Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ひとつの注意は、それ以外のことへの注意散漫に繋がる

2006年05月03日 | Weblog
フィギュアが家に三体いらっしゃる。ちょっとドキドキする。彼女たちがしばしば、Aとの朝食中の話題の中心になる。

ロボット系のフィギュアと違い、美少女系のフィギュアは存在が「脆弱」だ。このことは、Aがすごい面白い指摘をしているので、そちらを読んでほしい、です(ぼくが言うのも何ですが)

大抵の美少女系フィギュアは、自分のことに集中して(没入して)いる。その内向の度合いはさまざまなのだけれど、フィギュア単体だと文脈からいったん切り離されてしまっているので、仮にドラマの一場面を演じる姿勢だとしても外向きに何かを表現していると言うよりは、その場面でフリーズしてしまったようになり、結果内向きになる(つまりこちらを意識しない=没入しているように見える)。例えば、写真の緑の髪の女の子は、一人の部屋でくつろいでいるとなにやら物音がして「何?」とこわごわ振り向く、といった瞬間でフリーズしている。すると向いた先に視線が集中する分、他からの視線には不用心になっている。しかも、注意を向けた視線の先に居ても彼女はこちらに気づかない(目の描き方、ないし目を装飾として描いてしまうあり方にも、この点から注意してみたいものですね)。で、ここからが絵にはないフィギュアの魅力で、イメージのなかから現実の世界に産み落とされたフィギュアならば、多視点から見つめることが出来る。ボードレールならば、だから彫刻は(芸術として)ダメなんだと言って一つの視点に見る者のまなざしを限定出来る絵画を称揚するところなのだろうけれども、むしろ多視点から不用心に見つめられてしまう脆弱性こそ、このフィギュアというもののもつ、したたかな「誘惑」の戦略なのに違いない。で、たぶんこれは、生きている人間がやろうとしても限界があるはず。フィギュアというものが死んでいて(生きていないが)こそ発揮できる魅力なのだろう、きっと。

窃視、覗き見、視姦、と言ってもいいのだけれど、それを誘い込む方法にフィギュア独特のものがあるって気がするのですよ、それが実際じっくり見て、ちょっと分かったような。

でも、単純に「欲情するっ!」って感じで見るわけでもないのですよね、ひとはこれを。たぶん。例えば、プリッツを握った手の「にぎっ」の感触とか、眼の中にあるU字型のややコミカルな形状とか、単に丁寧な皺の加工に注目するなどといったわかりやすい技術論に落とし込むべき話ではなくて(巧い!とか細かい!とか、じゃなく)、こまかい「感覚のエンタメ」がこれでもかと詰め込まれている気がする。髪やパンツの動きの形状とかも、単に動きでも単にものとしての質感でもない微妙な感覚(やわらかいもこもこ感、とか)がある。そういうところにいちいち反応して享楽するのが、楽しいのかな、っと、かじってみる。

んー、面白いなー、興味がつきない。