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ようやく、声が出るようになる。
新人シリーズ6を見る。
米倉和恵「TEAR 子宮のラビリンス」
心の中にある絵を舞台化したいという欲求は、相当程度のダンサーが共有している願望のようだ、けれど、相当のセンスがない限り、まず成功しない。それは、何かの動作を何かとして見せることをスムースに観客に行わせる力量がまず基本としてあるかどうかに掛かっており、でも、それは全然「基本」であって、そこからどれだけことを転がし、際だったイメージを展開などし、観客をどこか彼方へと連れて行ってしまえるか、そのあたりが勝負のしどころになる。そのレヴェルにについてどうだったかなんてことが見る者の話題になるように作らないと、ちょっとひとに見せるもの、つまり作品などと言えるものにはならない。羽毛が舞う、床に散らばる。それが、とても汚く見えた。つまり、見せたいイメージをつきに阻害するだろうものでありながら、安易に、不必要なところで、それが床に散らばったままになっていた。どうしてそれでいいと思うのだろう。自分の心の中のイメージに、観念に酔いすぎなのだ。その分、本当はそちらが主であるはずの現実の舞台がおろそかになっている。
斎藤麻里子「パラダイス」
黒沢美香&ダンサーズに参加しているダンサーらしく、舞台はきわめてストイックでデリケートに構成された。音響なし、照明もまったく変化なく、明るくフラットなまま(本当に、これで何の問題もないのだ、ダンスの公演は。しばしば問題を引き起こすのは。むしろそうじゃない場合なのだ)。ギョロッとした目とか、おかっぱの髪型とか、顔に興味を湧かずにはいられないルックス、そのことを本人がちゃんと自覚していて、顔の角度を小さく変えるだけとか、ぎょっとする表情で静止とかを繰り出す、うまいなと思う。ハエよけの傘をさかさにしてそこに折り鶴を沢山乗せている。それをこぼし、あらためて、拾っていく。間、リズムが絶妙。身体にスリルを湛える力量は、黒沢系と呼びたくなるほど、黒沢的であり、充実している。もっと見たいと思わせると同時に、斎藤らしさというものが一体、どういうものとしてせり上がってくるのか、今後の活躍にとても期待したくなる。
磯島未来「Matilda」
磯島も黒沢美香の薫陶を受けているダンサー。PINKという女の子三人組のグループも組んでいる。最近、Chim↑Pomとか小指値とか、集団で活動をしている、あるいは集団であるからこそ個性が発揮できていると思える若い作家たちに、自分の興味が高まっていると感じているのだけれど、PINKは、そうした興味をダンスの分野で感じさせる人たち。若いひとにとっては自意識とどう戦うかという問題が余りに大きいので、一人での活動だと、どうしてもそこに突き当たり、前進できなくなりがちで、しかし、集団になることで、その悶絶から自由になるということがあるのではないか、なんて思ったりする。
つまり、何が言いたいのかって言うと、磯島はソロよりもPINKの方がいい、で、今回もやっぱりそうかなと思ってしまった、ということ。振り付けの基本はふたつ、旋回と落下。磯島は、繰り返し舞台の外周を走ってめぐってみたり、回ることに集中する。そして、椅子に乗り、かなり危険な状態で、膝ごと落下したりする。「葛藤」とか「模索」とか、そんな言葉が浮かぶ、それが若さを表現していると言えばそうだし、若い磯島ならではの舞台になってはいるのだけれど、それは一方で「若い」ということに無反省な感じ、にも見えてしまう。ひとに自分を見せる、ということは、例えば、何か巨大な「真実」を隠しもって「嘘」を飄々とつく、そのくらいの「駆け引き」がないと成立しないようにぼくは思っている。そうした、見る者を引き込む仕掛けを用意することが大事なのではないか。
ようやく、声が出るようになる。
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米倉和恵「TEAR 子宮のラビリンス」
心の中にある絵を舞台化したいという欲求は、相当程度のダンサーが共有している願望のようだ、けれど、相当のセンスがない限り、まず成功しない。それは、何かの動作を何かとして見せることをスムースに観客に行わせる力量がまず基本としてあるかどうかに掛かっており、でも、それは全然「基本」であって、そこからどれだけことを転がし、際だったイメージを展開などし、観客をどこか彼方へと連れて行ってしまえるか、そのあたりが勝負のしどころになる。そのレヴェルにについてどうだったかなんてことが見る者の話題になるように作らないと、ちょっとひとに見せるもの、つまり作品などと言えるものにはならない。羽毛が舞う、床に散らばる。それが、とても汚く見えた。つまり、見せたいイメージをつきに阻害するだろうものでありながら、安易に、不必要なところで、それが床に散らばったままになっていた。どうしてそれでいいと思うのだろう。自分の心の中のイメージに、観念に酔いすぎなのだ。その分、本当はそちらが主であるはずの現実の舞台がおろそかになっている。
斎藤麻里子「パラダイス」
黒沢美香&ダンサーズに参加しているダンサーらしく、舞台はきわめてストイックでデリケートに構成された。音響なし、照明もまったく変化なく、明るくフラットなまま(本当に、これで何の問題もないのだ、ダンスの公演は。しばしば問題を引き起こすのは。むしろそうじゃない場合なのだ)。ギョロッとした目とか、おかっぱの髪型とか、顔に興味を湧かずにはいられないルックス、そのことを本人がちゃんと自覚していて、顔の角度を小さく変えるだけとか、ぎょっとする表情で静止とかを繰り出す、うまいなと思う。ハエよけの傘をさかさにしてそこに折り鶴を沢山乗せている。それをこぼし、あらためて、拾っていく。間、リズムが絶妙。身体にスリルを湛える力量は、黒沢系と呼びたくなるほど、黒沢的であり、充実している。もっと見たいと思わせると同時に、斎藤らしさというものが一体、どういうものとしてせり上がってくるのか、今後の活躍にとても期待したくなる。
磯島未来「Matilda」
磯島も黒沢美香の薫陶を受けているダンサー。PINKという女の子三人組のグループも組んでいる。最近、Chim↑Pomとか小指値とか、集団で活動をしている、あるいは集団であるからこそ個性が発揮できていると思える若い作家たちに、自分の興味が高まっていると感じているのだけれど、PINKは、そうした興味をダンスの分野で感じさせる人たち。若いひとにとっては自意識とどう戦うかという問題が余りに大きいので、一人での活動だと、どうしてもそこに突き当たり、前進できなくなりがちで、しかし、集団になることで、その悶絶から自由になるということがあるのではないか、なんて思ったりする。
つまり、何が言いたいのかって言うと、磯島はソロよりもPINKの方がいい、で、今回もやっぱりそうかなと思ってしまった、ということ。振り付けの基本はふたつ、旋回と落下。磯島は、繰り返し舞台の外周を走ってめぐってみたり、回ることに集中する。そして、椅子に乗り、かなり危険な状態で、膝ごと落下したりする。「葛藤」とか「模索」とか、そんな言葉が浮かぶ、それが若さを表現していると言えばそうだし、若い磯島ならではの舞台になってはいるのだけれど、それは一方で「若い」ということに無反省な感じ、にも見えてしまう。ひとに自分を見せる、ということは、例えば、何か巨大な「真実」を隠しもって「嘘」を飄々とつく、そのくらいの「駆け引き」がないと成立しないようにぼくは思っている。そうした、見る者を引き込む仕掛けを用意することが大事なのではないか。