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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

「カオス*ラウンジ」→「転校生」

2009年03月28日 | 演劇
カオス*ラウンジ展に行くというのでAに同行。国分寺駅から10分くらい、六畳のワンルームみたいな広さのところに、五十人近くの作品が展示されていて、なんだろう、うん、ともかく、じーっと眺めている内にどんどんと好感が沸いてきました。37才のぼくが「共感する」なんて言ったら彼らに失礼だと思うんだけれど、実際、「共感」というのとも違って、もう届かないものに対してうらやましいというか嫉妬しながら、「いいな」と思うという意味で、「好感」を持ちました。「自分の思い」と「描かれているもの」とその「クオリティ」とがちゃんと一致していて、しかもそうした作品がこれだけ集まり、しかもそうした作品を作る作り手がこれだけ集まっていることに、いまの時代の若い世代ってこんなうらやましいことが出来ているんだ、と思いました。ちょっと前、GEISAIで見た國方真秀未は、ジャポニカ学習帳にエロ・グロのマンガを描き、そうすることで美術の世界とアクセスしていた。それは「アクセス」するための秀逸なアイディアに当時見えた。けれども、いま振り返ると「アクセス」するためになぜ努力する必要があるのか、と思わないでもない。村上隆とつるむのもよいが、「別につるまなくてもいい」ということになっているのかも知れない。Aとも帰りに話したんだけど、別に「マイクロポップ」でもない、つまりマイナーの抵抗でもない。ただ自分の思うところを近くの仲間と共有できる仕方で差し出し合っている。その姿勢がなんだかいいなと思う。アイロニーとか諧謔とか批判とかじゃなくて、まっすぐ。暗いけれど、肯定感がある。「限界芸術」のような、裏返った芸術至上主義でもないと思うんですよ(むしろ芸術至上主義ではないかな、自らの感性に忠実であろうとしているという意味で)。展示の主催者藤城嘘さんは、「ダストポップ」なんて言葉を使っているんですね。「ダストポップ」3/10の記事にでてくるDJ_Takkという描き手を形容する言葉がいいですね。「「可愛い」の乗算によるふわりとした世界がとってもくすぐったくって、でも静電気のようにビリリとくるカッコいい画面」など。ポジティヴな意味で彼らの画風は「微弱だなあ」と思ったんだけれど、そうした点が「くすぐったく」とか「静電気」とかいう言葉にあらわれている気がします。
これだけの作り手が集団になるのは、どうしたら可能なのだろう。mixiやtwitterの時代のなせる技、ということなのだろうか。「シャイで内向的」に見える作り手が、とても上手い感じで仲間を集めている、すごいうらやましい気持ちになった。

その後、池袋に直行し、飴屋法水『転校生』を見た。本当に感動した。必見です。

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