Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

田山明子『情熱の花 Ⅱ』

2005年04月08日 | Weblog
を夜見に行く(@テルプシコール)。

その前、今日(4/7)は、部屋掃除をばんばんする。布団を干し、洗濯をし、強い風に揺れる花を撮る。
ジョグを昼にする。向かい風に息が上がる。

で夕方中野へ。
初めて見た。田山は端的に言うと日本的な中年女性の身体である。この身体が彼女の用いるメディアだとして、その個性(そのからだが自ずと示す表情や特性、動きの質)がそれ自体として悪いということは、決して言えない。そこには、時代の跡(60-70年代、ぼくが幼少の時の微かな記憶に残る感触)のようなものも感じる。ただし、重要なのは、そのような条件のなかで静止しているのか運動を目指しているのか、ということ、それだけだ。
暗黒舞踏は、内向をひとつの方法として採る踊りだと、ぼくは考えている。外側につまり相手のダンサーや観客に向かっていくのではなく、あたかもそういうものが存在しないかのようにただひたすら内を向く。さて、でも、この「内」とは簡単に特定できる「自分」のようなものであるとは限らない、というよりも、「向く」という没入の具合こそが見所、見せ所なのであり、その際、どこまでも「内」なる「自分」が固定されずにズレ続けていく、そうであることによって、時間は延長され、そこにそのズレの時間に運動が生じるのである。
さて、田山はこの「自分」の特定を静かにかわしながら進んでいく。冒頭の冒頭は、その手振りが、その黒いロングスカートを扱うさばき方が、先に記したような「ある年齢の女性」的なものを呼び込んできた、その時には、それで済んでしまうものと思ってもいた。いや、でも見れば見るほど、微妙でしかし個性的な形象が次々繰り出されてきて、横に照明でラインを引いた道筋で、インベーダーゲームのような横への移動をゆっくりしながら、そこに出てくる運動は、どこまでも何かでありそうで何ものでもない生物の生成変化をくり返しながら行くのである。神社の境内?でとってきたような音、鳥の声、車の音が聞こえ、するとこの生物は、何かその音響の中でさまざまに変転しながらそれ自体は動くことのない植物に思えてきた。ああ、そう言えばタイトルにも「花」とあった。映画『誰も知らない』をぼくはひとが植物化する映画だと考えたのだけれど、ただそれは決して悲観的なメタモルフォーゼではないな、と田山の運動からそんなこと思ったり。
時間へと運動へと引き込む、その引き込み具合だけが、きっと重要なのだ。その際起こる身体の諸形象は、必ずしも印象として残っていかない。そこに記号化や意味付与はほとんど生じてこない。だからどんどん忘れてしまう。そしてだからこそ、ここには何らの主体もないのだ、と思う(この点、この点に限って最近読んだ青木淳悟の読後感と似ている)。この人は誰なのか、この人の「自分」はどんななのか、特定できない。特定できないところにただただ存在するエナジーが、彼女曰くの「情熱」なのだろう。

中野ではどこでご飯を食べればいいのかわからず、味のテーマパークみたいなサンモール脇の小路をふらふらして「味七」というミソラーメン屋で「特みそ」を食す。美味い。でも、これで、昼のジョグは帳消しだなー。

帰り道、『relax』購入、なんと特集はファッション&ダンスだと!

最新の画像もっと見る