5/20付けの桜井さんからのコメント「単純な疑問 (桜井)」へお答えします。
>常識的に考えれば、実際に目の前にいる生身の他者ではなく(単なる)絵に描かれた人物が、こちらにまなざしを向けている(という仮定)だけで、絵を見る者に心理的バイアスがかかるものでしょうか?ちょっとフリードのこれ、論理が苦しいような気がするんですよ。
「論理が苦しい」と考える気持ちはわかります。ただ、フリードをフォローすれば、絵画に(絵画の)自意識を感じてしまうことがある、という前提から話が始まっているわけで、ドニ・ディドロなどが、十八世紀にロココ的な絵画とくにあからさまに顧客のニーズに応えようとしてこびている絵画に「わざとらしさ」を感じて、それとは異なる自然な優美(自分の行動に没入している優美)を絵画の振る舞いに求めた、フリードはそこに注目したわけです(『没入とシアトリカリティ』)。それと、「こちらにまなざしをむけている」絵画については別の文脈から論じるべきで、このあたりのフリードが対象にしている絵画は、歴史画かリアリスムの絵画で、肖像画のようなあるいは『アヴィニョンの娘たち』のようなストレートにこちらに目を向けている絵画については(没入やシアトリカリティの文脈では)論じていません。
>作者が描こうとする対象を捕らえる態度にはもちろん覗き魔的欲望があるというのはわかるんですが。
なるほど、そういう欲望もあるかも知れませんが、とりあえずフリードは基本的には見る者の側から議論を展開しています。
>それと、近年のフリードの研究はよく知らないんですが、彼が「客体性」「演劇的」ということを一番最初に言い出したときは、端的にロバート・モリスとかのミニマリズムのインスタレーション的彫刻を批判するためだったわけですよね。その際に、彼が言っていたのは、インスタレーション(=演劇)的な彫刻はあらかじめ作家が見方を(演出として)お膳立てしてしまうので、見る者の主体性、自由を奪うというような話だったと思うのですが、それも、ごく常識的に考えるとちょっとおかしいような気がする。だって、鑑賞者は自由に歩き回ることが出来るんだから。
見る者が、客体を見る主体として設定させられてしまうところにフリードのミニマリズム批判はある、ということがまずあると思います。それはいわば、劇場的構造を内包する絵画、に対する批判です。「見る者を主体とし、当該の作品を、、、客体とする」よう見る者を強要するリテラリズム(ミニマリズム)の作品にフリードは「舞台の現前stage presence」を見ています。
ただし、より重要なことは次の点だと思います。「それ[舞台の現前]は、リテラリズムの作品の押しつけがましさobtrusivenessの作用、またしばしば攻撃的でさえある作用であるのみならず、そういった作用が見る者に無理強いする特殊な共犯性の作用である」。リテラリズムの作品は、単に劇場的構造を呈示するのみならず、その構造の内に身を置くことを観客に押しつけてくるのであり、その「押しつけがましさ」こそ、フリードが批判する重要な点です。
それで、さらに重要なことに、鑑賞者が自由に動き回れたとしても、その際、ユニタリーなオブジェが並んでいるだけで見るべきものが乏しいという点があると思います。ある意味では、ミニマリズムの作品が呈示するシアトリカリティは、絵画史が克服しようとした事態そのものであって(とフリードは考えていて)、それをことさら観客に示したところで、だから何なの?という批判がフリードのなかに強くある、と言えるのではないでしょうか。
でも、これは個々の鑑賞者の受け取り方によって、評価が分かれるところかなとも思います。中身がないことから作品が始まるといった態度には、作品の自律性(作品内部の有機的関係性)をことさら重んじアンソニー・カロの彫刻などを尊重するフリードとは違った意味でのモダニズムが看取できるとも言えるからです。フリードはミニマリズムを斬る刀でケージも批判していますが、ケージの呈示するサウンド・スケープが実にユニークな瞬間に思えることもあるに違いありません。ぼくもそう感じることはあります。ただし、反対に、それが実にコンセプチュアルでまた「押しつけがましい」と感じる場合もあります。ノイズを、ある価値をもった「サウンド・スケープ」として聴くように説得されているように感じてしまう、なんてことが。フリードの批判は、後者に大きく振り子が揺れたときの感じを反映しているとぼくは思っています。
ただ、ミニマリズムの意義については、1968年のフリードだけで判定しても不公平だと思いますし、例えばハル・フォスターの『現実的なものの帰還The Return of the Real』(1996年)でのミニマリズムの扱い方なども参照して考えるべきだと思います。これについては、後日何か書くかも知れません。
>常識的に考えれば、実際に目の前にいる生身の他者ではなく(単なる)絵に描かれた人物が、こちらにまなざしを向けている(という仮定)だけで、絵を見る者に心理的バイアスがかかるものでしょうか?ちょっとフリードのこれ、論理が苦しいような気がするんですよ。
「論理が苦しい」と考える気持ちはわかります。ただ、フリードをフォローすれば、絵画に(絵画の)自意識を感じてしまうことがある、という前提から話が始まっているわけで、ドニ・ディドロなどが、十八世紀にロココ的な絵画とくにあからさまに顧客のニーズに応えようとしてこびている絵画に「わざとらしさ」を感じて、それとは異なる自然な優美(自分の行動に没入している優美)を絵画の振る舞いに求めた、フリードはそこに注目したわけです(『没入とシアトリカリティ』)。それと、「こちらにまなざしをむけている」絵画については別の文脈から論じるべきで、このあたりのフリードが対象にしている絵画は、歴史画かリアリスムの絵画で、肖像画のようなあるいは『アヴィニョンの娘たち』のようなストレートにこちらに目を向けている絵画については(没入やシアトリカリティの文脈では)論じていません。
>作者が描こうとする対象を捕らえる態度にはもちろん覗き魔的欲望があるというのはわかるんですが。
なるほど、そういう欲望もあるかも知れませんが、とりあえずフリードは基本的には見る者の側から議論を展開しています。
>それと、近年のフリードの研究はよく知らないんですが、彼が「客体性」「演劇的」ということを一番最初に言い出したときは、端的にロバート・モリスとかのミニマリズムのインスタレーション的彫刻を批判するためだったわけですよね。その際に、彼が言っていたのは、インスタレーション(=演劇)的な彫刻はあらかじめ作家が見方を(演出として)お膳立てしてしまうので、見る者の主体性、自由を奪うというような話だったと思うのですが、それも、ごく常識的に考えるとちょっとおかしいような気がする。だって、鑑賞者は自由に歩き回ることが出来るんだから。
見る者が、客体を見る主体として設定させられてしまうところにフリードのミニマリズム批判はある、ということがまずあると思います。それはいわば、劇場的構造を内包する絵画、に対する批判です。「見る者を主体とし、当該の作品を、、、客体とする」よう見る者を強要するリテラリズム(ミニマリズム)の作品にフリードは「舞台の現前stage presence」を見ています。
ただし、より重要なことは次の点だと思います。「それ[舞台の現前]は、リテラリズムの作品の押しつけがましさobtrusivenessの作用、またしばしば攻撃的でさえある作用であるのみならず、そういった作用が見る者に無理強いする特殊な共犯性の作用である」。リテラリズムの作品は、単に劇場的構造を呈示するのみならず、その構造の内に身を置くことを観客に押しつけてくるのであり、その「押しつけがましさ」こそ、フリードが批判する重要な点です。
それで、さらに重要なことに、鑑賞者が自由に動き回れたとしても、その際、ユニタリーなオブジェが並んでいるだけで見るべきものが乏しいという点があると思います。ある意味では、ミニマリズムの作品が呈示するシアトリカリティは、絵画史が克服しようとした事態そのものであって(とフリードは考えていて)、それをことさら観客に示したところで、だから何なの?という批判がフリードのなかに強くある、と言えるのではないでしょうか。
でも、これは個々の鑑賞者の受け取り方によって、評価が分かれるところかなとも思います。中身がないことから作品が始まるといった態度には、作品の自律性(作品内部の有機的関係性)をことさら重んじアンソニー・カロの彫刻などを尊重するフリードとは違った意味でのモダニズムが看取できるとも言えるからです。フリードはミニマリズムを斬る刀でケージも批判していますが、ケージの呈示するサウンド・スケープが実にユニークな瞬間に思えることもあるに違いありません。ぼくもそう感じることはあります。ただし、反対に、それが実にコンセプチュアルでまた「押しつけがましい」と感じる場合もあります。ノイズを、ある価値をもった「サウンド・スケープ」として聴くように説得されているように感じてしまう、なんてことが。フリードの批判は、後者に大きく振り子が揺れたときの感じを反映しているとぼくは思っています。
ただ、ミニマリズムの意義については、1968年のフリードだけで判定しても不公平だと思いますし、例えばハル・フォスターの『現実的なものの帰還The Return of the Real』(1996年)でのミニマリズムの扱い方なども参照して考えるべきだと思います。これについては、後日何か書くかも知れません。