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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

近代的主体と窃視的主体

2006年05月13日 | Weblog
これは、ごく個人的なノートでありある種、備忘録なので、つまんないと思う人は無視しちゃってください。でも、最近、このあたりのことがかなり気がかりで。


-- フリードの没入する人物を望むモダニズムと平田オリザの世界を呈示する演劇はともに、
  観者を窃視的な主体にさせる点で類似点がある(とともに相違する点もある)--


最近、美術批評家(美術史家)のマイケル・フリードが近代絵画の理想として論じた「没入」について調べている。それは、絵画が観者の見せ物であるにもかかわらず、見られていることを過剰に意識するとわざとらしく(シアトリカル)になってしまうため、それを克服し、観者が居ないという「至高の虚構」を目指して、画中の人物が自分の行動に没入して、見ているこちらを意識しないで居る状態を理想とする、そういう理論である。この最も端的な身ぶりは、見る者に背を向けること、である(写真を参考のこと。クールベの「石割人夫」)。

画中の人物を見る観者は、無視されることで、むしろ人物をじっくり見ることが、強制されず自由な自律した主体としてみることが可能になる。このことは、さらに考えると、無視されればされるほど追いたくなる、というか追うことが出来る、ということにもなると思うのだが、そこには恐らくこの自由な主体の眼差しの窃視的な側面が指摘されるべきだろう。実際、アイヴァーソンは『Alois Riegl』のなかでそうした指摘をしている。

「フリードの見る者/描出の関係の理想が窃視的魅惑の構造に類似していると言うことは、はっきりしている。見る者は自分たちが見られていると気づいていないひとあるいは人々のグループを熱心に凝視する。没入の絵画は、[ローラ・]マルヴェイがハリウッド映画について論じるように「見る者の現前に無関心で、魔術的にほぐれた状態の、外部に左右されないよう封がされた世界」である」(133)


こうした窃視的な眼差しの主体を生みだすものとして、ぼくが真っ先に思い浮かべるのは、青年団(系)の静かな演劇である。没入は、観客を一端無視することで、観客との間に幕をつくる。それとかなり重なり合う点のあることを、静かな演劇の特徴として指摘することが出来るだろう(補足的に言えば、ポツドール「夢の城」にもこの特徴があった、というよりもまさに舞台と客席との間にはガラス窓という隔たりがすくなくとも最初の数十分存在していた)。確かに平田は、こう書いている。

「かつて演劇はメディアとして「見て来たような嘘をつく」役割を果たしていたと、先に私は記した。しかし現代においては、宇宙の果ての風景から人体の内部まで、およそ形のあるもので私たちの眼に見えないものは何一つないかのようだ。しかし、それでも見えない、そして何よりも私たちが見てみたいものがただ一つある。私たちの精神、私たちの心の在りようを覗き見てみたいと、私たちは切に願っている」(平田オリザ『都市に祝祭はいらない』)

確かに、「見て来たような嘘をつく」演劇の「嘘」っぽさに私たちがもはやあまり魅力を感じにくくなっているのは事実。そこで平田が試みようとする(現代演劇として称揚する)のは「小さな振幅を拡大して描く」ことであり、それは岡田利規(チェルフィッチュ)の方法にまで波及したひとつのまさに現代的なアイディアではあろう。そして、さらにフリードが思い描く観者と類似して、観客はこの覗き見の演劇空間によって「自由」を獲得すると平田は考えている。

「感想は、主体的な観客の自由な感受性に任されている」(同書)

「私はこれまで、「客席に共感を求めない」とつねづね語ってきた。どうも、これがまた誤解を招く点の一つのようだ。私は作り手である私と、自立した観客一人ひとりが、一対一で共感することを拒否しているわけではない。この場合の共感とは、創り手と受け手の世界観の共有、イメージの共有のことである」(同書)

こうした考え方は、間違いなく「モダニズム」的というべき思考回路であって、例えばダンスで言えば、カニングハムが観客と舞台との間の理想的な関係としてていたものに、この「自由」はきわめて近い。カニングハムはもはや「共感」さえとくに関心を持たないのではあるけれど。


さて、では、平田的な窃視的主体(ただし自律的で自由なモダニズムの主体)はいまどれほどリアリティがあるかと言えば、かなり疑わしいと言うべきではないだろうか。例えば、「何よりも私たちが見てみたいものがただ一つある。私たちの精神、私たちの心の在りようを覗き見てみたいと、私たちは切に願っている」と平田はいうのだが、こうした観客像は、モダニズムの視点から見ればまさに理想的な主体に相違ないけれども、他面で、観客の可能性をかなり限定してしまってはいないだろうか。「ただ一つの」見てみたいもの(私たちの心の在りよう)にのみ、私たちの視線は向けられるわけではない。「細部を拡大して描く」演劇で、私たちの眼差しは実にさまざまに浮遊しうる。その可能性に対して演劇はどれだけ開いていけるのか。(いや、だからといって、動物化する観客の欲望に応えていればそれでよし、ということでもないだろう、が)

ところで、この近代的主体に対するリアリティの欠如は、『小説トリッパー』(spring 2006)の大塚英志「セカンドチャンスとしての近代をいかに生きるか」が提起する問題に関わってもいるだろう。現代の日本において、近代は主体の確立という仕方では達成されているとは言い難く、このことを、これまでひとは無視しつつ、ポスト近代の「戯れ」ばかり語ってきた。こういた傾向を批判して、大塚は、まだ達成されていない理念型のままの近代的主体「私」を、そのまま劣化したと言って捨ててもいいのかと声を荒げる一方、具体的な方策として、中高生に自分の言葉で憲法前文を書いてもらう運動をずっとしている、のだそうだ。多分、でも重要なことは、憲法を書くというコースを作ることではなく、他者に出会う経験を用意することだろう。憲法を書くことが、何か立派な主体に一瞬なってみたということではなく、それによって他者(の他者性)に出会ってみたということでなければ(これまでの自分が揺るがされる、踏み外す、ズッコケル、その意味で何らかのダンス性がここにはあるはず)、あまり意味はないはずだ。そうそう、重要なのは、他者に誘惑されつつそれによってこれまでの自分がむき出しにされること、あるいはこれまでの自分に自由になること、これまでの他者の認識が再考を促されること、であろう。

だから、こう言うべきかもしれない。観者の自由を保証することが必ずしも演劇(あるいは芸術的行為)の理想の最終形ではない。観客の前にうまく自らの思い描く世界を反映した出来のよい水槽を置くことよりも、むしろ、観客に対して積極的にどのような仕掛けを講じたかが重要なのであって、その仕掛けのあり方こそを作品というべきなのではないだろうか。その際、基本的な考えになるのは、見る者と舞台とが対称的な関係にあると考えることではなくむしろ、非対称的な関係にあると考えること。

そう考えたとき、フリードの「没入」は、近代的な主体の自由にもまたがりながら、この観客への仕掛けという論点にもまたをかけている点でぼくにとって魅力的なのだ。観客を誘惑しつつ、そこからどんな新しい局面を引き出すことが出来るのか、と考える潜在的な可能性があると思うのだ。