Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ピナ・バウシュはシアトリカルな状態を逆手に取る

2006年05月12日 | Weblog
彩の国さいたま芸術劇場で、ビデオダンスのフェスが行われている。ピナ・バウシュの「コンタクトホーフ」公演のヴィデオとそのドキュメンタリーを見た。
「コンタクトホーフ」は、1978年初演の彼女にとっては初期の作品。くすぐるとか、ゆったりとした手の動きでダンスするとか、絶叫するとか、彼女らしい現在にまで続く、けれども現在よりもずっとフレッシュで軽快で楽しい振りの連続。で、それを初老の男女たちが踊る、と言うのがこのヴィデオ、2002年の作品。

初老の男女たちに対するピナ・バウシュの態度は、なかなかサディスティックな感じ。振り付けをやや強引に彼らの体に押し込める。速い細かい動きでは、十分にはついて行けてない感じが、ばれてしまってたり、する。けれども、なんか、それが結構いいのだった。ダンスの構造がこの遊離によってむき出しになっている気がするのだ。ダンスの構造って、要するに、振りを体に型押しし、体はそれをこなそうと努める、という構造。で、ふつうはこの(振りと体の)二つが密着して離れないので(つまり離れように稽古を重ねていくので、そしてその稽古をこなせてしまうので)、この構造のありさまにひとは気がつかないまま見てしまう。まあ、隠れててほしいものなのだ、ふつうは。むしろ綺麗に踊ることは、この「隠す」ことに夢中な振る舞いとして見えてくることさえある(体を消そう、なんてことがモットーだったり)。でも、その構造がここでは、もたもたしたおじいさんのステップとか、手振りとかで、露わになる。すると振りに隠れていたそのひとらしい体の表情が自ずとあふれてくる。知らないのに「その人」というものが、前面に出てくる。そして、それを愛でることがここでは許されている。ピナ・バウシュの真骨頂は、こういうところにある、とぼくは思ってしまう(で、この点において、ソンタグの「キャンプ」論がぼくのなかでちらついたりしてる)。

また、振りとそのひと(の体)との適度な距離は、老齢の知恵というか奔放さを発揮出来るようにもしていて、ふくよかな体のおば(あ)さんが腰を器用にクイックさせたりするところがたまらなくおかしい(薄いドレスでクイックイッと腰を振る彼女は周りの老年ダンサーのモデルみたいな存在になって、みんなに「こうよっ!」なんて感じで見せつけたりする、そういうシーンがあるのだ)のは、振りの強制によってその女性が、なかばいたしかたなく、なかば悪のりして、自分の腰の案外機敏なさまを、露わにしたりしてしまうからなのだろう。「いわれてるからやってんのよ」みたいなエクスキューズが、普段はしないのだけれど故にそのひとの個性として眠っていたままの何かを引き出す機会になっている、ここでは。フツーの人たちである彼らはフツーの人たち同様シャイだけれど、だからこそ、彼らにとって「振りの強制」という機会は、そのシャイネスからちょっと距離を取り、いつもの自分からはみ出るいいチャンスになるのだ。しかも、彼らは「振り」からも適度に距離をとっている(とってしまう)わけで、実にクールな場が成立しているのだった。で、そういう瞬間にこぼれる「その人」を微笑とともに愛するということが、ピナ・バウシュの作品には起こる、のであり、それは確かにかなり希有な瞬間だと思うのだ。