早朝に大学の仕事をネットカフェでして(大学のシステムがマックユーザーに優しくなくて)、午前に車を走らせ出の顔を拝みに行き、そして午後は横浜へ。
We dance 2010を見に。
捩子ぴじんの実験的な作品上演を3本見た。きたまりの「みんなで体操」を見た。手塚夏子の「試行と交換」を頭の十分だけ見て、山田うんと鈴木ユキオのダンスをそれぞれ十分くらい見て、岸井大輔の会/議/体に五分だけ参加することになって、というのがぼくの今回のWe danceだった。ずっと考えていたのは、ここにあるダンスではなくここにないダンスのこと。ここにあるはずでしかし事実としては存在していないダンスは何か。「同人ダンス」とか「萌えコン」とか「twittanz」とかいろいろと思い描いた。ダンスはどうしてここまで自己探求型なんだろう、どうしてそんなに「自己」というものを大事にしてしまうのだろう。「Life/Like」というタイトルが気になる。どうして「自分の人生」「自分の好きなもの」に固執するのだろう。どうして自己批評性に乏しいのだろう。社会との接点をもっと見出そうとしないのだろう。あるいはどうしてあまり自己批評せずに自分のダンスは社会的価値があると思ってしまうのだろう(助成金とかなくなれば、前進するのかな)。誰かがそうした自家中毒からイチヌケして、社会が求めているダンスを踊り出したら、この膠着状態はあっという間に解消されてしまうのではないだろうか、なんて夢見ながら東横線。いま『シアターアーツ』に寄稿するために昨年のダンスを回顧する原稿を書いているので、なおさらそんなことぶつぶつと考えていた。
自分たちのしていることは自己満でまったくもって恥ずかしいと思うところから、その挫折から創造性は出発するのかもしれない。踊ることのナルシシズムから踊りを解放することが出来たらと願う。
捩子ぴじんのは、ジャドソンやヴィト・アコンチといった60-70年代の方法的な取り組みを確認していくような作品だった。ぼくはぜひ、そこにポップアートへの考察も加えて欲しい(簡単に言えばイメージの問題)と思ってみていたけれど、でも、少なくともいままで行ってきたこととはそうとう違うことをここでやってみようという気概が感じられてなんだかうれしかった。
なんでもっと社会にコミットしないのだろう。しようとしているがセンスがなくてこの状態、ということか(補足すると、会議を開いて、みんなでひとから送られていた悩みをなるべく具体的に解決するという企画を実行した岸井大輔は、まさに社会的だった)。きたまりの「みんなで体操」は、ぼくは切なかった。これが横浜ダンスコレクションRで賞を取ったコレオグラファーの「体操」なのか???どこにもオリジナリティを感じることが出来ない。いや、ぼくはべつにオリジナリティなんてなくていいと思っている、オリジナルよりもコピーの方が重要かもしれない。自分のつけた振りがどんな社会的刷り込みから出てきたものかなど反省してみただろうか?からだをほぐすのが体操ならば、ひとのどこがこっていてひとのからだのどこが柔軟になるよう努めるべきかそのコンセプトがなければならないだろう。すくなくとも そうした「体操」への批評性(反省を向ける眼差し)がなければ、「コンテンポラリーダンス」なんて名のる必要はない、ただのお遊戯だ。ひとや社会を考えた成果があって、その効能を授けるべく、一緒に踊りましょうだったらわかる。ただ、朝公園で太極拳するみたいなことしてどうなるというのか?(それだったら既存の体操で充分ではないか)
と、不満を言うのもバカみたいだ。ただ一層ダンス界隈のみなさんに嫌われるだけだろう。
なんだか、柏islandでの「New World」展や高円寺無人島プロダクションでの「移動」展など見た目でダンスの現場に行くと、自分の思いとダンス界隈の思いのズレの大きさを感じてしまう。ここにあるはずでいまのところないものばかりを夢想してしまう。見方をかえれば、We danceに行かなきゃいいじゃないということなのかもしれない。自分の好きな作家のところに行ってそこで楽しめばいいじゃない、と言われるのかもしれない(誰から?なんとなくそういう声が聞こえる気がしている)。現状まさにそうなっているとも思う。いまダンスで批評(家)を名のるひとたちは、ほとんどたこつぼ的な観賞の仕方をとっていて自分の好きなものしか見なくなっているし、あえて自分が疑問に思うものに「疑問に思う」と公言したりしない。
その後、青山で蓮沼執太の「wannapunch!」発売記念イベントに行った。素晴らしかった。快快しかり。□□□(「ファンファーレ」バンド)しかり。
We dance 2010を見に。
捩子ぴじんの実験的な作品上演を3本見た。きたまりの「みんなで体操」を見た。手塚夏子の「試行と交換」を頭の十分だけ見て、山田うんと鈴木ユキオのダンスをそれぞれ十分くらい見て、岸井大輔の会/議/体に五分だけ参加することになって、というのがぼくの今回のWe danceだった。ずっと考えていたのは、ここにあるダンスではなくここにないダンスのこと。ここにあるはずでしかし事実としては存在していないダンスは何か。「同人ダンス」とか「萌えコン」とか「twittanz」とかいろいろと思い描いた。ダンスはどうしてここまで自己探求型なんだろう、どうしてそんなに「自己」というものを大事にしてしまうのだろう。「Life/Like」というタイトルが気になる。どうして「自分の人生」「自分の好きなもの」に固執するのだろう。どうして自己批評性に乏しいのだろう。社会との接点をもっと見出そうとしないのだろう。あるいはどうしてあまり自己批評せずに自分のダンスは社会的価値があると思ってしまうのだろう(助成金とかなくなれば、前進するのかな)。誰かがそうした自家中毒からイチヌケして、社会が求めているダンスを踊り出したら、この膠着状態はあっという間に解消されてしまうのではないだろうか、なんて夢見ながら東横線。いま『シアターアーツ』に寄稿するために昨年のダンスを回顧する原稿を書いているので、なおさらそんなことぶつぶつと考えていた。
自分たちのしていることは自己満でまったくもって恥ずかしいと思うところから、その挫折から創造性は出発するのかもしれない。踊ることのナルシシズムから踊りを解放することが出来たらと願う。
捩子ぴじんのは、ジャドソンやヴィト・アコンチといった60-70年代の方法的な取り組みを確認していくような作品だった。ぼくはぜひ、そこにポップアートへの考察も加えて欲しい(簡単に言えばイメージの問題)と思ってみていたけれど、でも、少なくともいままで行ってきたこととはそうとう違うことをここでやってみようという気概が感じられてなんだかうれしかった。
なんでもっと社会にコミットしないのだろう。しようとしているがセンスがなくてこの状態、ということか(補足すると、会議を開いて、みんなでひとから送られていた悩みをなるべく具体的に解決するという企画を実行した岸井大輔は、まさに社会的だった)。きたまりの「みんなで体操」は、ぼくは切なかった。これが横浜ダンスコレクションRで賞を取ったコレオグラファーの「体操」なのか???どこにもオリジナリティを感じることが出来ない。いや、ぼくはべつにオリジナリティなんてなくていいと思っている、オリジナルよりもコピーの方が重要かもしれない。自分のつけた振りがどんな社会的刷り込みから出てきたものかなど反省してみただろうか?からだをほぐすのが体操ならば、ひとのどこがこっていてひとのからだのどこが柔軟になるよう努めるべきかそのコンセプトがなければならないだろう。すくなくとも そうした「体操」への批評性(反省を向ける眼差し)がなければ、「コンテンポラリーダンス」なんて名のる必要はない、ただのお遊戯だ。ひとや社会を考えた成果があって、その効能を授けるべく、一緒に踊りましょうだったらわかる。ただ、朝公園で太極拳するみたいなことしてどうなるというのか?(それだったら既存の体操で充分ではないか)
と、不満を言うのもバカみたいだ。ただ一層ダンス界隈のみなさんに嫌われるだけだろう。
なんだか、柏islandでの「New World」展や高円寺無人島プロダクションでの「移動」展など見た目でダンスの現場に行くと、自分の思いとダンス界隈の思いのズレの大きさを感じてしまう。ここにあるはずでいまのところないものばかりを夢想してしまう。見方をかえれば、We danceに行かなきゃいいじゃないということなのかもしれない。自分の好きな作家のところに行ってそこで楽しめばいいじゃない、と言われるのかもしれない(誰から?なんとなくそういう声が聞こえる気がしている)。現状まさにそうなっているとも思う。いまダンスで批評(家)を名のるひとたちは、ほとんどたこつぼ的な観賞の仕方をとっていて自分の好きなものしか見なくなっているし、あえて自分が疑問に思うものに「疑問に思う」と公言したりしない。
その後、青山で蓮沼執太の「wannapunch!」発売記念イベントに行った。素晴らしかった。快快しかり。□□□(「ファンファーレ」バンド)しかり。