を見た。場所は彩の国さいたま芸術劇場大ホールにて(4/8)。
90分というローザスにしては長い作品は、フルヴォリューム、いまの彼らダンサー達のまた彼女ケースマイケルの力量ないしはヴォキャブラリーの幅を大いに見せつけるものだった。いや問題は「幅」だけではないだろう、というよりもボッンと突きつけられたのは、もっと強いシンプルなもの、ダンス(ダンスすること)への強い思いなのだった。
基本的には、マイルス・デイヴィスの69年のLPが音楽として用いられる。ただし、そこから拾い上げられてくるダンスは非常に多彩だ。多彩?やはりそういう鳥瞰的な視点から繰り出されてくるものに大きな違和感を感じる、どうもそうじゃない、ここにあるのは「ゲーム」への愛好(中毒・熱中)とでもいったものにより近い。ただしそのステージがどんどん変わっていくのだ。そこにはそこの流儀とか、振る舞いの繰り出し方とか、センスとかがある。それに個々のダンサーがトライアルしてゆく。見ている間はそういうことをあらかじめ感じてみる、という必要を感じなかったのだが、どうもケースマイケルがポストトークで強調していた言葉を尊重すると、このトライアルは「即興」に捧げられたものだと言うべきなのだろう。ただし、ぼくにはこの時間をあまり即興という枠組みで捉える気がない。これまた本人がトークで話していたように、構造をどうしつらえておくか、ということに主にケースマイケルの努力が注がれているわけで、「どれだけのストラクチャーがあれば自由になれるか 自由になるためにはどれだけのストラクチャーが必要か」という発言を鑑みれば一目瞭然なように、単に「思いつきを転がす」といった程度の他愛もない一般的な即興感とは、天と地ほどの隔たりがあるのだ。
そして、そのダンサー達による即興的な時間のトライアルの内には、確かに多くのケースマイケルのトライアルの跡が輝いており、その戦略はコンテンポラリーダンスの現在の最高到達点を示しながら、他ならぬダンスへの愛とでも言う以外にないものをこちら見る側にぶん投げてくる。
とりわけ、ぼくが参ってしまったのは、いわゆるジャジーな後半の後半に至る前のところで、ヒップホップのさまざまなヴォキャブラリーが取り上げられながら、しかしそこに求道的に迫っていくのではなく、むしろユルく気軽にファッションで着こなすみたいに踊るなんて感じの部分だ。「ホワイトソウル」なんて言葉が浮かぶ。けれども、黒人のものを白人が操る時に起こりがちなリズムの喪失は巧みに避けつつ(ある程度のリズムの魅力はきちんと感じさせながらも)、ユルい独自のタイム・ラグを生み出しさえもする。このタイム・ラグの妙味を添えるアイディアがいわゆるコンテンポラリーダンスと呼ばれるもののそれとして舞台にあることが、まさにコンテンポラリーダンスのいまの最高到達点とぼくがいいたくなってしまう当のものなのだ。
そしてそれは、アートとしてのダンス=コンテンポラリーダンスが限りなくクラブ的なダンスに近づいて見せた危険なトライアルでもある。もう、観客が「観賞」の姿勢でいることがアホらしくなる、その際際まで責め立てる、踊っちゃいたい、椅子をどけちゃいたい(それを邪魔するのはどこのどいつだ!ああ、アートとなったダンスの作法ね)、と、じゃあアディオス!元気でセニョリータ!と言い切ってしまいそうなくらいの素晴らしいクリシス。でも、そのクリシスを呼び込んだのは他ならぬコンテンポラリーダンスだという、そんなオチ。
即興というか、これまでの作品作りにも顔を見せていたカポエラ的な、要するにファイティング/ダンシングの要素がぬるい解決を拒否しながら、しかしまたもうひとつのローザスの要素である気流や渦巻きを思わせる「自然の運動」の群れがその周りにとりつき取り巻き、舞台を揺らし続ける。揺らされる舞台は、ダンサーを水槽を泳ぐ魚のように観客の安心した観察対象にすることもせず、しかし個々のダンスが際だったものとしてひとつひとつ蠢く状態にあることを決して止めない。その点、「ドラミング」と「ワンス」の見事な「折衷」と纏めるのは、単純すぎるかも知れないが、そんなこと言ってみたくなるくらい、新鮮でかつきちんとローザス的だったと言うことなのだ。
ああ、もっと整理すべきこと、纏めるべきことが幾らでもあるような気がする。とくに、長身の男性ダンサーがぐんにゃりしながら激しい動きを繰り出すところが、気持ちよかった。こういう形状、要するにヒップホップのグラフィティなどにみられる形、がどんどん吸収されて呈示されて融合されて批判されて、いく、そんなところ、ついつい盛り上がってしまった。他にも思い出したら、ここに備忘録的にどんどん後から描き残しとこ。
少なくとも言えるのは、ローザスの今日の公演によって、ダンスはダンスだということが明らかになった。ダンスがダンスである時に一番ダンスが輝くというあまりにも当然な帰結、に酔った。見た方がいいよ!とくに、ダンサー&振付家諸氏!
ところで、なんか今日の作文変だ!そじゃない?多分朝方に、変態評論家(?)の抱腹ぜっとう文を読んだことと、田口賢司の『メロウ』(こりゃまた素晴らしいのだ)を電車で読みながら埼玉を行ったり来たりした、せいだ。Aはサルサの教室にウキウキで初日行ったりきり日付変わっても帰ってこないし、ねー、今日はイイものの周りで翻弄されてグラグラしてた一日だった!
90分というローザスにしては長い作品は、フルヴォリューム、いまの彼らダンサー達のまた彼女ケースマイケルの力量ないしはヴォキャブラリーの幅を大いに見せつけるものだった。いや問題は「幅」だけではないだろう、というよりもボッンと突きつけられたのは、もっと強いシンプルなもの、ダンス(ダンスすること)への強い思いなのだった。
基本的には、マイルス・デイヴィスの69年のLPが音楽として用いられる。ただし、そこから拾い上げられてくるダンスは非常に多彩だ。多彩?やはりそういう鳥瞰的な視点から繰り出されてくるものに大きな違和感を感じる、どうもそうじゃない、ここにあるのは「ゲーム」への愛好(中毒・熱中)とでもいったものにより近い。ただしそのステージがどんどん変わっていくのだ。そこにはそこの流儀とか、振る舞いの繰り出し方とか、センスとかがある。それに個々のダンサーがトライアルしてゆく。見ている間はそういうことをあらかじめ感じてみる、という必要を感じなかったのだが、どうもケースマイケルがポストトークで強調していた言葉を尊重すると、このトライアルは「即興」に捧げられたものだと言うべきなのだろう。ただし、ぼくにはこの時間をあまり即興という枠組みで捉える気がない。これまた本人がトークで話していたように、構造をどうしつらえておくか、ということに主にケースマイケルの努力が注がれているわけで、「どれだけのストラクチャーがあれば自由になれるか 自由になるためにはどれだけのストラクチャーが必要か」という発言を鑑みれば一目瞭然なように、単に「思いつきを転がす」といった程度の他愛もない一般的な即興感とは、天と地ほどの隔たりがあるのだ。
そして、そのダンサー達による即興的な時間のトライアルの内には、確かに多くのケースマイケルのトライアルの跡が輝いており、その戦略はコンテンポラリーダンスの現在の最高到達点を示しながら、他ならぬダンスへの愛とでも言う以外にないものをこちら見る側にぶん投げてくる。
とりわけ、ぼくが参ってしまったのは、いわゆるジャジーな後半の後半に至る前のところで、ヒップホップのさまざまなヴォキャブラリーが取り上げられながら、しかしそこに求道的に迫っていくのではなく、むしろユルく気軽にファッションで着こなすみたいに踊るなんて感じの部分だ。「ホワイトソウル」なんて言葉が浮かぶ。けれども、黒人のものを白人が操る時に起こりがちなリズムの喪失は巧みに避けつつ(ある程度のリズムの魅力はきちんと感じさせながらも)、ユルい独自のタイム・ラグを生み出しさえもする。このタイム・ラグの妙味を添えるアイディアがいわゆるコンテンポラリーダンスと呼ばれるもののそれとして舞台にあることが、まさにコンテンポラリーダンスのいまの最高到達点とぼくがいいたくなってしまう当のものなのだ。
そしてそれは、アートとしてのダンス=コンテンポラリーダンスが限りなくクラブ的なダンスに近づいて見せた危険なトライアルでもある。もう、観客が「観賞」の姿勢でいることがアホらしくなる、その際際まで責め立てる、踊っちゃいたい、椅子をどけちゃいたい(それを邪魔するのはどこのどいつだ!ああ、アートとなったダンスの作法ね)、と、じゃあアディオス!元気でセニョリータ!と言い切ってしまいそうなくらいの素晴らしいクリシス。でも、そのクリシスを呼び込んだのは他ならぬコンテンポラリーダンスだという、そんなオチ。
即興というか、これまでの作品作りにも顔を見せていたカポエラ的な、要するにファイティング/ダンシングの要素がぬるい解決を拒否しながら、しかしまたもうひとつのローザスの要素である気流や渦巻きを思わせる「自然の運動」の群れがその周りにとりつき取り巻き、舞台を揺らし続ける。揺らされる舞台は、ダンサーを水槽を泳ぐ魚のように観客の安心した観察対象にすることもせず、しかし個々のダンスが際だったものとしてひとつひとつ蠢く状態にあることを決して止めない。その点、「ドラミング」と「ワンス」の見事な「折衷」と纏めるのは、単純すぎるかも知れないが、そんなこと言ってみたくなるくらい、新鮮でかつきちんとローザス的だったと言うことなのだ。
ああ、もっと整理すべきこと、纏めるべきことが幾らでもあるような気がする。とくに、長身の男性ダンサーがぐんにゃりしながら激しい動きを繰り出すところが、気持ちよかった。こういう形状、要するにヒップホップのグラフィティなどにみられる形、がどんどん吸収されて呈示されて融合されて批判されて、いく、そんなところ、ついつい盛り上がってしまった。他にも思い出したら、ここに備忘録的にどんどん後から描き残しとこ。
少なくとも言えるのは、ローザスの今日の公演によって、ダンスはダンスだということが明らかになった。ダンスがダンスである時に一番ダンスが輝くというあまりにも当然な帰結、に酔った。見た方がいいよ!とくに、ダンサー&振付家諸氏!
ところで、なんか今日の作文変だ!そじゃない?多分朝方に、変態評論家(?)の抱腹ぜっとう文を読んだことと、田口賢司の『メロウ』(こりゃまた素晴らしいのだ)を電車で読みながら埼玉を行ったり来たりした、せいだ。Aはサルサの教室にウキウキで初日行ったりきり日付変わっても帰ってこないし、ねー、今日はイイものの周りで翻弄されてグラグラしてた一日だった!