Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

シャイネスのダンス

2006年01月26日 | Weblog
一昨日のこと、東大での事務仕事を終え、てくてくと帰路につくその電車のなかで、荒川洋治の『~感想』を読んでいたら、先に触れたことのみならず、さまざまなよき刺激が襲ってきたのだった。そこで、なんでかぼくの頭に浮かんだのは、

もしいま「もっとも優れたダンス」というものを想定するならば、「シャイネスのダンス」だろう

、という言葉だった。『作家の値打ち』(福田和也)ならぬ『ダンスの値打ち』なんて本をもし書いたとしたら、これが最高峰100点満点。いちばん近くにあってしかし舞台上ではまずほとんど見ることのできないもの、それは気恥ずかしさがこぼれてきてしまった踊り手のダンスではないか。徹底して「作為」=「文学」を否定する荒川のまっすぐな意固地の姿勢につきあっていると、気づけばそんなことが頭に浮かんできてしまったのだった(それだけじゃなく、多分電車のなかでipodがThe Smithsをかけだして、Shyness is nice, and shyness can stop you.♪なんて歌う曲「Ask」のこと思いだしたこともひとつの誘因だろう、彼らはまさに「少年の赤面」を歌うバンドだった!)。だって素敵だと思いませんか?踊ることの気恥ずかしさを隠せずにこぼしてしまう瞬間のダンス、それが見られるなんて。そう、「ダンス」ってあるいは「舞台上のダンス」って、基本「恥ずかしい」ですよね。大体がして、ダンスがらみじゃない友人に「ダンス批評してます」って言うの、ちょっと恥ずかしいもの。であるからこそ、この「恥ずかしさ」は隠しちゃダメで、「芸術」とか何かとかあるステイタスを与えることで隠しちゃうのは、赤面の可能性を消去しちゃうマズイ術策、イマドキ言葉で言えば「偽装」(あーでもイマドキ言葉が「偽装」だなんて、なんかおもろい時代だなー、ドゥルージアンとかわくわくしてないのかな?ヴァレリーなひとたちとか)。マズイ理由は、硬くなっちゃうと言うこと。ぼくはみたことあります、恥ずかしがりながら踊るダンスを、これ、でもプライヴェートな場所とかでしかまず見られないですよね。で、あるからこそ、それ、シャイネスのダンスは魅力的で重要なのです、よ。

いま、時代は「ぶっちゃけ」じゃなくなってきた。かといって「賢しい人」もあんまり楽しくない(報道の踊り方はむかつくがホリエモン逮捕はひとつのムードをつくるのではないか)。話は違うかも知れないけれど、茶髪なひとたちも近頃ほんと見なくなってきた。時代は清純に向かってます。大事なのは「シャイネス」です。これ舞台上にひっぱり出せたらすごいなー、舞台芸術がもつのベクトルとは正反対のものだろうから、がんばればがんばるだけ消えてしまうもの。だから、こそですねえ、舞台上にあれば貴重だし、リアルだし、魅力的じゃないかと。

と、一昨日夕食に作ってくれたおでんつまみながら意気込んでAにしゃべったら、「あー、それ山賀さんじゃん」ときた。そ、そうだったーかー。

あるいは、随分「ひねくれ」の考えかも知れないけれど、「臆面もない」感じのこの前のピンクは、「臆面」という言葉をきちんと意識させながら「もなく」と打ち消しさせちゃうところで、「シャイネス」のダンスを外側からなぞるものだった。だから、放っておけなかったんだな、なんて思う。

ひとつ、訂正があります。
the GROUND-breaking 2006の主催は、プリコグのみならずSTスポットもでした。ぼくの読み落としです。失礼しました。若干の書き直しをしました。

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