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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

「里山の古い建物にて」→秩父神社→長瀞

2010年09月26日 | 美術
昨日、車で埼玉県比企郡小川町というところに行ってきた。あきる野から圏央道に乗り、関越道にスライドして嵐山小川まで、一時間ちょっと。あっというまに降り立ったところは、なかなかすごい田舎の景色だった。下里分校。手塚夏子さんが地元の藤野でGWなどにイベントをやっているけれど、あの景色ととても似ている。あれもたしか学校を改装したところが会場だった。まず、近くを流れる小川を眺めたり、牛の声に耳を傾けたり、学校に居着いたひとなつっこい猫を撫でたりした後で、さて、展示を。

目的は、小林耕平。周知の通り基本的に映像の作家。「2-9-1」というタイトルの新作が小さな教室で流されていた。

あたりまえといえばあたりまえだけれど、素晴らしい。17分ちょっとの少し長い作品をなんども見続ける。作品のなかに登場するオブジェ(ティッシュ箱、土偶、ペットボトル、羽の付いた車用ブラシなど)が教室のあちこちに置いてある(撮影場所はこの教室ではなかった)。ご本人からいろいろと興味深い話をうかがったが、ぼくが思うに、この作品は、ダンス作品といっていえるのではないか、ということだった。別にいわなくてもいいけれど、これをダンス作品だといってもいいし、いったときに、いわゆるビデオダンスについての考え方も様変わりするだろうし、ダンスそれ自体についての考え方もフレッシュなものになるのではないかと思ったのだ。

特徴としては、ひとつに固定カメラ。小林の最近の作風は、カメラマンをたてて、自分はファインダーの内側に入ったり出たりと出演者になるというものだった。今作も、小林は出演するが、カメラマンはいない。さしあたり「カメラマンと被写体」というテーマはだから発生しなくなり、ぼくはそこに小林作品の面白さを感じていたので、最初「あれ」と思ったけれど、「カメラと被写体」のテーマはもちろん健在で、これまでより一層見応えのある深みのある作品になっていると思った。

もうひとつの特徴は、言葉。小林はしゃべる。しかも、そのしゃべりに合わせて字幕が出る。パフォーマーの言葉は、見る者を冷静にさせない。期待を与えたり、暗示を与えたり、見る者を待たせる。さてそこでパフォーマー/見る者、どうするか、といった事態こそ「パフォーマンス」といわれる場の真骨頂だろうし、そこで起こる両者間をまたいだスリリングな時間こそ「ダンス」という呼び名を与えるに相応しいなにかではないだろうか。また身体動作のレイヤー、身体から発せられた音声のレイヤー、またそれに基づいて作られる字幕のレイヤーなど、小林の身体から発せられる情報だけでも多くのレイヤーの重なりからなっている。その小林が、さまざまなオブジェをあれこれと動かし、またそれらについて言及する。オブジェの質、色、大きさ、相互の関係などが、ここで、強い作用をともなっている。見れば見るほどそうした緊張ある関係に気づく。

この展覧会は、他には伊東孝志、柳健司、新井淳一、滝澤徹也の作品展示がある。28日まで。都合によりあまり宣伝ができないということなので、知らない方も多いかもしれませんが。是非。また小林さんは柏islandでの展覧会「脱臼」展でも同傾向の作品を出品予定らしい。楽しみだ。

午後には、妻もぼくもはじめて土地なのでぶらぶらしてみようということで、和紙の里でそばを食べた後、秩父駅周辺へ。そういえば、椹木さんの地元ってこのあたりなんだっけ、とか話しながら、観光地のようであまりそういう感じでもない不思議な町並みを散歩した。高校生の自転車は、なんだかチョッパー化されていて、この土地の若者風情を感じる。名物という豚の味噌漬けを買う。秩父神社はカラフルで、虎や猿やクジャクが本堂の外壁を元気に飛び交っている。「見ざる・言わざる・聞かざる」ではなく、ここの猿は「見る・言う・聞く」なのだそう。情報化社会に対応してて、また高齢化社会の理想でもあるらしい。そんな立て看板の口上がおかしい。

帰りに長瀞の岩畳に寄る。岩畳までの100メートルくらいの道は、両側びっしりとおみやげ屋になっていて、江ノ島とか井の頭公園とかを連想させる。いつか船下りしてみよう。

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