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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

言葉は△心は□

2007年07月20日 | Weblog
近所のW大へ。

ラク=ラバルト『歴史の詩学』(2002年邦訳は今年)がルソーを回避したハイデガーを批判した本であると同時に、ルソーの演劇批判が主題であることを(最新刊の置いてある貸し出しカウンター向いの書棚で流し読みして)知っていたのだが、借り逃していたので。「演劇(性)」はほんといまホットだ。安倍晋三総理がどうして不人気なのかを説くのにも、直接語りかけるストレートさをねらった(ねらいがバレバレの)彼のカメラ目線のわざとらしさを言い立てるべきだと常日頃思っているのだけれど(そんな記事のオファーはどこからも来ないので、ここで垂れ流し)、そんなこんな演劇コンシャス濃度が高まっている昨今。『新潮』の最新号では、斉藤環の連載で再びフリードが取り上げられているし(『カラヴァジョ鑑』所収の「カラヴァジョ考」未読)、図書館の棚を貪り歩く。

ところで『新潮』には岡田利規のエッセイも載っている。ドイツなどにチェルフィッチュで遠征した回想記である。彼はいま、本当に売れっ子。彼をポスト・パフォーマンストークに呼ばないと公演が完成しないという不文律があるのかと思わせるくらい、公演チラシの裏には岡田さんの名前が頻出している。でも、その理由が分かる、と思わせるエッセイだった。内容は、海外公演で、役者が日本語でいつものように喋ると観客が理解していないということをあらかじめ意識してしまうので、発話に対して身体が弱くなってしまう、ということが前半で語られている。いかに言語(日本語)が身体に大きな影響を及ぼしているか、ということをこういう海外公演の場で敏感に感知する岡田君の鋭さと正直さは、さすが。意識-身体の関係というフレームで身体運動に内在する装置を仮想する手塚が、実のところ、格闘しているのは意識についてでも身体についてでも、その関係でもなく(「なく」というかそれ以上に)、それらを語る言葉についてであることと何やら重ねて考えてみたくなる。言葉に身体と意識を並立的に捉える可能性を見出した岡田くんの開いた活路に、ダンスは何か学ぶことが出来ないのか。手塚が最近、作品作りに導入している映像というやつは、この言葉の位置にあるものと言える。意識と身体の関係は、それをどこまでフラットな地平で考えようとしてもどうしても観念的(理想的あるいは恣意的)になりがちだ。その関係を装置としてがつっと取り出してくるためには(手塚がいま道場破り企画で画策しているように)、言い訳無用の客観性が必要で、それを可能にするのがきっとひとつは「言語」なのだろうし「映像」でもあるのかも知れない。

まとまりなく、そんなことを帰り道につらつらと考えて帰宅する、その直前、家の前まで来たあたりでくるりの新曲がラジオから流れてきた。「言葉は△で心は□だな~♪」おっ、いま考えていることじゃん、と思っていると「涙をふいて~♪」とか歌が続いた、って「ふいて」=身体の身振り?くるりも「言葉-意識(心)-身体」を歌ってました。

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