ある方からtwitterで打診があり、TORAO.doc:「We dance」と「蛸壺」を拝読した。以下の部分に返答しなければと思う。
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私は、手塚夏子のパートナーとしてではなく、またWe danceの主催者でもなく、We danceの企画の一部(「試行と交換」の記録)に参加した一人として、木村さんの意見を謙虚に受け止めつつ、木村さんに問いたくなりました。
一つ目は、「社会が求めているダンス」とは何なのか、ということ。二つ目は、「自分の人生」「自分の好きなもの」に徹底的に固執することが、世の中に繋がる可能性もあるんじゃないか(たしかに、そこには自己批評性は不可欠だとは思うけど)、ということ。三つ目は、「社会が求めていないダンス」を作り続けているダンスの作家がいることが、社会にとって役割を持つこともあるんじゃないか、ということ。
こうした問いのすべてで、「ダンス」を「アート」に置き換えられると思うし、私も当事者として、問いに対する答えを探し続けています。
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三つの質問に取り急ぎ、以下のように返答します。
(一つ目)「社会が求めているダンス」とは何なのか:
これは「社会」をどう捉えるのか、各人の解釈に関わってくること。だから積極的に「いま社会がこうなっているんだから、こうした方がいい」とぼくが言うようなことではないと思う。「社会が求めているダンス」の反対概念は、「(ダンサー)個人が求めているダンス」。でも、その上で、「社会」をどう解釈するのかという点で、社会的に解釈する仕方と個人的にする仕方とがあるように思う。自分にとって社会とはこういう姿でここにダンスが求められているというのと、どうもある種の人々にとって社会とはこういう姿でここにダンスが求められているというのと、違いがある気がする。「ある種の人々にとって」と書いたのは、「すべての人々とって」とか「社会全体にとって」などと「すべての人々」や「社会全体」に共通する何かを想定するのがとても難しいから。ただし、「ある種の人々A」と「ある種の人々B」と「ある種の人々C」が、重なりあうポイントを見定めてゆくというやり方はあると思う。「おたく」と「サブカル」と「アカデミズム」とが重なりあうポイントとか。例えば。
(二つ目)「自分の人生」「自分の好きなもの」に徹底的に固執することが、世の中に繋がる可能性もあるんじゃないか:
ぼくもそう思う。徹底的に固執すると自分の問題から人間の問題へとスライドしていく可能性はあると思う。ぼくは手塚夏子の「私的解剖実験」の「私的」をそう理解している。だから徹底的に固執して欲しいと思う。ただ、(問題のレヴェルが全く違うと思われてしまうかもしれないけれど)ぼくがゼミの学生などによく言うのは、自分の好き嫌いからでは卒業論文を書くのはとても難しい、むしろ対象との違和感とかずれとかに注目するべきだということ。また、研究対象となる個別的な作品とか作家だけではなく、対象が所属している分野全体に興味をもったりそこで起こっていることを分析するべきだともよく言う。
(三つ目)「社会が求めていないダンス」を作り続けているダンスの作家がいることが、社会にとって役割を持つこともあるんじゃないか:
ぼくはそれを否定しないけれど、でも、「社会が求めていない△△」を作り続けている△△の作家がいることが、社会にとって役割をもつこともあるんじゃないか、と定式化してみて、△△にはいろんな言葉が入れられだろうと思う。「BL」が入るかもしれないし、「コスプレ」が入るかもしれないし。それとも「ダンス」は「BL」や「コスプレ」(いや、別にこの二つを特化するつもりはないのだけれど、例えば)とは違う社会的な役割があると言いうる、と考えるべきか。「コンテンポラリーダンス」のある部分は「同人」なのかもしれないと書いたのは、そうしたことを考える契機に少なくとも自分はしたいと思っているからで、「同人」としてわいわいと何かやることでパワーが出てくるのかもしれない(それを「社会にとって役割を持つこと」と言っていいかはよく分からないけど)。
ひとつコメントしたいです。
ぼくはこのブログを書いていらっしゃる大澤寅雄さんの奥さん、手塚夏子のことをずっと考えながら上記の文章を書いてました。拙書『未来のダンスを開発する フィジカル・アート・セオリー入門』のなかでも、大きく取りあげた作家ですので、ご存じの方も多いと思います。彼女こそ、社会と自分のダンスの思考との接点を模索している作家であり、ぼくはその点に関して大きな関心と尊敬を抱き続けていて、そのことはいまもまったく変わらないということは付言しておきたいです。まさに、その信頼と期待があるからこそ、昨年の七月には、日本女子大学に手塚さんを招いて、ダンスのワークショップを二週にわたり行ってもらったのです。手塚さんの「試行と交換」は、残念ながらスケジュールが合わなくて見ることは出来ませんでした。だから、基本的には、手塚さんのことを念頭に置いて先のことを述べているわけではないです。
手塚さんに関して言えば(手塚さんだけというつもりはないですが)、ぼくはもっと注目されて然るべき存在だと思うし、ぼくは非力ながらそう思って拙書で言及したりワークショップをお願いしたり、手塚さんの力を社会の中で活かす道筋を模索してます。そのうえで、今後どうしたらより一層然るべき仕方で手塚さんの試みが社会の中で活かされるのかと思っています。余計なお世話だと思われてしまうかもしれないけど、ぼくはそれなりに真剣に考えています。
いや、でもそれ、本当にそうで、「プライベートトレース」で試みたことは、とくに最初の頃にビデオで撮った過去の会話をダンサーの身体にトレースして上演するなんてアイディアすごすぎるし、そのインパクトを忘れてはいけないと思うんですよ!映像に映された身体に向けてアクセスするダンスというものを、こういう時代ですから真剣に考えるべきだと思うんですね。録音された音に向けてアクセスする音楽が音楽において当たり前であるように、写真や動画に映された身体イメージに向けてアクセスする絵画が美術において当たり前であるように。例えば、そうした映された身体について考察して生まれたダンスは、「社会が求めるダンス」となる可能性が高いし、またそうしたことを手塚夏子がすでにしているのであれば、そうした手塚の活動をきちんと振り返った上で自分のダンス作品をつくるという姿勢は、社会性のある振る舞いといえると思うんです。
「プライベートトレース」の可能性について、集まった全員で議論などしたら(議論でなくてもお題として投げてそれに答える、とか)生産的だと思う。(ある意味では、「試行と交換」の「交換」とは、ぼくのいま書いていることに似て、相手の方法を自分でやってみるという意味なのかもしれない。手塚の行ってきた「道場破り」はまさにそんなことするイベントだけれど)
あんな興味深いアイディアが日本のコンテンポラリーダンスの歴史にはあって、なんでひとはそれに自分なりのチャレンジをなげてみないんだろう。例えば、演劇界隈では、いま、複数の役者がひとつの役柄を次々と入れ替わり演じるなどというアイディアが一種の流行を起こしていて、もちろんそれは岡田利規がはじめたといっていいものだと思うんだけど、それを岡田のものだからやらないとかじゃなくてむしろ積極的にそのアイディアにのっかり、そのヴァリエーションを見せることで自分のクリエイティヴィティを提示しているわけだ(それにしても岡田のこうしたアイディアと手塚のトレースは結構似ていて、比較などされていてもいいはずなんだよね)。柴幸男や快快など。例えば、それは「アーキテクチャ」というキーワードにのっかることである種の言説界にアクセスするやり方にも似た振る舞いだと思うし、古くは、バラバラな趣味のおたくたちが八〇年代に「ロリコン」という一点でつながり、本当にロリコンであるか否かというよりもそれを利用してコミュニケーションを活発にしていたなんて話が思い出される事柄でもある。
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私は、手塚夏子のパートナーとしてではなく、またWe danceの主催者でもなく、We danceの企画の一部(「試行と交換」の記録)に参加した一人として、木村さんの意見を謙虚に受け止めつつ、木村さんに問いたくなりました。
一つ目は、「社会が求めているダンス」とは何なのか、ということ。二つ目は、「自分の人生」「自分の好きなもの」に徹底的に固執することが、世の中に繋がる可能性もあるんじゃないか(たしかに、そこには自己批評性は不可欠だとは思うけど)、ということ。三つ目は、「社会が求めていないダンス」を作り続けているダンスの作家がいることが、社会にとって役割を持つこともあるんじゃないか、ということ。
こうした問いのすべてで、「ダンス」を「アート」に置き換えられると思うし、私も当事者として、問いに対する答えを探し続けています。
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三つの質問に取り急ぎ、以下のように返答します。
(一つ目)「社会が求めているダンス」とは何なのか:
これは「社会」をどう捉えるのか、各人の解釈に関わってくること。だから積極的に「いま社会がこうなっているんだから、こうした方がいい」とぼくが言うようなことではないと思う。「社会が求めているダンス」の反対概念は、「(ダンサー)個人が求めているダンス」。でも、その上で、「社会」をどう解釈するのかという点で、社会的に解釈する仕方と個人的にする仕方とがあるように思う。自分にとって社会とはこういう姿でここにダンスが求められているというのと、どうもある種の人々にとって社会とはこういう姿でここにダンスが求められているというのと、違いがある気がする。「ある種の人々にとって」と書いたのは、「すべての人々とって」とか「社会全体にとって」などと「すべての人々」や「社会全体」に共通する何かを想定するのがとても難しいから。ただし、「ある種の人々A」と「ある種の人々B」と「ある種の人々C」が、重なりあうポイントを見定めてゆくというやり方はあると思う。「おたく」と「サブカル」と「アカデミズム」とが重なりあうポイントとか。例えば。
(二つ目)「自分の人生」「自分の好きなもの」に徹底的に固執することが、世の中に繋がる可能性もあるんじゃないか:
ぼくもそう思う。徹底的に固執すると自分の問題から人間の問題へとスライドしていく可能性はあると思う。ぼくは手塚夏子の「私的解剖実験」の「私的」をそう理解している。だから徹底的に固執して欲しいと思う。ただ、(問題のレヴェルが全く違うと思われてしまうかもしれないけれど)ぼくがゼミの学生などによく言うのは、自分の好き嫌いからでは卒業論文を書くのはとても難しい、むしろ対象との違和感とかずれとかに注目するべきだということ。また、研究対象となる個別的な作品とか作家だけではなく、対象が所属している分野全体に興味をもったりそこで起こっていることを分析するべきだともよく言う。
(三つ目)「社会が求めていないダンス」を作り続けているダンスの作家がいることが、社会にとって役割を持つこともあるんじゃないか:
ぼくはそれを否定しないけれど、でも、「社会が求めていない△△」を作り続けている△△の作家がいることが、社会にとって役割をもつこともあるんじゃないか、と定式化してみて、△△にはいろんな言葉が入れられだろうと思う。「BL」が入るかもしれないし、「コスプレ」が入るかもしれないし。それとも「ダンス」は「BL」や「コスプレ」(いや、別にこの二つを特化するつもりはないのだけれど、例えば)とは違う社会的な役割があると言いうる、と考えるべきか。「コンテンポラリーダンス」のある部分は「同人」なのかもしれないと書いたのは、そうしたことを考える契機に少なくとも自分はしたいと思っているからで、「同人」としてわいわいと何かやることでパワーが出てくるのかもしれない(それを「社会にとって役割を持つこと」と言っていいかはよく分からないけど)。
ひとつコメントしたいです。
ぼくはこのブログを書いていらっしゃる大澤寅雄さんの奥さん、手塚夏子のことをずっと考えながら上記の文章を書いてました。拙書『未来のダンスを開発する フィジカル・アート・セオリー入門』のなかでも、大きく取りあげた作家ですので、ご存じの方も多いと思います。彼女こそ、社会と自分のダンスの思考との接点を模索している作家であり、ぼくはその点に関して大きな関心と尊敬を抱き続けていて、そのことはいまもまったく変わらないということは付言しておきたいです。まさに、その信頼と期待があるからこそ、昨年の七月には、日本女子大学に手塚さんを招いて、ダンスのワークショップを二週にわたり行ってもらったのです。手塚さんの「試行と交換」は、残念ながらスケジュールが合わなくて見ることは出来ませんでした。だから、基本的には、手塚さんのことを念頭に置いて先のことを述べているわけではないです。
手塚さんに関して言えば(手塚さんだけというつもりはないですが)、ぼくはもっと注目されて然るべき存在だと思うし、ぼくは非力ながらそう思って拙書で言及したりワークショップをお願いしたり、手塚さんの力を社会の中で活かす道筋を模索してます。そのうえで、今後どうしたらより一層然るべき仕方で手塚さんの試みが社会の中で活かされるのかと思っています。余計なお世話だと思われてしまうかもしれないけど、ぼくはそれなりに真剣に考えています。
いや、でもそれ、本当にそうで、「プライベートトレース」で試みたことは、とくに最初の頃にビデオで撮った過去の会話をダンサーの身体にトレースして上演するなんてアイディアすごすぎるし、そのインパクトを忘れてはいけないと思うんですよ!映像に映された身体に向けてアクセスするダンスというものを、こういう時代ですから真剣に考えるべきだと思うんですね。録音された音に向けてアクセスする音楽が音楽において当たり前であるように、写真や動画に映された身体イメージに向けてアクセスする絵画が美術において当たり前であるように。例えば、そうした映された身体について考察して生まれたダンスは、「社会が求めるダンス」となる可能性が高いし、またそうしたことを手塚夏子がすでにしているのであれば、そうした手塚の活動をきちんと振り返った上で自分のダンス作品をつくるという姿勢は、社会性のある振る舞いといえると思うんです。
「プライベートトレース」の可能性について、集まった全員で議論などしたら(議論でなくてもお題として投げてそれに答える、とか)生産的だと思う。(ある意味では、「試行と交換」の「交換」とは、ぼくのいま書いていることに似て、相手の方法を自分でやってみるという意味なのかもしれない。手塚の行ってきた「道場破り」はまさにそんなことするイベントだけれど)
あんな興味深いアイディアが日本のコンテンポラリーダンスの歴史にはあって、なんでひとはそれに自分なりのチャレンジをなげてみないんだろう。例えば、演劇界隈では、いま、複数の役者がひとつの役柄を次々と入れ替わり演じるなどというアイディアが一種の流行を起こしていて、もちろんそれは岡田利規がはじめたといっていいものだと思うんだけど、それを岡田のものだからやらないとかじゃなくてむしろ積極的にそのアイディアにのっかり、そのヴァリエーションを見せることで自分のクリエイティヴィティを提示しているわけだ(それにしても岡田のこうしたアイディアと手塚のトレースは結構似ていて、比較などされていてもいいはずなんだよね)。柴幸男や快快など。例えば、それは「アーキテクチャ」というキーワードにのっかることである種の言説界にアクセスするやり方にも似た振る舞いだと思うし、古くは、バラバラな趣味のおたくたちが八〇年代に「ロリコン」という一点でつながり、本当にロリコンであるか否かというよりもそれを利用してコミュニケーションを活発にしていたなんて話が思い出される事柄でもある。