Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

磯部涼『ヒーローはいつだって君をがっかりさせる』

2006年09月13日 | Weblog
最近、これを読んでいる。読んで簡単には言えないことをたくさん考えている。このことと、9.11を取り上げたTBSの番組(ちくしーとあずみーの)で繰り返し崩壊する建物の映像を見ていたせいもあるかも知れないが、今日は午後から雨の渋谷でぼーッと時間を過ごしているうちにどんどん気分が落ちていく。「殺伐」とか「崩壊」とかその手の言葉が浮かぶ。ipodでテクノ聴きながらぶらぶらしていたのもあるかも知れない。テクノは(あったり前のことしか書きませんよっ)ゼロの音楽だ。乾燥した感情ゼロの音楽だ。これが車に乗るときに気持ちいいのは、いつだろ、もう四年くらい前になるか、ある人物と車で群馬に日帰りした高速で知った。電車に乗るとそれもあっていると思う。けれど、一番いいのは歩いている時じゃないだろうか。「ドッ、ドッ、ドッ、ドッ」と刻む音に「右足、左足、右足、左足」と合わせて進む、これがいい。音楽とはリズムだ、ともし言えるのならば、そのリズムとはひとの体が両手、両脚をもつシンメトリカルな形姿であることに端を発するものなのではないか?と考えたくなる。つまり音楽とは右と左だ、と。右足の次に左足を伸ばすその瞬間は不安定さを隠し持っている。ここに、ブレとかズレとかが蓄えられている。「えっちらおっちら」の不安定こそスリルある音楽でありダンスではないだろうか。サッカーのシュート・シーンを見ていていつも思うのだけれど、優れたストライカーは、右足と左足のコンビネーションがいい。ダメなのは、左足を踏み込みすぎて右足がボールとの間隔を捉え損なっているなんて時で、リズム感がサッカーなのではないかとさえ思えてくる(バスケなどはその最たるものだろう)。なんてこと、テクノ聴きながらBunkamuraの脇を通るときに考えた。即物的であり、感情ではなく位置どり、というか寒暖ではなく高低しかないテクノの展開は、それ故に、音楽におけるリズムの問題へまっすぐ向かっていく。とはいえラテンな何かもあるけどそれより大抵はやっぱり音自体は機械的な一定のリズムでしかなかったりするんだけれど。

ひとつ、例えば。「つーか、すべては同じなのである。菱沼彩子も、モユニジュモも、DJバクも、ECDも。ブラック・カルチャーに真直ぐな愛を持ちながら、なぜかそれを表現しようとするとどこかネジまがってしまうという点で」とか。この「ネジまがってしまう」に対してどれだけ真直ぐ(正直)であるかが重要だという点は(コンテンポラリー・)ダンスのシーンでも同じだ、きっと。でも、ねじ曲がり方が「型」になって「J」何々とか呼ばれたりするのはまたつまらない。この「つまらない」は、SFPの今里が「土方パンク」をカウンターの対象として考えていたなんてあたりを読むとその形がリアルに見えてくる。何か形(様式)をもってしまった「パンク」なるもの、にがっかりした気持ちというのは90年代の後半にある種のひとたちはみな共有したものではないか。大学の五歳くらい歳下の後輩とそんな話をして盛り上がったのを思い出す、「嫌いな音楽はパンクです」ととんがってたその後輩が漏らしたときのこと。じゃあなになら「つまらなくない」か、といえば、やっばり形無き形を求めていくことなんだろう。それもイデア的な何かではなく、常に即物的な「無き形」「無名のもの」だろう。まあ、きわめてまっとうで恥ずかしいくらい当たり前のポイントだと思うのですけどね。とか、読みながら考える。

帰りに、西川美和監督『ゆれる』を見た。非モテ男の兄とモテ男の弟の話かと思ったら、いかに弟はおっちょこちょいでダメなのかという話だった。思い当たる節満載で、ちょっと落ち込む。

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