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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ダンス周辺の誰がテン年代の想像力を発揮する?

2010年02月16日 | ダンス
ぼくは、決してきたまりというひと個人を批判したいのではない。「なんとなくああいう時間がつづいていく」ことの意味を誰がどんな風にちゃんと考えているのだろうか、ということが気になるのだ。あの姿勢はいうなれば「同人」的だと思う。そういう趣味の人たちが楽しんでやっている場所、という意味で。でも実態は「同人」ではなく「助成」だ。「同人」とは、社会的な価値うんぬんには関係ないかもしれないけれど個人的にそういうのが好きで表現したいからやっています、同じ興味を持つ人同士で、というものだとして、それが「助成」されてすすめられているということに、何の疑問も持たないのだとすると、なんかそれはどうだろう?という気になる。助成金、うまいこともってきて楽しいことやろうよ!という気分があるならそれはちょっと分かる。助成されること自体を批判するつもりはない。けど、助成されているのに事実上「同人」というのは、例えば、(同人誌の話で言えば)BL(ボーイズ・ラブ)を助成金使って書いてたら、そりゃちょっとなと書いている本人は思うだろう、きっと。そういうこと思わないのかな、と。そう思わないのは、自分たちが〈アートという崇高なもの〉を実践しているという自負があるからだろうか。そういう思いこみが消えるならば、アートなんて言葉なくなっちゃえばいいのに。

自分の体(自分の従う流派、スタイル)に向き合っているただそれだけでは、あなたのしていることは個人的趣味です。

踊っていることに快楽を感じている間は、恐らく、その行為はアートとはまったく何の関係もないです。

他人の身体に、振る舞いに興味をもって、それを自分の身体に反映させようとしてはじめて、何かが始まるのではないでしょうか。

反映、反省、批評性、こうしたことが存在しないものはアートではないし、同人的、動物的でしかない。はやくそこから脱するべきです。

いや、自分たちは「同人」だと思いなして、例えば「同人ダンス」を自称するべきかもしれない。自称するというのはひとつの批評的な振る舞いではあるから。

もっとダンスというものは、ひとを幸福に出来ると思う。

ダンスというものについて新しいアイディアをこらすことで、(当人だけではなく)ひとはより幸福になると思う。

そのことを誰かが真剣に考えたら、そのひとはイチヌケ出来る(ひとを幸福に出来るし、自分を幸福に出来る)。

真剣に考えたらいいのに!

例えば、遠藤一郎に、ほふく前進のパフォーマンスを実践されてしまったことに対して、「あちゃちゃちゃ、やられちゃたよ~」と思うコンテンポラリーダンスの作家はいないのか?

ダンスの作家やダンサーに田口行弘や蓮沼執太に相当する存在はいないのか。Chim↑Pomや遠藤一郎や快快に相当する存在は。いや、彼らを凌駕する素晴らしく魅力的な人間観を提示してくれる誰か(の作品)に、ぼくは出会いたい。そうじゃなきゃ、ね、なんだか。

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