Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

GW3

2006年05月06日 | Weblog
5/3

海の家の隙間から海が見える。しぼんだどらえもんとあんぱんまんも。ぼくはこういうオレンジ色の時間の、なんでもないようなものたちのいちいちが好きで好きでたまらない。転がる空き瓶の箱とか、看板の「かすれ」とか、砂利の「てかり」とか、影とか。

GW2

2006年05月06日 | Weblog
5/3

隣の片貝海岸をさらにぶらぶらする夕方。夏でもないのに海の家でははまぐりを焼いていたりして、惹かれる。砂浜に出て、すぐに駐車場のほうに戻る途中で、小六くらいの活きのいい少女二人とすれ違う(姉妹だろう)。半ズボンに長い足が目立つ自意識がたってきた様子のお姉ちゃんが、ずっとAに釘付けになっている。足を止めてじっーと見てる。振り向いているのが限界になったあたりで、妹になにやら笑って話しかけはじめた。あの目は「嫉妬」だな。小六の乙女に嫉妬させるAというひとが面白くってその瞬間が忘れられない。

写真は、その後、海の家ストリートを歩いている途中で、上から突きあがっている竹串を踏んでしまいニューバランスを串が貫通した証拠写真。信じられないくらい痛かった。竹串を外側から内側から抜いていたぼくの脇で、Aはげらげら笑っていたのだった。

GW

2006年05月06日 | Weblog
5/3は、九十九里の海に行く。

豊海海岸には、ささやかな塔(見晴台?)が立っていて、そこにはカップルたちの彫り物が無数にあって、やや気持ちが悪い(怨霊みたいに見えなくもない)。


まことクラヴ『シカク』(@駒場、アゴラ劇場)

2006年05月05日 | Weblog
予感がしていた。大体ぼくの予感はタイトルを読んだ瞬間に起こる。これは何かに似ている。「コシツ」だ。ゴロが似ているだけではなく、「コシツ」が「個室」と「固執」と両義的なように(そう思わせるように)、「視覚」「資格」「四角」「死角」「刺客」と多義的な語彙に思えるところが似ている。豊かなイメージ?いやいや、こういう場合、しばしばからだの動きは言葉に引きずられてからだが発するイメージはむしろ狭まってしまいがちなのだ。「四角」を「視覚」を「死角」をからだがなぞってしまう。解答のあるゲーム、にからだが奉仕するとき、みている間頭ばっかり動いちゃってからだにこないものなのだ。いや、な、予感がする。
こういう時の足は、迂回しながら進む。夕方まで、レオ・スタインバーグのピカソ論にニーチェの影がちらついてきて『悲劇の誕生』をめくり、一段落すると1時間ほど体を休めて、六時頃電車に乗る。ストレートに駒場東大前まで乗ればいいものを、下北沢で途中下車、軽く食事をして、そこからアゴラまで歩く。GWの住宅街をとぼとぼ歩く。そこで、さっきの「ゴロ」のことが頭をよぎる。不安だ。30分はかかると思いきや、案外早く着きそうだ、となるとやや速度を落とす。
結果としては、ここ数年ダンスを見てきた中でかなりの下位に位置する公演だった。いや、誰かぼくが感じられていないよい点があったと思うなら、ぼくに教えてください。こういうとき、ぼくはまず自分が悪いんだと思ってます、ので。笑っているお客さんもいましたから、何かが楽しかったんだと思います。
まず、明らかにやってはいけないことをしてしまったのではないか。ひとつは、エレベーターを使うこと。似た点だけれど、アゴラの黙ってても演劇臭がしてしまう空間に警戒する気持ちをもたなかったこと(両者は、作品が場所に負けてしまう、あるいは場所に作品が甘えてしまう結果を、ほぼ例外なく導く)。またひとつは、映像を実に気安く使ってしまっていること(なんとなくコンドルズ的な、つまらないけれど何かをみんなで見たに気させるテク(テク?)を思わせた)。こうした点に関してはまさに「クラヴ」(部活)ノリが発揮されてしまっているのだけれど、いざくだらないギャグに執着する的な意味での(従っていい意味での)部活ノリは初期と比べて明らかに薄くなってしまっている。「余裕」というか「隙」というか「抜き」というか、はずす「間」みたいなものがほぼ皆無なのだ。だから観客(少なくともぼく)のからだは動かない。こまかい「失策」が起きたとき観客は笑う隙をもらえたと喜び、リラックスして笑っていた、のだけれど。いや、そもそもブラックライトを使って体につけた白い札の束だけが光って踊る、とか、何でそれで客を楽しませることが出来ると考えたのか、不思議に思ってしまう演目ばかりで、気になるところは一つ二つではないのだ、が。

見ながら、自分がここで踊るとそれだけで何かが現出するのだとダンサーの方々が感じていらっしゃるのではないかと訝しんだ。からだが動いていれば、観客は何かを受け取ってくれる、多分、ポジティヴに。そういう甘えを強く感じた。グリーンバーグとフリードが「リテラリズム(直写主義、文字通り主義)」「オブジェクトフッド(客体性、ものがあるということ)」とミニマリズムのアートに対して形容したときの不満と似たものを感じた。ものがそこにただあればそれで何かが生まれる、そういう甘えに対する不満。だからといって、その反動で、単なる技術への回帰って方向で一種「右傾化」するんじゃ、ほんと何とも切ない気持ちになる。

ルソーによる動物の「社交」

2006年05月04日 | Weblog
上智大での研究会のメンバー、「金子」さんが「アートのセクシュアリティ」記事にコメントを書いてくれて(どうも!)いるんだけれども、そこに動物の話がありました。例えば、ルソーは、動物の「社交」についてこう書いています。

「初恋の幸福な時期にある二羽の若い鳩がわたしに見せてくれるのは、現代のいわゆる賢者たちが動物の行為とはそういうものだとしている、愚かしい乱暴な行為とは全くちがう光景です。雄の白い鳩は一歩一歩愛する鳩のあとについていきますが、相手がふりかえるとすぐに、こんどは、とっとと逃げて行きます。相手がなにもしないでいると、くちばしで軽くつついて挑発します。相手が退却すると、追っかけます。拒めば、六歩ばかり飛んで、さらに相手を誘います。自然の純真さは媚態やものうい抵抗を適当に用い、その技巧はこのうえなく巧妙な蓮っぱな女でも及ばないくらいです。」(ルソー『演劇について』より)

すごいのは、こうした「手管」というかルソー曰く「技巧」は、彼によれば、文化的なものと言うよりは「自然の純真さ」から発するものだということです、ね。「金子」さん、面白いでしょ?

ちなみに、「とっとと」とか「蓮っぱな女」とか、岩波文庫の今野一雄訳は語彙がいかしてます。

ひとつの注意は、それ以外のことへの注意散漫に繋がる

2006年05月03日 | Weblog
フィギュアが家に三体いらっしゃる。ちょっとドキドキする。彼女たちがしばしば、Aとの朝食中の話題の中心になる。

ロボット系のフィギュアと違い、美少女系のフィギュアは存在が「脆弱」だ。このことは、Aがすごい面白い指摘をしているので、そちらを読んでほしい、です(ぼくが言うのも何ですが)

大抵の美少女系フィギュアは、自分のことに集中して(没入して)いる。その内向の度合いはさまざまなのだけれど、フィギュア単体だと文脈からいったん切り離されてしまっているので、仮にドラマの一場面を演じる姿勢だとしても外向きに何かを表現していると言うよりは、その場面でフリーズしてしまったようになり、結果内向きになる(つまりこちらを意識しない=没入しているように見える)。例えば、写真の緑の髪の女の子は、一人の部屋でくつろいでいるとなにやら物音がして「何?」とこわごわ振り向く、といった瞬間でフリーズしている。すると向いた先に視線が集中する分、他からの視線には不用心になっている。しかも、注意を向けた視線の先に居ても彼女はこちらに気づかない(目の描き方、ないし目を装飾として描いてしまうあり方にも、この点から注意してみたいものですね)。で、ここからが絵にはないフィギュアの魅力で、イメージのなかから現実の世界に産み落とされたフィギュアならば、多視点から見つめることが出来る。ボードレールならば、だから彫刻は(芸術として)ダメなんだと言って一つの視点に見る者のまなざしを限定出来る絵画を称揚するところなのだろうけれども、むしろ多視点から不用心に見つめられてしまう脆弱性こそ、このフィギュアというもののもつ、したたかな「誘惑」の戦略なのに違いない。で、たぶんこれは、生きている人間がやろうとしても限界があるはず。フィギュアというものが死んでいて(生きていないが)こそ発揮できる魅力なのだろう、きっと。

窃視、覗き見、視姦、と言ってもいいのだけれど、それを誘い込む方法にフィギュア独特のものがあるって気がするのですよ、それが実際じっくり見て、ちょっと分かったような。

でも、単純に「欲情するっ!」って感じで見るわけでもないのですよね、ひとはこれを。たぶん。例えば、プリッツを握った手の「にぎっ」の感触とか、眼の中にあるU字型のややコミカルな形状とか、単に丁寧な皺の加工に注目するなどといったわかりやすい技術論に落とし込むべき話ではなくて(巧い!とか細かい!とか、じゃなく)、こまかい「感覚のエンタメ」がこれでもかと詰め込まれている気がする。髪やパンツの動きの形状とかも、単に動きでも単にものとしての質感でもない微妙な感覚(やわらかいもこもこ感、とか)がある。そういうところにいちいち反応して享楽するのが、楽しいのかな、っと、かじってみる。

んー、面白いなー、興味がつきない。