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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

無題

2008年07月16日 | Weblog
朝、久しぶりにジョグをする。川沿いまでスクーターで行って(何分建物が丘の上に立っているために、行きはまだよいが帰りは「しごき」と呼びたくなる級のハードトレーニングになってしまうので)浅川の土手を走る。七時くらいだけれど、ぼくよりも十歳くらい年上のおじさんたちが結構走っている。川沿いには工場がいくつもある。市場もある。必然、ブルーカラーのひとたちが多い。コンビニの脇を通るとき、綺麗なシルバーカラーのモンキーを止めて牛乳を飲んでいる腹の出た30才くらいの男のひとを見かけた。Tシャツが着古したものだった。仕事の前ののんきな時間をきっと毎日ここで過ごしているんだろうなあなどと、妄想してしまった。八王子の「フリータイム」といったところか。そう、思い出しながら走っていた。ファミレスでちょっといらいらしながら自分のささやかな自由の時を大事にしようとする岡田君の戯曲、あれはファミレスとかがメインの街がもつ独自の病を一種のエネルギーにして、生まれたものだろう、などと。そして、そうしたある特定の場に限定することで、そこへと閉じることで、ある病はその気密性によって圧力を増し、ある独特の力を獲得するのだと思う。岡田君の素晴らしいところは、そうした力をきちんと気密性のある空間を設定することで生み出している、そこにあると思う。そして、ぼくが思うのは(ここもジョグ中の出来事)、とはいえ気密性のある空間の外に出さえすれば、その病の大半は解消してしまうのではないか、ということだったりする。ファミレスの憩いと苛々感は、そこから抜け出せない焦燥感が増幅したもので、そこから抜け出せないことで戯曲はある効果を獲得するわけなのだけれど、けれども、ぼくたちは、こうも言うことが出来るのではないか、と思ってしまうのだ。「そこから出て、八王子のコンビニで牛乳飲む人生だってあるんじゃん」と。

芸術とは、効果の技を(作り手は)披露しまた(観客は)愛でるものである。内容そのものというよりも、その効果、あるいは効果ある内容(設定)がどうして出来たか、を楽しむものではないか。「効果」とは、ここまでのまとめで言うならば、気密性を高めたある空間を設定して、そこに起こる圧力をコントロールすること、そこにあるものである。だとすると芸術(家)のすることとは、ある空間を絶対のものとして(とりあえず。それが生みだす効果のために)設定すること、である。芸術の怖いのは、その設定が効果のためであるにもかかわらず、しばしば設定が抜け出せない本質として語られてしまいがちなところだ。

ちょっと脇道に逸れるけれど、昨今の「非モテ」論壇(?)は、そうした間違いをおかした(勘違いを誘発した)のかも知れない。「非モテ」という設定をすることで何が見えてくるのかということを語るための場であったはずなのに(おそらく)、自分を「非モテ」と思いこんで疑わないひとを生み出してしまう(それが「秋葉原での連続殺傷事件」を生んだというのは、過剰な読み込みだとは思うけれど)。そもそもゲームであるはずのことを閉塞した事実であると思いこませるところが、芸術にありまた批評にもあるのかもしれない。それは怖い。

八王子のコンビニ脇で朝の時間を過ごすことが、仕事先の手前の(確かそうでしたよね)ファミレスでコーヒーを飲むことに較べて、よいかわるいは分からない。優劣の話ではない。どこかある場に閉じたときに、芸術は始まるのかも知れないけれど、人生は、必ずしもそうして閉じる必要はないのかも知れない(ぼくもたまたまだったけれど、新しいマンションがどんどん建ってゆく川崎の街から、やや取り残され感のある八王子の山に移って、移ることが出来るのかと知った気がしたのだった)などと、思って走ってくたくたになってスクーターを止めた空き地に戻って、八時、工事のお兄さんたちが集まっているところでエンジンをかけて、今日のジョグが終わった。

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