Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

まことクラヴ『シカク』(@駒場、アゴラ劇場)

2006年05月05日 | Weblog
予感がしていた。大体ぼくの予感はタイトルを読んだ瞬間に起こる。これは何かに似ている。「コシツ」だ。ゴロが似ているだけではなく、「コシツ」が「個室」と「固執」と両義的なように(そう思わせるように)、「視覚」「資格」「四角」「死角」「刺客」と多義的な語彙に思えるところが似ている。豊かなイメージ?いやいや、こういう場合、しばしばからだの動きは言葉に引きずられてからだが発するイメージはむしろ狭まってしまいがちなのだ。「四角」を「視覚」を「死角」をからだがなぞってしまう。解答のあるゲーム、にからだが奉仕するとき、みている間頭ばっかり動いちゃってからだにこないものなのだ。いや、な、予感がする。
こういう時の足は、迂回しながら進む。夕方まで、レオ・スタインバーグのピカソ論にニーチェの影がちらついてきて『悲劇の誕生』をめくり、一段落すると1時間ほど体を休めて、六時頃電車に乗る。ストレートに駒場東大前まで乗ればいいものを、下北沢で途中下車、軽く食事をして、そこからアゴラまで歩く。GWの住宅街をとぼとぼ歩く。そこで、さっきの「ゴロ」のことが頭をよぎる。不安だ。30分はかかると思いきや、案外早く着きそうだ、となるとやや速度を落とす。
結果としては、ここ数年ダンスを見てきた中でかなりの下位に位置する公演だった。いや、誰かぼくが感じられていないよい点があったと思うなら、ぼくに教えてください。こういうとき、ぼくはまず自分が悪いんだと思ってます、ので。笑っているお客さんもいましたから、何かが楽しかったんだと思います。
まず、明らかにやってはいけないことをしてしまったのではないか。ひとつは、エレベーターを使うこと。似た点だけれど、アゴラの黙ってても演劇臭がしてしまう空間に警戒する気持ちをもたなかったこと(両者は、作品が場所に負けてしまう、あるいは場所に作品が甘えてしまう結果を、ほぼ例外なく導く)。またひとつは、映像を実に気安く使ってしまっていること(なんとなくコンドルズ的な、つまらないけれど何かをみんなで見たに気させるテク(テク?)を思わせた)。こうした点に関してはまさに「クラヴ」(部活)ノリが発揮されてしまっているのだけれど、いざくだらないギャグに執着する的な意味での(従っていい意味での)部活ノリは初期と比べて明らかに薄くなってしまっている。「余裕」というか「隙」というか「抜き」というか、はずす「間」みたいなものがほぼ皆無なのだ。だから観客(少なくともぼく)のからだは動かない。こまかい「失策」が起きたとき観客は笑う隙をもらえたと喜び、リラックスして笑っていた、のだけれど。いや、そもそもブラックライトを使って体につけた白い札の束だけが光って踊る、とか、何でそれで客を楽しませることが出来ると考えたのか、不思議に思ってしまう演目ばかりで、気になるところは一つ二つではないのだ、が。

見ながら、自分がここで踊るとそれだけで何かが現出するのだとダンサーの方々が感じていらっしゃるのではないかと訝しんだ。からだが動いていれば、観客は何かを受け取ってくれる、多分、ポジティヴに。そういう甘えを強く感じた。グリーンバーグとフリードが「リテラリズム(直写主義、文字通り主義)」「オブジェクトフッド(客体性、ものがあるということ)」とミニマリズムのアートに対して形容したときの不満と似たものを感じた。ものがそこにただあればそれで何かが生まれる、そういう甘えに対する不満。だからといって、その反動で、単なる技術への回帰って方向で一種「右傾化」するんじゃ、ほんと何とも切ない気持ちになる。