Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

捩子の試行

2010年02月16日 | ダンス
ぼくは2/14にWe dance会場で見た、捩子ぴじんの試みをこう感じ考えた。メモ。

1時頃の上演。
13:30ごろに着く。捩子の会場に入ろうとすると、廊下で(つまりなかが見えない状態で)小泉篤宏以外楽器の弾けないメンバーで楽器を演奏しているのだという。ギターの音がなんだか誰が弾いている以前にサンガツになっていて、そのこととか気になりながら廊下で耳を澄ませていた。

2時頃の上演。
捩子が床に白いビニールテープを貼っている。コースが造られているようだ。トベとかハシレとか指示も書いてある。その作業が一通り終わると、まず捩子が自分でそのコースを実行してみる。コースのなかにはただビニールテープがゆるくこまかいねじれをおことながら3メートルほど敷かれているところなどあったり、実行者の解釈が求められるところがある(言いかえれば、どう読み取ればいいのか分からないケージの楽譜みたいな状態)。捩子の後、神村、小泉、新鋪の順で、それぞれその場ではじめて見る床に直書きのスコアを実行してゆく。観客は捩子の実践を一回見ているので、この3人よりもこのコースを知っていて、ここでサスペンスを感じるのは観客と言うよりも3人のパフォーマーという仕組みになっている。どう読み取ればいい?と戸惑いながら、それぞれその場でスコアを読み取りながら、進めていく。答えがない実践というのは基本として、解釈の多様性を3人のいちいちの振る舞いを通して味わっていくというのが、観客の快楽として設定されている気がした。そして、このコースのアイディアは、恐らく、ジャドソン系のスコアにインスパイアされているところが強いと思われ、あらためて、ジャドソン的なアイディアというのは、時間の問題にはアクセスしているけれど、そこに意味の問題をあまり加味させないんだよなと思わされた。ポップアート、つまり身ぶり、ポーズなどのイメージをここに入れ込んでもよいのかな、と思ってみていた。

3時頃の上演。
2人ひと組で、ひとりが頭の中であるポーズをイメージし、もうひとりがそのイメージをあてようとポーズを決めてみるというゲームを行った。他人の頭の中を類推させるという意味では、例えば、アコンチの「苗床」を思い出しながら見ていた。当たり前だけれど、ヒントがゼロなので、全然あたらず、いじめのような雰囲気になり(「ちがいます」と言いづける者と、そう言われ続けながらポーズしていく者と、どちらもきつそうだった)、苦しい。次第に、がんばってえんえんとポーズを探し当てようとしている者のポーズ探し当て能力が意識されてくる。「このひとってこういう想像力のひとなんだ」って思って見続ける。その苦労の時間は、ダンスとかなんとかは関係なく、なかなか面白い瞬間をいくつも含んでいた。

ダンス周辺の誰がテン年代の想像力を発揮する?

2010年02月16日 | ダンス
ぼくは、決してきたまりというひと個人を批判したいのではない。「なんとなくああいう時間がつづいていく」ことの意味を誰がどんな風にちゃんと考えているのだろうか、ということが気になるのだ。あの姿勢はいうなれば「同人」的だと思う。そういう趣味の人たちが楽しんでやっている場所、という意味で。でも実態は「同人」ではなく「助成」だ。「同人」とは、社会的な価値うんぬんには関係ないかもしれないけれど個人的にそういうのが好きで表現したいからやっています、同じ興味を持つ人同士で、というものだとして、それが「助成」されてすすめられているということに、何の疑問も持たないのだとすると、なんかそれはどうだろう?という気になる。助成金、うまいこともってきて楽しいことやろうよ!という気分があるならそれはちょっと分かる。助成されること自体を批判するつもりはない。けど、助成されているのに事実上「同人」というのは、例えば、(同人誌の話で言えば)BL(ボーイズ・ラブ)を助成金使って書いてたら、そりゃちょっとなと書いている本人は思うだろう、きっと。そういうこと思わないのかな、と。そう思わないのは、自分たちが〈アートという崇高なもの〉を実践しているという自負があるからだろうか。そういう思いこみが消えるならば、アートなんて言葉なくなっちゃえばいいのに。

自分の体(自分の従う流派、スタイル)に向き合っているただそれだけでは、あなたのしていることは個人的趣味です。

踊っていることに快楽を感じている間は、恐らく、その行為はアートとはまったく何の関係もないです。

他人の身体に、振る舞いに興味をもって、それを自分の身体に反映させようとしてはじめて、何かが始まるのではないでしょうか。

反映、反省、批評性、こうしたことが存在しないものはアートではないし、同人的、動物的でしかない。はやくそこから脱するべきです。

いや、自分たちは「同人」だと思いなして、例えば「同人ダンス」を自称するべきかもしれない。自称するというのはひとつの批評的な振る舞いではあるから。

もっとダンスというものは、ひとを幸福に出来ると思う。

ダンスというものについて新しいアイディアをこらすことで、(当人だけではなく)ひとはより幸福になると思う。

そのことを誰かが真剣に考えたら、そのひとはイチヌケ出来る(ひとを幸福に出来るし、自分を幸福に出来る)。

真剣に考えたらいいのに!

例えば、遠藤一郎に、ほふく前進のパフォーマンスを実践されてしまったことに対して、「あちゃちゃちゃ、やられちゃたよ~」と思うコンテンポラリーダンスの作家はいないのか?

ダンスの作家やダンサーに田口行弘や蓮沼執太に相当する存在はいないのか。Chim↑Pomや遠藤一郎や快快に相当する存在は。いや、彼らを凌駕する素晴らしく魅力的な人間観を提示してくれる誰か(の作品)に、ぼくは出会いたい。そうじゃなきゃ、ね、なんだか。