さっき、午前中、近所の大学にてくてく歩いていった(歩いて15分で大学というか大学の図書館があるなんて、なんて素晴らしい!)。すると、今日は学会があるそうで、ポスターをみると「日本双児学会」とある。いろんな学会があるもんだなー、ついついあたりを見渡して、被検体にあたる双子を捜してしまったが、そりゃいるわけないよな。美学会の大会に別に美が転がっている、なんてことがないように。
細々した調べものが着々と進む。あの部分どうにかなってきた。と誰にも共有してもらえない充実感をひとり、誰もいない図書館で味わっていた。
荒川『~感想』がらみの日記が続いていますが、誰かいきおいで買っちゃった人いないですかね。というか、この話面白いですか、ねえ。ぼくはこのブログを閲覧しに来る人の8割はダンス公演の拙感想文を読むことが目的なのではないかと思っていて、でも、それ以外の内容がしばらく続いても一日の閲覧者が減らなかったりすることがあって、例えば今回なんかそうで、そういうときに、一体読み手は何を楽しみにしているんだろう、とちょっと思ってしまうのですね。というのも、案外「読んでいるんだろうな」と思っていたひとが読んでいなかったりするもので(結構、あるもので)、じゃあ誰がどんなこと思って、、、と気になってしまうのでした。
「シャイネスのひと?」といろいろ考えていて、三日前か、「あ、正津勉だ!」と思いだしまして。と、こんなブログがありますね。もう5年になるか、武蔵大学の文化祭で、詩人とダンサーがコラボレーションするという、なかなか面白い企画があったんですが、そこで異彩を放っていたのがこの正津勉。というか、そのときみて、それ以来、何か詩集を読むとかしてたわけではないのですが、ときどきふいに、気まぐれに思いだしてまして、三日前かもそうでした。どうだろ、ね、『脱力の人』というのが新刊か。あのときは、マイクにくちすごく近づけて、てれくさそーにしながら、「あなたのおっぱい、ふふ」とか読むんですよね、自作を。もーばかばかしくて、会場の体育館が変な雰囲気になって、「もやもや」だったのを思いだします。そういうものを、舞台上に引き出すのは、非常に難しい、はず。捉えてさらに捉えたものを解放してやんなきゃならない。絶対矛盾的自己同一(なわけないか)。
で、Aとこの件で少し話が盛り上がってまして、
大事なのは、シャイな赤面のみならず、むしろそこからひとつ踏み込んで踊っちゃってることだろう、という話になって。逡巡と決意。この辺り、多分、むかーし当ブログで書いた「ぶりっこ」のこととも関連するはず(あ、いまなぜかituneから、カルロス・トシキ&オメガトライヴ「ときはかげろう」が流れてきた)。要は、そうである際の、殻の柔らかい状態が、魅力的ではないかと思うのだ、そこに「他者と出会う」ということがある、と思うのですね。
『エル・ジャポン』に寄稿しました。あのセレブ系ファッション誌です。どういったことか、ダンス特集が組まれたのです。そこでぼくが担当したのは、「日本のダンスが繰り出す新たなステップ」という総論と観賞ガイドのようなものです。ファッション誌で日本のコンテンポラリー・ダンスを取りあげるから原稿書いてと言われて、「ドレスダウンするダンス」ってキーワードで書いてしまうぼくは、パンクスです。あともうひとつキーワードにしたのは、「ハピネス」でした。最終的に記事タイトルからは削除されてしまいましたが、ずっとタイトルは「ハピネスを目指して」でした。ダンスはそのジャンルの性格として、良い悪いは別として「ハピネス」を目指していると思うんですね。もちろん、そのためにさまざまな「迂回路」を凝らす、そこが大事なわけですよ、確かに。でも「凝らす」ことが目的ではないはず、で。「カッコイイ」でも「スゴイ」でもなく「ハッピー」であること、硬さを弛めること(硬さに対してつねに批評的であること、と考えれば、批評的な状態はハッピーの状態でもあると)、それがダンスだと。
細々した調べものが着々と進む。あの部分どうにかなってきた。と誰にも共有してもらえない充実感をひとり、誰もいない図書館で味わっていた。
荒川『~感想』がらみの日記が続いていますが、誰かいきおいで買っちゃった人いないですかね。というか、この話面白いですか、ねえ。ぼくはこのブログを閲覧しに来る人の8割はダンス公演の拙感想文を読むことが目的なのではないかと思っていて、でも、それ以外の内容がしばらく続いても一日の閲覧者が減らなかったりすることがあって、例えば今回なんかそうで、そういうときに、一体読み手は何を楽しみにしているんだろう、とちょっと思ってしまうのですね。というのも、案外「読んでいるんだろうな」と思っていたひとが読んでいなかったりするもので(結構、あるもので)、じゃあ誰がどんなこと思って、、、と気になってしまうのでした。
「シャイネスのひと?」といろいろ考えていて、三日前か、「あ、正津勉だ!」と思いだしまして。と、こんなブログがありますね。もう5年になるか、武蔵大学の文化祭で、詩人とダンサーがコラボレーションするという、なかなか面白い企画があったんですが、そこで異彩を放っていたのがこの正津勉。というか、そのときみて、それ以来、何か詩集を読むとかしてたわけではないのですが、ときどきふいに、気まぐれに思いだしてまして、三日前かもそうでした。どうだろ、ね、『脱力の人』というのが新刊か。あのときは、マイクにくちすごく近づけて、てれくさそーにしながら、「あなたのおっぱい、ふふ」とか読むんですよね、自作を。もーばかばかしくて、会場の体育館が変な雰囲気になって、「もやもや」だったのを思いだします。そういうものを、舞台上に引き出すのは、非常に難しい、はず。捉えてさらに捉えたものを解放してやんなきゃならない。絶対矛盾的自己同一(なわけないか)。
で、Aとこの件で少し話が盛り上がってまして、
大事なのは、シャイな赤面のみならず、むしろそこからひとつ踏み込んで踊っちゃってることだろう、という話になって。逡巡と決意。この辺り、多分、むかーし当ブログで書いた「ぶりっこ」のこととも関連するはず(あ、いまなぜかituneから、カルロス・トシキ&オメガトライヴ「ときはかげろう」が流れてきた)。要は、そうである際の、殻の柔らかい状態が、魅力的ではないかと思うのだ、そこに「他者と出会う」ということがある、と思うのですね。
『エル・ジャポン』に寄稿しました。あのセレブ系ファッション誌です。どういったことか、ダンス特集が組まれたのです。そこでぼくが担当したのは、「日本のダンスが繰り出す新たなステップ」という総論と観賞ガイドのようなものです。ファッション誌で日本のコンテンポラリー・ダンスを取りあげるから原稿書いてと言われて、「ドレスダウンするダンス」ってキーワードで書いてしまうぼくは、パンクスです。あともうひとつキーワードにしたのは、「ハピネス」でした。最終的に記事タイトルからは削除されてしまいましたが、ずっとタイトルは「ハピネスを目指して」でした。ダンスはそのジャンルの性格として、良い悪いは別として「ハピネス」を目指していると思うんですね。もちろん、そのためにさまざまな「迂回路」を凝らす、そこが大事なわけですよ、確かに。でも「凝らす」ことが目的ではないはず、で。「カッコイイ」でも「スゴイ」でもなく「ハッピー」であること、硬さを弛めること(硬さに対してつねに批評的であること、と考えれば、批評的な状態はハッピーの状態でもあると)、それがダンスだと。