的であると言えます。。しかし、その振る舞いが自然なものなのか気丈に振る舞っていただけなのかはわからず、かず枝の〈死〉に対する理由なども読み取りにくいものとなっていました。

そのため、語り手という観点に関しては語り手による語りと嘉七による語りには矛盾が見られるかなどをより深く検討していく必要があるという結論に達しました。

また、嘉七の〈生〉と〈死〉に対する気持ちの揺れが見られました。そのため、嘉七のかず枝に対する気持ちの変化が多く見られ、嘉七が何に苦しんでいるのか、かず枝と心中しなければならなら理由、かず枝と別れなければならない理由というものもはっきりしないものとなっていました。

このように登場人物の内面の描写はあいまいなものが多く、物語のテーマもわかりにくいとものとなっている作品でした。これは私の考えですが、この辺に太宰治の描写のうまさが見られるのではないかと思います。

私自身初めての司会でこうしてブログを更新するのも初めてなのでわかりにくい内容となってしまったと思いますが、活動報告とさせていただきます。

後期から幹事としてやらなければならないことが多々あると思いますが、会員みんなで協力し合って近研の活動を盛り上げていきたいと思いますので、今後ともよろしくお願いします。

日文 3年 根本倭多留