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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

レイナーのケージ批判

2008年02月21日 | 研究ノート 注記
レイナーは、ジャドソン・ダンス・シアターでの最初のコンサートに象徴的なように、ケージのチャンス・オペレーションのアイディアに彼らが影響を受けたことはみとめつつ、しかし、ケージに対して批判的な意識をめばえさせていった過程を、この論考「Looking Myself in the Mouth」で述べています。そこでは、例えば、「選択性とコントロール」という作家の意図的意識的な作業を持ち込んだことで、中軸たるケージから離れようとしたことが示されています。「コントロール」というのは、レイナー「擬似的概説」でも『トリオA』でひとが見るのは「慎重なコントロールの感覚である」などと言ってます。

「選択性とコントロールの再導入は、しかし、完全にケージ的哲学に対立する。そして選択性とコントロールこそ私がつねに直観的に--これで意味しているのは問うまでもないということである--私自身の作品でケージ的な工夫に圧力をかけるよう持ち込んだものである。記号論的分析の観点から、私はそれらの直観の正当性を見出した。同じ点で、現実と言うよりも表面上のものとして話す主体のケージの脱中心化をみることは可能である。」(Yvonne Rainer, Looking Myself in the Mouth, in October (17), the MIT Press, 1981, p.68)

もう少し言葉を重ねると、当時のアヴァンギャルド芸術の主たる指針とは、芸術artと生活lifeの境界線を曖昧にしていくことであり、例えば「ハプニング」の提唱者アラン・カプローがケージに触発を受けてこう述べているのが、代表的です。「芸術と生活の境界線は流体として保たれていなければならず、そしておそらく可能な限り判別出来ないものでなければならない。ひとが作るもの(the man-made)とレディ・メイド(the ready-made)との間の相互作用がこの場合、最大限の可能性をもつだろう。この接合点で、何かがつねに起こっている」(Kaprow)。こうした思考には、イリュージョンを提供するものという既存のartの役割からartを解放してそれをlifeの内へと連れ込むこと、artによってlifeの空間について反省を促すこと、artの空間にlifeの様々な事象を持ち込み反省を促すこと、などが目指されています。ケージで言えば、『4分33秒』のなかで観客が耳にするsilence(沈黙=ノイズ)は、そうしたartとlifeの境界線が曖昧になったところに立ちあらわれたものであり、それの聴取は、作曲された音楽の演奏という芸術的な場面に、生活が紛れ込んだ瞬間なわけです。

ところで、こうしたレイナーの新たな立場からすれば、ケージ主義は、観念論的でさえある、と言われます。そこにあるのは「この生活が非常に素晴らしく、相応しく、正しいと信じるよう導かれている仕方」(p. 68)であり、現実を見過ごしたまま(現実の生活には、様々な問題が当然あるはず。レイナーも意識し、バートのこのテクストで言えばシュニーマンが批判していたフェミニズム的な問題は、その一例でしょう)、生活=素晴らしいという考えに行き着くとすれば、それは観念論的な思考だと、レイナーは考えているわけです。

「これらの諸過程の外で操作をしようとする、ケージ主義的な「非意味呈示的実践nonsignifying practice」は、みずからを、言語以前の--心なし、欲望なし、差異化なし、有限性なしの、純粋な観念の領域にあるものとみなす。要するに、それは、関わらされている一方で、相変わらず踏みにじりそこねている観念論の領域なのである。」(p. 69)

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