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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

untitled

2010年10月17日 | I日記
岩渕貞太ソロ・パフォーマンス「untitled」を昨日見た(10/16@STスポット)。

ぼくは岩渕作品を正確に語る言葉をもっていない。

見ていながら自分がうまく目の前の光景とつきあえていないと思い、その気持ちのまま終演してしまった。以前もそういう感じがあった。

ぼくだけがそうだったらいいのだが。
「岩渕言語」が理解できる者にはちゃんと理解できるのならばいいのだが。

ダンスを見ていると、ときどき、はじめて接する外国語を聞いているような気持ちにさせられることがある。意味が分からない。けれども、見ている側はどうにか接点を求めようとして、この響きはなんだか好きだなとか、迫力のある声だとかみたいにして、分からないなりに理解可能な何かに変換できるところを探して、楽しみを見つける。それで作品に接したことになるのか分からないけれど、自分としてはこの印象を持って帰ろう、そうするしかない、という曖昧な思いで帰路につく。ダンス作品を見るたび、ぼくはこんなことばかりこのブログに書いてきたのかもしれない。ダンスの公演に少ないながらもそれなりの人数の観客が足を運んでいる、現状そうである限り、ぼくこそが少数派なのだ、と最近は思うようにしている。ぼくのダンス公演とのつきあいは、以前ほど「まんべんなく」という感じではなく「ぽつぽつ」になってきている。

いや、大谷さんの音楽はなかなか素晴らしかったと思うし、岩渕くんの鍛え上げられた肉体、端整な顔立ち、眼の美しさ純粋さ、奇妙な衣装、シルバーに統一された空間などひきつけられるところはいくつかあった、ダンスでもこんがらがった紐がほどけるような解放感を感じさせる瞬間などは見所だった。強く激しく真っ直ぐな岩渕の肉体は、それ自体面白いとも言える。

でもぼくにはなにをしているのかがよく分からない。ほとんど恥ずかしい気持ちで正直に言うのだが、よく分からないのだ。ダンサーだったら、なにに立ち向かっているのか(そこで試みられている課題はなになのか)分かるのだろうか。

ぼくと大谷さんはある時期よく「記録された身体」というテーマについて、もっと振付家の試みがあったらいいのに、と話していた。もちろん、それはいまでも思っている。20世紀の芸術が試みたある種共通のテーマだった。ダンスにおいてそれがどう試みられるべきかという課題は、自分でもよく考えるし、そうした課題に関わる作品があれば見たいと思っている。

端的に言えば、いまぼくは「未知のもの」へ向かう表現よりも「既知のもの」を利用した表現に興味がある。「未知のもの」へ向かう探究というのは、どんどん難解になっていく傾向がある。その難解さに意味があるのか、そこで生じているものが過渡的であるならば、いずれそれがするりと分かりやすいものへと変化し、なるほどそういうことだったのね、となるかもしれない。だといいけれど、難解さそれ自体に意味はない。しばしば難解さは「難解だなこりゃ」というある種の不快感を観客に催させる信号としてしか機能しない。

大谷さんの音楽などそういう意味ではきわめて分かりやすかった。例えば冒頭のノイズ。「鉢に球を入れて回し、ごりごりと音を立てている」なんて状況ははっきり分かるし、その音は、聴く者の記憶のあれこれを引き出し、そうして観客の関係をつくりだしていた。具体音を重ねつつも、構造が読みとれ、リズムも感じられ、素材の割にポップとさえいえるものだった。

けれども、ここまで書いてきて、ああそうかと思うのは、岩渕くんはきっと、そうした観客との関係にはあまり興味がないのかもしれないということで、彼の目指していることを昨日の感想をもとに仮に言ってみるなら「奇妙な踊る彫刻になること」なのではないか。この世の中にあって徹底的に浮いた存在としての奇妙な、踊っている彫刻。そうした彫刻を彫り上げる目標の最中にあって、ぼくの考えていることなんていうのは不純なアイディアに過ぎないのかもしれない。

仮にそうだとすれば、室伏鴻もそんなことを考えているダンサーかもしれない。室伏だったら、独特な奇声を伴う呼吸音や不意打ちのリズムをつくるだろうところで、岩渕は淡々とある一定のテンポで動き続けるのだなと思ったところがあった。その一定のテンポが気になった。観客をダイナミックに自分の世界に引き寄せるのではないやり方をあえてとっているのだとすれば、、、そうしたポイントから、岩渕のダンスとぼくは接点をもつことができるのかもしれない。

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