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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

『アパートメントハウス1776』

2006年09月02日 | Weblog
アルディッティSQ+ケージ+白井剛『アパートメントハウス1776』を見た(8/31)。クラシックというか弦楽器の生演奏を聴くのはすごい久しぶりだったので、新鮮で、とくに前半に演奏された3曲中(他はベートーヴェン「弦楽四重奏曲 第13番 作品130「大フーガ」」細川俊夫「花の妖精 弦楽四重奏のための」)、西村朗『弦楽四重奏曲 第2番「光の波」』(1992)が面白かった。四人で一つのフレーズを弾くといったパートがしばしば出てきて、それは音の列を一旦切断し再び繋ぐといったもので、パフォーマンスとしては「ギュン、ギュン、ギュン、ギュン」と響くところに四人ぞれぞれが弓を振り下ろし「ギュン」「ギュン」「ギュン」「ギュン」とやる、そのストロークがユーモラスにも見え楽しい。全くの門外漢の戯れ言ですが、なにやらノイジーなものを物理的にもて遊んでいるその風情は、スクラッチのそれとにているように思ってしまった。

後半に、タイトルの作品が演奏され、そこに白井のパフォーマンスが組み合わされていた。この曲は、アパートのたくさんの部屋からそれぞれ別個の(ルーツをもった)音楽が聞こえてくる、といった趣向から生まれたものらしい。浅田彰の批評文でそのことを知った。ならば、全44曲中の20曲を横並びにして演奏する事自体、ケージの意に添わないもののように思うし、実際聞いていて、シンプル(ミニマル)な演奏が淡々と続くだけだな、という淡泊な印象しかなかなか持てなかった。それをケージの意に添う「ミュジサーカス」にしたのが白井だというのが浅田の論旨。ぼくはそこまでの想像力を喚起されなかったけれども(予備知識があれば違ったのかは分からないけれど)、白井の重さを失ったかに見える身体がはらはらと四人の演奏家の回りを漂う姿に、白井らしいデリケートさとそれが人々を柔らかく繋いでいくしなやかな力をもっていると実感した。一見すると紙ヒコーキや鏡のようなバルーン(最近白井のお気に入り)やマイム的な動きや、モダンにも見えてしまいそうな内的な感情のままに踊っているかに見えるところなどは、わかりやすすぎるくらいわかりやすく「かわいい」とか「男の子」とかの言葉を観客の内に引き出してしまう。けれども本当に魅力的であるのはそうしたアイテムを使う手つきにある。場を作る力。とくに白井が舞台端に抜け、五つのバルーンと演奏家だけで、限りなく無音に近い演奏をした辺りの何とも言えない繊細で落ち着いた空間が生まれた。その場を作る力は、なんだか発条トの初期の作品で白井はあまりでないで、独特の全てのひと(ダンサー)が尊重されている場を作ろうとしていたあの感じを思い出させた。白井はごり押しを徹底的にしないで舞台にいるという考えてみれば極めて難しいスタンスを守ろうとした。それを感じる瞬間瞬間の彼は本当に魅力的だった。その魅力を観客がしっかりと確認したのは、最後の最後、アンコールに応えて短い演奏があったとき、白井はお辞儀で垂れていた首を次第に上げるだけというパフォーマンスをただした、そのときだった。すごく納得がいった、そしてそのことが大きな拍手を引き出した気がした。

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