Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ご指摘に

2010年02月18日 | ダンス
中西理の大阪日記「We danceについての論評」にて、ぼくがWe dance以後ここに書いたことで中西さんからご指摘があった。ご指摘には感謝します。ありがとうございました。ぼくが見たきたまりによる「みんなの体操」は、振り付けが伊藤千枝であるからして、ぼくの批判はきたまりではなく伊藤に向けるべきではないかというのが、中西さんの指摘のおおよその趣旨と理解した。本当のところぼくはそのあたりの事情が分からなかったので、この指摘は謹んで受けて、この点に関して間違いを反省しようと思う。この点については、過去のブログの文章も訂正します。また、ぼくはきたまりの横浜ダンスコレクションRで賞を受賞した作品も横浜では見ていない(昨年のWe danceでの上演は見た。それをもって見たことにしていいとは思っていないけれど)。そういう意味では、きたまりの近年の作家性を批判する資格はぼくにはないのかもしれない。あと、きたまり個人を攻撃しようなどとはまったく思っていない。ぼくはあの場にいて、なんだかいたたまれない気持ちになったということその気持ちをもとに考えたことについて書いた。あと、伊藤千枝に対して向けるべき批判を批判しやすそうなきたまりに対してしたのではないかという推測は、上述したとおりのことなので、あたっていない。こうなると、伊藤千枝が実施した1日目を見ていないので、この振り付けが本来どのようなものとして投げられようとしていたのかは、よく分からないというのが正直なところだ(きたまりが踊ったのが伊藤の振り付けだからといって、伊藤のアイディアが完全に表現されているとは限らない。振り付けにあまりというか全然はっとしなかったという印象は撤回しようがないけれど)。この議論をさらに煽るつもりは基本的にないのだけれど、ぼくはひとの振り付けだから全面的に振り付けたひとに責任があるとは思わない、とくに今回のことに関して。ぼくの目にただの「お遊戯」に見えたことについては、きたまりにまったく責任がないといったらきたまりに失礼だと思う。ただやれといわれたからやりましたなんてことじゃないはず、だから。誰か作家が自分の名を掲げて舞台に立つ時に、コンセプチュアルではないということはないんじゃないか、作家だったら。きたまりが踊るんだったらどう踊るんだろう、とひとは思って見るだろう。そういう期待を見る者が抱かない存在なのだとしたら、彼女は「きたまり」じゃなくて「ただの振り付けられたひと」、になってしまう。「きたまり」という名はひとつのコンセプトではないのか、と思う。(繰り返しますが、たまたまいまきたまりが話題になっているだけできたまり個人を傷つけようとして書いているものではありません。)例えば、仮に、「昨日伊藤さんはここんとここう踊ってましたけど、わたしはこう踊りたいんです。」なんてトークや振りの実演があったりなどしたら、場はぐっと立体的になり、きたまりという作家の作家性は(振付家と対話する作家というニュアンスも加味されて)こうしたちょっとしたところでも充分に示されたことだろう(もちろん、こうするのが正解でこうしなきゃだめだなんていってません、例えばです)。そうしたこと考えるといいんじゃないかと思うよ、ぼくは。

あと、すでにちょっと触れたことでもあるし、このエントリーにとって蛇足なポイントなのだけれど、中西さんが憶測している点に関して、自分の身には覚えがない。あらためてリンクを貼ったり出典を示したりなどする必要はないと思うのだけれど、ぼくは自分の思うところをただ書いている。関西系だから批判したのではというのはだからぼくは身に覚えがなく、伊藤千枝(珍しいキノコ舞踊団)についてもコンドルズについてもファンが読んだらあまりよい気分がしないかもしれない内容のことを書いてきた。ひょっとしたらひとからぼくが応援団のように見られているかもしれない大橋可也の活動に関しても、ぼくはいいと思ったらいいといい、ここはどうなんだと思えばここはどうなんだといってきた。ダンスに限ったことではなく、ぼくはChim↑Pomについても快快についても、基本的に作家としての方向や性格について魅力を感じているものたちについても、不十分に思えたりしたらそう書いてきた。その点は分かって欲しい。

ただ、今回の書いたものに事実誤認があったことは、素直に反省したい。

捩子の試行

2010年02月16日 | ダンス
ぼくは2/14にWe dance会場で見た、捩子ぴじんの試みをこう感じ考えた。メモ。

1時頃の上演。
13:30ごろに着く。捩子の会場に入ろうとすると、廊下で(つまりなかが見えない状態で)小泉篤宏以外楽器の弾けないメンバーで楽器を演奏しているのだという。ギターの音がなんだか誰が弾いている以前にサンガツになっていて、そのこととか気になりながら廊下で耳を澄ませていた。

2時頃の上演。
捩子が床に白いビニールテープを貼っている。コースが造られているようだ。トベとかハシレとか指示も書いてある。その作業が一通り終わると、まず捩子が自分でそのコースを実行してみる。コースのなかにはただビニールテープがゆるくこまかいねじれをおことながら3メートルほど敷かれているところなどあったり、実行者の解釈が求められるところがある(言いかえれば、どう読み取ればいいのか分からないケージの楽譜みたいな状態)。捩子の後、神村、小泉、新鋪の順で、それぞれその場ではじめて見る床に直書きのスコアを実行してゆく。観客は捩子の実践を一回見ているので、この3人よりもこのコースを知っていて、ここでサスペンスを感じるのは観客と言うよりも3人のパフォーマーという仕組みになっている。どう読み取ればいい?と戸惑いながら、それぞれその場でスコアを読み取りながら、進めていく。答えがない実践というのは基本として、解釈の多様性を3人のいちいちの振る舞いを通して味わっていくというのが、観客の快楽として設定されている気がした。そして、このコースのアイディアは、恐らく、ジャドソン系のスコアにインスパイアされているところが強いと思われ、あらためて、ジャドソン的なアイディアというのは、時間の問題にはアクセスしているけれど、そこに意味の問題をあまり加味させないんだよなと思わされた。ポップアート、つまり身ぶり、ポーズなどのイメージをここに入れ込んでもよいのかな、と思ってみていた。

3時頃の上演。
2人ひと組で、ひとりが頭の中であるポーズをイメージし、もうひとりがそのイメージをあてようとポーズを決めてみるというゲームを行った。他人の頭の中を類推させるという意味では、例えば、アコンチの「苗床」を思い出しながら見ていた。当たり前だけれど、ヒントがゼロなので、全然あたらず、いじめのような雰囲気になり(「ちがいます」と言いづける者と、そう言われ続けながらポーズしていく者と、どちらもきつそうだった)、苦しい。次第に、がんばってえんえんとポーズを探し当てようとしている者のポーズ探し当て能力が意識されてくる。「このひとってこういう想像力のひとなんだ」って思って見続ける。その苦労の時間は、ダンスとかなんとかは関係なく、なかなか面白い瞬間をいくつも含んでいた。

ダンス周辺の誰がテン年代の想像力を発揮する?

2010年02月16日 | ダンス
ぼくは、決してきたまりというひと個人を批判したいのではない。「なんとなくああいう時間がつづいていく」ことの意味を誰がどんな風にちゃんと考えているのだろうか、ということが気になるのだ。あの姿勢はいうなれば「同人」的だと思う。そういう趣味の人たちが楽しんでやっている場所、という意味で。でも実態は「同人」ではなく「助成」だ。「同人」とは、社会的な価値うんぬんには関係ないかもしれないけれど個人的にそういうのが好きで表現したいからやっています、同じ興味を持つ人同士で、というものだとして、それが「助成」されてすすめられているということに、何の疑問も持たないのだとすると、なんかそれはどうだろう?という気になる。助成金、うまいこともってきて楽しいことやろうよ!という気分があるならそれはちょっと分かる。助成されること自体を批判するつもりはない。けど、助成されているのに事実上「同人」というのは、例えば、(同人誌の話で言えば)BL(ボーイズ・ラブ)を助成金使って書いてたら、そりゃちょっとなと書いている本人は思うだろう、きっと。そういうこと思わないのかな、と。そう思わないのは、自分たちが〈アートという崇高なもの〉を実践しているという自負があるからだろうか。そういう思いこみが消えるならば、アートなんて言葉なくなっちゃえばいいのに。

自分の体(自分の従う流派、スタイル)に向き合っているただそれだけでは、あなたのしていることは個人的趣味です。

踊っていることに快楽を感じている間は、恐らく、その行為はアートとはまったく何の関係もないです。

他人の身体に、振る舞いに興味をもって、それを自分の身体に反映させようとしてはじめて、何かが始まるのではないでしょうか。

反映、反省、批評性、こうしたことが存在しないものはアートではないし、同人的、動物的でしかない。はやくそこから脱するべきです。

いや、自分たちは「同人」だと思いなして、例えば「同人ダンス」を自称するべきかもしれない。自称するというのはひとつの批評的な振る舞いではあるから。

もっとダンスというものは、ひとを幸福に出来ると思う。

ダンスというものについて新しいアイディアをこらすことで、(当人だけではなく)ひとはより幸福になると思う。

そのことを誰かが真剣に考えたら、そのひとはイチヌケ出来る(ひとを幸福に出来るし、自分を幸福に出来る)。

真剣に考えたらいいのに!

例えば、遠藤一郎に、ほふく前進のパフォーマンスを実践されてしまったことに対して、「あちゃちゃちゃ、やられちゃたよ~」と思うコンテンポラリーダンスの作家はいないのか?

ダンスの作家やダンサーに田口行弘や蓮沼執太に相当する存在はいないのか。Chim↑Pomや遠藤一郎や快快に相当する存在は。いや、彼らを凌駕する素晴らしく魅力的な人間観を提示してくれる誰か(の作品)に、ぼくは出会いたい。そうじゃなきゃ、ね、なんだか。

We dance→蓮沼執太

2010年02月15日 | ダンス
早朝に大学の仕事をネットカフェでして(大学のシステムがマックユーザーに優しくなくて)、午前に車を走らせ出の顔を拝みに行き、そして午後は横浜へ。

We dance 2010を見に。

捩子ぴじんの実験的な作品上演を3本見た。きたまりの「みんなで体操」を見た。手塚夏子の「試行と交換」を頭の十分だけ見て、山田うんと鈴木ユキオのダンスをそれぞれ十分くらい見て、岸井大輔の会/議/体に五分だけ参加することになって、というのがぼくの今回のWe danceだった。ずっと考えていたのは、ここにあるダンスではなくここにないダンスのこと。ここにあるはずでしかし事実としては存在していないダンスは何か。「同人ダンス」とか「萌えコン」とか「twittanz」とかいろいろと思い描いた。ダンスはどうしてここまで自己探求型なんだろう、どうしてそんなに「自己」というものを大事にしてしまうのだろう。「Life/Like」というタイトルが気になる。どうして「自分の人生」「自分の好きなもの」に固執するのだろう。どうして自己批評性に乏しいのだろう。社会との接点をもっと見出そうとしないのだろう。あるいはどうしてあまり自己批評せずに自分のダンスは社会的価値があると思ってしまうのだろう(助成金とかなくなれば、前進するのかな)。誰かがそうした自家中毒からイチヌケして、社会が求めているダンスを踊り出したら、この膠着状態はあっという間に解消されてしまうのではないだろうか、なんて夢見ながら東横線。いま『シアターアーツ』に寄稿するために昨年のダンスを回顧する原稿を書いているので、なおさらそんなことぶつぶつと考えていた。

自分たちのしていることは自己満でまったくもって恥ずかしいと思うところから、その挫折から創造性は出発するのかもしれない。踊ることのナルシシズムから踊りを解放することが出来たらと願う。

捩子ぴじんのは、ジャドソンやヴィト・アコンチといった60-70年代の方法的な取り組みを確認していくような作品だった。ぼくはぜひ、そこにポップアートへの考察も加えて欲しい(簡単に言えばイメージの問題)と思ってみていたけれど、でも、少なくともいままで行ってきたこととはそうとう違うことをここでやってみようという気概が感じられてなんだかうれしかった。

なんでもっと社会にコミットしないのだろう。しようとしているがセンスがなくてこの状態、ということか(補足すると、会議を開いて、みんなでひとから送られていた悩みをなるべく具体的に解決するという企画を実行した岸井大輔は、まさに社会的だった)。きたまりの「みんなで体操」は、ぼくは切なかった。これが横浜ダンスコレクションRで賞を取ったコレオグラファーの「体操」なのか???どこにもオリジナリティを感じることが出来ない。いや、ぼくはべつにオリジナリティなんてなくていいと思っている、オリジナルよりもコピーの方が重要かもしれない。自分のつけた振りがどんな社会的刷り込みから出てきたものかなど反省してみただろうか?からだをほぐすのが体操ならば、ひとのどこがこっていてひとのからだのどこが柔軟になるよう努めるべきかそのコンセプトがなければならないだろう。すくなくとも そうした「体操」への批評性(反省を向ける眼差し)がなければ、「コンテンポラリーダンス」なんて名のる必要はない、ただのお遊戯だ。ひとや社会を考えた成果があって、その効能を授けるべく、一緒に踊りましょうだったらわかる。ただ、朝公園で太極拳するみたいなことしてどうなるというのか?(それだったら既存の体操で充分ではないか)

と、不満を言うのもバカみたいだ。ただ一層ダンス界隈のみなさんに嫌われるだけだろう。

なんだか、柏islandでの「New World」展や高円寺無人島プロダクションでの「移動」展など見た目でダンスの現場に行くと、自分の思いとダンス界隈の思いのズレの大きさを感じてしまう。ここにあるはずでいまのところないものばかりを夢想してしまう。見方をかえれば、We danceに行かなきゃいいじゃないということなのかもしれない。自分の好きな作家のところに行ってそこで楽しめばいいじゃない、と言われるのかもしれない(誰から?なんとなくそういう声が聞こえる気がしている)。現状まさにそうなっているとも思う。いまダンスで批評(家)を名のるひとたちは、ほとんどたこつぼ的な観賞の仕方をとっていて自分の好きなものしか見なくなっているし、あえて自分が疑問に思うものに「疑問に思う」と公言したりしない。

その後、青山で蓮沼執太の「wannapunch!」発売記念イベントに行った。素晴らしかった。快快しかり。□□□(「ファンファーレ」バンド)しかり。

2月14日(日)のつぶやき

2010年02月15日 | 80年代文化論(音楽)
17:27 from Keitai Web
いま「RH3」読んでて「同人音楽」って言葉が出てきた。コンポラはいうなれば「同人ダンス」だよな、なんて。We dance→蓮沼執太で東横線
17:40 from Keitai Web
いや。「同人」と名乗る自己批評性こそ、そう呼ぶ(自称する)際重要なことのはずで、誰もそう自称してみようと思いつかないということが気になる。自己批評性がないとは思わないけど自己批評の角度に自己批評性がない気がする。
17:56 from Keitai Web
別に「同人ダンス」と名乗るべき~とは思わないけど、誰もそう自称する可能性を今までいだかなかったかとは思う。
21:35 from Keitai Web
いま蓮沼執太イベント終了。いやー素晴らしかった!なんだかぼくの愛する点たちが線になり面になってゆくなんてことを感じた(夢か)。三月の快快は必見ですぜ!予習は「RH1」の原稿で。
21:54 from Keitai Web
それにしても岸井さんの会/議/体に参加したら、TWITTERを知らない人達が続出。コンポラまわりではやる/やらない問題以前に知ってる/知らない問題らしい。岸井さんはT使った作品をすでに作ったらしい、が。
by kmrsato on Twitter

2月12日(金)のつぶやき

2010年02月13日 | 80年代文化論(音楽)
09:46 from web
ここ八王子。いま雪が降っている。
09:50 from web
昨晩会った出は、28時間会わなかった分、成長したように見えた。背中、腕、足が随分力強く動くようになった。可動性が高まるにつれて欲望が増えてゆくよう。ぼくの「ジェットコースター」を望んで、横にするとすぐに泣く。欲望の誕生。欲望ってすこし切ない。
10:01 from web
そういえば、2/8にぼくの家でKATのミーティングを行った。一人欠席(彼女が一番今回の会を望んでいたのに!)。昼ビーフシチュー。夜なべ。ある学生(二年生)の卒論タイトル(もち仮)が決まった。「見られたい欲望論」。照沼ファリーザのこととか。本質的です。
15:53 from Keitai Web
十年後に出は十歳。二十年後に二十歳。二十年後にどんな価値が生き残っているのだろう。親の価値観は反面教師的にだけ機能していた方がいい気がする。
16:15 from Keitai Web
誰か一秒間に140文字打てるタイピング機械つくらないかな?MAKEの人たちとか。狂ったようにTWITTERからつぶやきが連射されるのはなかなかアート的快楽があると思う
21:18 from Keitai Web
さっき柏ISLANDのNEW WORLD展を見てた。会場は無茶苦茶さむかったけど展示は必見。ギャラリストに解説してもらうといいよ!すごい!今年はなんかすごいぞ!
21:22 from Keitai Web
んでいまオシレーターを見に渋谷に。サンガツの新譜をいただいた。小泉さんありがと!今年は小泉さんとつるみたく片思い中です。あ、そろそろ始まる!
by kmrsato on Twitter

田口行弘

2010年02月11日 | 美術
昨日(2/10)の夜にVacantでフォースド・エンタテインメントを見たのですけれど、その前に、高円寺の無人島プロダクションで「移動」展を見てました。ぼくはそれまで知らなかったんですが、田口行弘、すごいいいです。Vacantでcontact Gonzoとコラボもしていたんですね。彼は要チェックですよ。

田口行弘のHP

基本的にはアニメーションの技法を用いた映像作家に見えますが、いろいろな要素が全部盛り(ミニマルアートからサイトスペシフィックから介入からパーティからマイクロポップから、、、)で、とても魅力的な作家であろう、今後一層そう評価されるだろう予感がします。何より明るくて前向きな感じがいいんです。

2月09日(火)のつぶやき

2010年02月10日 | 80年代文化論(音楽)
21:17 from Keitai Web
みんなが書いてるのでぼくもお祝いします(面識ないけど)。柴幸男さんおめでとう!「わが星」ずっと泣きながらみてました!どうして泣くのか分からない涙を僕に流させる力のある作品が僕の「傑作」だとすれば、まさしくそれでした!グッドジョブ!未来に一層期待します~
by kmrsato on Twitter

2月05日(金)のつぶやき

2010年02月06日 | 80年代文化論(音楽)
20:02 from web
昨日今日での出の成長。「すねる」を覚えたということは「わがままをいう」を覚えたということ。費用対効果の思考の芽生え。生後15日目にて。
20:15 from web
わーんと泣くと、かまってもらえて、抱いてもらえて、うれしいうれしい。そこに「我が儘」いう我が、我なるものが生まれるのか。一昨日までなかった「我」が発生した。
20:22 from web
「抱く、授乳する、眠らせる……(略)こういう振る舞い方は、母親は子供を産む前にやっているわけです。(略)夫婦の性的な振る舞いの間ですでに体験しているのです。」(『ブルータス』所収、吉本隆明の発言) なるほど。確かに育児とセックスはなんだか似てるとこがあるよ。
20:41 from web
久しぶりに大学の図書館へ。『エイゼンシュテイン全集9』所収「無関心な自然でなく」で彼は、ピラネージに触れるのみならず、ホガースの優美にもふれていた!うお、背表紙の文字があんなに強烈な感じじゃなけりゃ、もっと早く手にしていたろうに!やっぱり春休みは映画論を読もう。
20:46 from web
とか、「音楽、絵画、映画モンタージュの作品の創造の基礎には、独特の「ダンス」が存在する」(『全集8』)とか。なぜ第三の意味を語るのにバルトがエイゼンシュタインにアクセスしたのかなんてこともあるけど、ダンスを 再考する機会(しかも映画論=複製技術論を通過しつつ)にしたい。
by kmrsato on Twitter

2月04日(木)のつぶやき

2010年02月05日 | 80年代文化論(音楽)
22:15 from web
イーストウッド主演の刑事映画(といってダーティハリーシリーズではない)「タイトロープ」(テレ東の午後のロードショー特集を録画)見た。すごい弛緩してて、ヒッチのタイトさとは雲泥の差。けっこう「お色気ショット」(?)が出てきてテレ東パワーを感じる。
22:22 from web
妻と2人で久しぶりに帰宅。昼。「RH」を配送。その後、ベビザラスで買い物して帰ると、これほど(2h30)長く妻と離れたのが初めてだからか「なんだよー」とすねた顔で(妻ママに抱かれた状態で)迎えられ、その10分後いままで聞いたことなかった大きな鳴き声でえんえん泣いた。ごめんよ~。
22:27 from web
つまり「すねる」を覚えた日だった。すねて泣く声はとてつもなく悲しく響く、けど、すねればいいことがあると知ったということでもある。
22:40 from web
毎日会う妻ママは乙女。日々多くの女子大学生と接するものの「おばさんみたいだよ」と思わされる一方で乙女は僅少。ぼくの「乙女」の定義は「社会や何かに向けて怒っていること」。お昼に妻ママは「地球に優しいって言葉ほど嫌いなものはない!」と「エコ」にご立腹。舌鼓打ちつつ相づち打つ。
by kmrsato on Twitter

2月03日(水)のつぶやき

2010年02月04日 | 80年代文化論(音楽)
07:31 from web
「フード・デザート」(食の砂漠)もあれば「雑誌難民」(休刊が相次ぎ読む雑誌がなくなってしまった人々)もあるのかあ。「○○デザート」をさまよう「○○難民」の動向がひとつでもふたつでもイメージできると、とんでもない発明が可能になるのかも知れないなー。
07:33 from web
郊外に生きていると、イトーヨーカドーみたいな大型スーパーのベンチでボーッとしている高齢の方が目立つ。
07:36 from web
「あれが自分の未来か、いやだな」と思い単調な貧しさから脱して豊かさ=多様性をあくまでも欲求したい気持ちと、「あれが自分の未来か、そうなんだな」と思いそれを肯定しそこに順応しようとする気持ち。
07:43 from web
例えば、息子に何を与えたらいいのか。おもちゃとか。Babiesrusに行くと、単調なカラー、単調な素材の大量販売おもちゃを買うことになる。それ嫌だな、と思って、代官山あたり(?)のオサレなお店を探して珍しい一品を物色すべきか。それとも自作?決められないよ。
07:44 from web
こんなフラット(横並び)の時代に0才の息子が生きる未来って。
17:26 from Keitai Web
モダニストでも、ポストモダニストでもなく生きることは出来るのか
22:07 from web
普遍に従ってでもなく、個に従ってでもなく生きることは出来るのか
22:20 from web
「よくできている」の評価からも、「萌える」の評価からも一定の距離をとったままよく生きる(よい作品を作る)ことは出来るのか
22:24 from web
80年代的に言えば、浅田彰からも、秋元康からも自由な状態で生きることは可能か、か
by kmrsato on Twitter