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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ダンスは聴覚的なもの

2006年09月14日 | Weblog
テクノ・ミュージック、あるいはブラック・ミュージックを主軸とした世界の音楽の本を読んでいると、そこには頻繁にダンスないしダンス・ミュージックという言葉が出てくる。次第に、ダンスとは音楽の中の何かなのだと思い起こさせられる。当たり前といえばそうなのだが、一旦音楽との縁を切るという仕方でアート系20世紀ダンス史ははじまるということもあり、その当たり前に気づくことがなかなか出来なかったりする。

ダンスとは音楽の中の何かだ、とすれば(こう言うとこの時点でじゃあまず「音楽」とは何か?というとてもでかい問題に答える必要が出てくるわけだけれど、とりあえずペンディングしておくとして)、ダンスとは聴覚的な何かなのではないか。あるいは少なくともインナーな、身体内的な、非視覚的な何か。だとすると、ダンスを見るものとして捉えることから出発しているダンス観というのは、何か最初からはき違えを伴っていると言うべきなのかもしれない。ここに、つまり本当は聴覚的な何かであるモノを視覚的な何かであると勘違いしているところに、ダンスというジャンルが抱える「こじれ」があるいは少なくとも問題や課題や破るべき壁(いじくりがいのある何か)が潜んでいるように思う。

ぼくが言いたいのはだからこういうことだ。視覚的な価値基準で作り出すとダンスはダンスではなくなってしまう。形の美しさはだからどれほど美しくてもダンスがダンスでなくなる瞬間(可能性)なのだ。ダンスがダンスでなくなる?面白いじゃないか!という言い方も出来る。それがダンス的快楽を批評的にブレイクしようとする戦略であるのならば。でも、ダンスがダンスでないのに何か形式的にそれをダンスと呼ぶというのは、形骸化であり様式化であり、ただの非ダンス化である。ダンスであり続けようとする身体は、よって聴覚へと再び変換されうる視覚的要素たらねばならない。それは相当デリケートさを要する試みだろう。体がダンスになっている、音楽になっているのでなければならない(さて、再びここで「音楽」とはじゃあ一体何?と問いたくなる、リミックスも音楽だとするならば、音楽する身体とはリミックスを繰り返す身体でもあるだろう)。

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