岩渕多喜子『Against Newton』
冒頭、まっすぐ立とうとするとお尻がぽこっとはみ出してしまうなんてことをさらに胸や頭でも起こして行くダンサー。体の遊びとしては面白い。けれど、「お尻」「胸」「頭」という単位はいささか身体の把握としては大づかみだな、と思われ、次第に「言語」のレヴェルに身体を制約している振りであるような気がしてくる。する、と、だいたい岩渕の方法が見えてきてしまう。どんどん「体操」に見えてくる。見るよりやる方が楽しいか。体育大学の舞踊クラブとかで先生やったら受けそう、などと思ってみたり。それでも、やはり体への問いが大づかみだから、掴み方の賞味期限に耐えきれなくなりそう、というかもうこの方法に関しては賞味期限切れ?
黒沢美香『馬をきき』
霧の中の舞台、横から登場の黒沢。たてがみみたいな髪と縄をもつ姿が妙にイカス。それにオレンジの長靴だ。これ、蹄?「ギャロップ」みたいな、慎重で警戒心たっぷりみたいな、足さばき、出したと思ったら引っ込め、このリズムがもう見事。それだけで何とも面白い。奔放な舞台。でんぐりがえしも飛び出す。それが、ほんとにでんぐりがえしで、「ゴロッ、ゴロ」と転がる感じがこっちの体をズルズルにする。なわをまわす。なわをひく。こいつのリズムのへんてこさもひきだされて。ただ、もうちょっと、執拗に静止する瞬間があってもよかったかも、と思うけれど。
鈴木ユキオ『,,,やグカやグカ嗚呼、、、』
どうしても、STで見た印象と比べてしまう、そうするとセタパブの舞台がやや大きく感じられてしまう。体格のいい坊主頭のダンサーがするシャドウボクシングなどが、激しい運動として迫ってくる代わりに絵の一部になってしまっていた。残念なことだ。妖精さんのようなダンサー達、戯れている身体に足はなし、というか。この、どこまでいってもヒット(ミート)感の希薄な身振りは、そういうイマドキの身体を表現してみましたというよりは、そういう身体でそういうことする以外出来ないんで、といいつつそうしているといった風に見える。例えばそれは、「コンビニにすべては詰まっているけれど、それだけがぼくの世界なんで」、なんていって生きていることの絶対的肯定、というか、そんな自分がすべてならば、ただそれを真っ直ぐ投げてみる、そういう姿勢に見える。その文法、その語法、受けとるには、青木淳悟とかを引き合いに出したりすべきかも知れない。いやでも、なんら構築的でない彼らを言葉のレヴェルでおさえようとしてもダメか、それで「弱い」といわれれば、確かにそういうことになるのかも、、、しかし!と反論しようにも、そこから言葉を続ける何かをぼくはうまく見つけられなかった。
隅地茉歩『それをすると』
夫婦的な関係に見える男と女、テーブルとともに、彼らと演奏で絡む笛のミュージシャン。と、ここまでは書けるのだがあとは何も理解できなかった。照明が暗いこととか、ミュージシャンが背中を向けていて、こちらへのアピールする配慮が足りないこととか、大きな理由がこの辺りにありそうだが、ダンス的な部分も受けとりがたい。楽しいもつまらないも何も掴むべきものがない。切ない。無視され続けた気にさせられた30分だった。
冒頭、まっすぐ立とうとするとお尻がぽこっとはみ出してしまうなんてことをさらに胸や頭でも起こして行くダンサー。体の遊びとしては面白い。けれど、「お尻」「胸」「頭」という単位はいささか身体の把握としては大づかみだな、と思われ、次第に「言語」のレヴェルに身体を制約している振りであるような気がしてくる。する、と、だいたい岩渕の方法が見えてきてしまう。どんどん「体操」に見えてくる。見るよりやる方が楽しいか。体育大学の舞踊クラブとかで先生やったら受けそう、などと思ってみたり。それでも、やはり体への問いが大づかみだから、掴み方の賞味期限に耐えきれなくなりそう、というかもうこの方法に関しては賞味期限切れ?
黒沢美香『馬をきき』
霧の中の舞台、横から登場の黒沢。たてがみみたいな髪と縄をもつ姿が妙にイカス。それにオレンジの長靴だ。これ、蹄?「ギャロップ」みたいな、慎重で警戒心たっぷりみたいな、足さばき、出したと思ったら引っ込め、このリズムがもう見事。それだけで何とも面白い。奔放な舞台。でんぐりがえしも飛び出す。それが、ほんとにでんぐりがえしで、「ゴロッ、ゴロ」と転がる感じがこっちの体をズルズルにする。なわをまわす。なわをひく。こいつのリズムのへんてこさもひきだされて。ただ、もうちょっと、執拗に静止する瞬間があってもよかったかも、と思うけれど。
鈴木ユキオ『,,,やグカやグカ嗚呼、、、』
どうしても、STで見た印象と比べてしまう、そうするとセタパブの舞台がやや大きく感じられてしまう。体格のいい坊主頭のダンサーがするシャドウボクシングなどが、激しい運動として迫ってくる代わりに絵の一部になってしまっていた。残念なことだ。妖精さんのようなダンサー達、戯れている身体に足はなし、というか。この、どこまでいってもヒット(ミート)感の希薄な身振りは、そういうイマドキの身体を表現してみましたというよりは、そういう身体でそういうことする以外出来ないんで、といいつつそうしているといった風に見える。例えばそれは、「コンビニにすべては詰まっているけれど、それだけがぼくの世界なんで」、なんていって生きていることの絶対的肯定、というか、そんな自分がすべてならば、ただそれを真っ直ぐ投げてみる、そういう姿勢に見える。その文法、その語法、受けとるには、青木淳悟とかを引き合いに出したりすべきかも知れない。いやでも、なんら構築的でない彼らを言葉のレヴェルでおさえようとしてもダメか、それで「弱い」といわれれば、確かにそういうことになるのかも、、、しかし!と反論しようにも、そこから言葉を続ける何かをぼくはうまく見つけられなかった。
隅地茉歩『それをすると』
夫婦的な関係に見える男と女、テーブルとともに、彼らと演奏で絡む笛のミュージシャン。と、ここまでは書けるのだがあとは何も理解できなかった。照明が暗いこととか、ミュージシャンが背中を向けていて、こちらへのアピールする配慮が足りないこととか、大きな理由がこの辺りにありそうだが、ダンス的な部分も受けとりがたい。楽しいもつまらないも何も掴むべきものがない。切ない。無視され続けた気にさせられた30分だった。