Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

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2008年01月06日 | Weblog
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午後、西荻窪にて、新年会。いまだ風邪直らず、声出ず。

die pratze新人シリーズ6を見る。
ユマニネマyeux manie-ne (ma)「endleofan minutes over aphorism」(これまでグループ名を間違えて記載してました、すいません)
ヴォキャブラリーは既存のダンスを踏襲していて新味はない。ジャズとかストリートとか。ただし、そこで展開される事柄が何かこれまでのダンスの分野にはあまり見かけないようなものに映る。悲しいような、救いのない、いたたまれないような気持ち。マインドとしてのゴスというか。そう思ってくると、出てくる振りのありふれた感じが、ダメと言うよりもライトノベル的、あるいはキャラや表現スタイルに個性をあまり感じない類のマンガ的とでも言うような、既成的なものの執拗な反復をしているものと似ているものに思えてくる。その点で、ある種のリアリティを体現している気がした。何がしたいのかは明確ではない、けど、何か興味深いものを今後作るような予感を感じる。

川上暁子「苛性ソーダ」
暗い舞台が次第に明るくなり、静止状態から次第に激しくなっていく。よくある感じの進行。

坂本典弘「spot」
神村恵カンパニーで「ビーム」に出ていた坂本。音響は、一定の間隔で切り替わる。テンポのいい音楽と、お喋りのテープが2つと、キースジャレットのジャズ・ピアノ(あとでも言うようにジャレットだけ他の倍の時間)。それに応じて、ダンスの印象が変わったりもするが、基本的にやっているのは、終始、ごくミニマルでシンプルな動作。運動の流れ、瞬間に出てくるポーズにセンスを感じる(見ることを誘発される魅力的な奇矯さがそこに含まれている)。ただ、「はずす」という仕方が「自分の隠れ蓑を用意する」なんて状態へとやや安易にスライドしている気がして、結果、「照れ」というか「自分問題」に過剰に意識的になっているように感じ、気になる(「照れ」「恥ずかしさ」はすぐれたダンスの必要条件ではあると思う、のだけれど)。とくに、一定の長さで、音響が変化してきたのに、最後のジャレットだけ執拗に長く、そしてその分、ピアノのデリケートな旋律に呼応するように、「変にナルシスティックな没入が起きてます」的な見せ方が高まる。そうした演出があって、さらにそれをやっぱり「はずす」ように、手が鼻へと向かいそして鼻を吊る、と、突然脇から女の人が出てきて、坂本の頬をひっぱたく。すかさず反撃に出た坂本は、女の子の胸にぴとっと手をやり、暗転、終幕。その、終わりの仕方の、「なんちゃって」と手前に作ったテンションをあっさりひっくり返すなんてところが、坂本の鋭さを物語る部分であると同時に現時点での限界を示しているようにも思ってしまった。次回作が見たい。


帰宅後、NHKトップランナーに出演する康本雅子を見る。

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風邪直らず。

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