Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ヲタ芸

2006年09月10日 | Weblog
ヲタ芸というのは、これどうなんでしょうか。
これとか
TVもこーやってフォローしてるんですか。
いくらでもYou Tubeで見られますね。まじめにフォローしてなかったんですが、これあきらかに80年代的な何かですよね。秋元康的なアイドル・ブームのもっていた形式がこういう仕方で伝承され、いまに生きている。バカ・ダンスだなー、でやっているひとたちは実に楽しそう。このオタクがダンスするという一種のパラドクス(?)は気になるなー。二番目の映像でオタさんがヲタ芸を説明するのに「熱く強く面白くキモく応援するわけです」といってる。自分の「キモ」さをあえて面白がる自虐的だけど明るい居直り(いい汗かく)がダンスになってる。ん、自己反省はある、けどそれが自己肯定にすぐ接続されてしまうところがオタさんぽい、それだから、欠けているのは批評性ということになるのか、、、
Wikipediaなど見ると最近メディア的に話題になっているのにはいろいろな「絡み」があるよう。

ダンスするオタク

ということと、

ヲタ芸のもつ言葉遊びのセンスが80年代ならばサブカルがになっていたものではないか、つまりサブカルなオタク

ということとが、気になるわけですよ。


ところで昨日は、枇杷系『FOOL'S PARADISE』(@吉祥寺シアター)を見た。枇杷系というとぼくは天野由起子が四、五年前丁寧な作品づくりをしていたなと、そのことをまず思い出す。作品性を重んじる枇杷系という一面。それと、その作品性とは異なる即興性を重んじる枇杷系の側面もある、でそこにひととひととが出会う、とかその際に個々の多様性を大事にする的な印象を生んでいるのだろう。ぼくはいま作品性(起承転結的な展開とか、何らかの意味をそのひとまとまりの時間に与えることとか)もあまり興味がないし、即興にもあまり興味がない。だからだろう、魅力を感じることが出来なかった。すごくシンプルに言うと、作品性も即興性もやっているダンサー側の問題にしかならず(あるいは、にしかならなかった)、だからそれらは見ている観客との関係の問題には転がっていかないのではないか。「見せている」という意識はあっても「見られている」という意識が希薄なのではないか。

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