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Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

女子大生のなんちゃって批評誌『KAT』乞うご期待!

2009年12月04日 | Weblog
12/6に開催される文学フリマにて、ぼくがナビゲイターをしているKAT(二年生6人組)という研究会が雑誌を販売します。『KAT』といいます。よろしくです。400円の予定ですが、88ページ。正直安いです(→前日の12/5、製本中に愛着がわきすぎて値段が勝手に上がっていきまして、いま800円で売る予定です)。あと、100部しかつくらないので、貴重なアイテムになるかも知れません。

ぼくはKREVA論とブリトニー・スピアーズ論を書きました。

学生達は、個人ページでたとえば、こんなの書いてます。

「差出人: 中村
件名: おねぇ
日時: 2009年9月1日

"ギャル系"
"non・no系"
"CanCam系"

日本人はなんでも
分類して
仲間を作りたがる

常に群れて
独りにならないように
しているみたいだ


去年の春くらいから
気になる分類があった


"おねぇ系"


どんなお姉さんなんだろ

パッと聞いた感じでは
"お姉系"いわゆる
お姉さん系という
印象しか受けない

しかし、
既存の概念には
当てはまらない

なぜなら
"おねぇ系"と
言われる人たちは
お姉さんではない

むしろ女性ではない

いや、この表現は
正確ではなかった
かもしれない。

"彼ら"は間違いなく
男性という性を
受けて産まれているが
気持ちは女性
……」

この学生は、女っぽい男達を恐らく史上初めてマップ化して分類し分析しています。しかも、携帯をツールにして。史上初の携帯小説ならぬ携帯批評です。

他には、「キャラ化する現代女性」というトークセッションを収めたページでは、

「着まわしを紹介する写真がスクリーンに出ていますが、人の形に背景が切り抜かれているんですね。人物も、一ヶ月コーディネートの一ヶ月分全部見たんですけども、主人公のさやさん以外に、彼や友人などは文章では出てくるんですけども、写真にはこの人以外は出てこない、背景にいるはずのそうした人間関係がくり抜かれていて写真に登場しない、その点に注目してみたいと思っています。「SWEET」はこういう特徴があるんですけれど、その一方で、着まわしページがより劇場化されている雑誌というのもあって、というかそちらの方がこれまでは主流で、そこではキャラクターの設定を見ると架空のものではあるんですがやたら細かいものが多いです。その代表例として「CanCam」を取り上げて調べてみました。これは10月に発売された号で、先ほどの「SWEET」と同じ時期に発売されたものなので、比較するにはいいかなと思ってこの号を取り上げます。この一ヶ月コーディネートでは、「ミックスエレOLみうの一ヶ月コーディネート」という題名になっています。」

なんて、「SWEET」VS「CanCam」が、実は、キャラ/キャラクターやポスト・モダン/モダンの区別をもって分析されていきます。これ、四年生の卒業研究の一部なんです(このトークの全貌は二万字)。


すごいです。こんなのどこでも読めないです。彼女たち曰くこの雑誌

「女子大生によるなんちゃって批評誌」

なんだそうです。

乞うご期待!

トークイベント

2009年11月14日 | Weblog
ART discussion8
『未来のダンスを開発する フィジカル・アート・セオリー入門』発売記念
木村覚さんx佐々木敦さんトークイベント開催!ゲスト:桜井圭介さん
ブックファースト新宿店・1Fブルースクエアカフェ内イベントスペース
11/29(日)午後4時~午後5時30分
場所はここです。
参加ご希望のお客様は、ブックファースト新宿店・地下1階Aゾーンレジカウンターにて
イベント参加整理券(500円税込)をお買い求めくださいませ。




近所の多摩美

2009年11月03日 | Weblog
こういうの書くのも何なんですけれど、このブログ、
11/2昨日のアクセス数は896、訪問者数332
です。この数が多いのか少ないのかはよくわからないのですけれど、このブログとしては、この訪問者数は多い方です。やはり、著作に興味をもってアクセスしてもらえていると言うことなのでしょうか。

もしそうであれば、提案なんですけれど、拙書を手にしながら、脇にPCを置いて、You TubeやUbu Webなどを見つつお読みいただけるとよいのでは、と思います。かなりの映像がウェブ上でみられますので。拙書を楽しむ最良の手段だと思います。よろしくです。

午後に、近所の多摩美術大学の学園祭を見に行った。
とても寒くて、外でフリマしている学生達が寒そうにしていた。展示が各所にあるんだけれど、フリマみたいにポストカード100円みたいにして売っているのがやたらと目に入ってくる。GEISAI的というか。んー、なんとなくこれで良いのかという気になる。作品を作りたい人よりも作品を売りたい人の方が多いみたい。それも、安価な作品。自分の表現を格下げしているのではない?と、つい思ってしまう。四時までまてばSAKE ROCKが見られたのだけれど、あまりに寒いので、3時半には引き上げてしまった。





artscape10月分 「プレシオジテ」

2009年11月03日 | Weblog
artscapeのレビュー今月分がアップされました。神村恵、ハイバイ、ままごと、菊地+大谷『アフロ・ディズニー』、小林耕平などについて書きました。

artscape原稿は、いつも月末に戦争みたいな状態で書く。本当は20日くらいに提出することになっているのだが、いつも遅れる。月末に公演が多い(気がするんですが、、、)のは理由の一つだけれど、遅れてしまうことに変わりはない。編集のSさんには迷惑をかけっぱなしである。だから言うのではないのだけれど、Sさんはぼくのなかでハイクオリティの編集者のひとりで、彼の校正はとても丁寧で的確だ。原稿がへろへろになっているところはちゃんと「だめ」がでる。毎回感謝の気持ちでアップを待つ(月頭)。

昨日の午後は、講義はなかったが大学に行って「プレシオジテ」について調べていた。金曜日の「美学」の講義で話そうと思っている。先週は「宮廷人の書」を書いた16世紀のカスティリオーネがまとめた「さりげなさ」論を概観した。今週はちょっと現代に近づいて17世紀。「プレシオジテ」とは、「言葉と礼儀作法に極度の洗練を求めようとする傾向」のことで、十七世紀、フロンドの乱以後「王に忠実であった者も含め、貴族たちは皆フロンドの乱で財産を失った。こうした状況では、持参金が貧弱な若い貴族の娘たちには適当な縁談がなかなか見つからない。若い貴族の娘たちは、自慢の美貌が色褪せていくのをただ黙って見ているしかなかった。」「縁談が決まるまでの間に、自分にいかに「高い価値[値段]をつける」か(「才女(precieuse)」の語源は、「高い価値をつける(donner du prix)」からきている)にかかっていた。恋が報われないのを、頭のよさで埋め合わせようとしたのである。」

ようは、「耳年増」と言えばいいのだろうか、経験はないのに知識ばかりが充満している恋愛至上主義者達。恋愛とはかくあるべしと小説などで蓄えた「観念としての恋愛」のなかに生きている行きそびれた女たち。気取った振る舞い、気取った技巧的な話しぶり、彼女達は繊細だけれど、繊細さもこれ見よがしになれば嫌悪の対象になる。

「才女たちの中にも、ほんの一握りは、実に繊細な感受性を備えた女性がいることは認めましょう。ですが、才女として振る舞っている女性の大部分は、繊細な感受性をことさらに振りかざすものですから、人の目に滑稽に映るのです。」(ちなみに、引用はすべて『モリエール全集』所収の研究論文・資料より)

「わざとらしさ」の典型が、彼女たちなわけである。

「プレシオジテ」な女達、プレシューズを笑いの対象にした戯曲がある。当時のコメディ作家・モリエールの「滑稽な才女たち」。先日、『才女気取り』というタイトルで、コメディ・フランセーズが上演したDVDを購入した。これが面白い。なんというか、とても現代的なところがある。まああえて言えば腐女子ですよ、これは。妄想を生きてしまう女というのは、決して今日(だけ)の話ではない。例えば、研究者はこんな言い方で、「仮想現実」を生きる17世紀の女性についてこう論じている。

「世間知らずの「才女」たちは、何も事件が起きない生活に憤り、これはおかしいと言いたてる。小説の中で示された道筋を外れたものは、本物ではないのだ。この恐るべきイデオロギーを持った滑稽な才女たちは、まるでその道の専門家のようにきっぱりと、前代未聞の教義を押し付け、あっけにとられているゴルジビュスとマロットにとって未知の王国を明らかにしてやるのだ。この仮想現実の世界では、現実の世界の秩序が完全に転倒しているため、現実の世界のどんなに礼儀正しい行い(ここでは本物の求婚者たちの行動)も、軽蔑の対象となってしまうのである。仮想現実世界のルールに反した求婚者たちは、ひどく侮辱的な扱いを受けることになる。」(296)


今日はまだ走っていない。これから。長く走ろうかな。最近のランニング界の流行は、LSR(ロング・スロー・ランニング)と聞くし。

多分八王子の八は

2009年10月28日 | Weblog
多分八王子の「八」は、富士山の形なんだろうな
なんて思いながら、6時頃、白い富士横目にジョグ。耳にはJ-WAVE。

最近、またジョギング熱が高まっていて、9月頃からだろうか、2日おきくらいで走っている。土曜日は、浅川と多摩川の交差するところまで!と思い立ち、無邪気にスタートしたはいいけれど、往復二時間近く走ってしまった〈いや、後半はほとんどてくてく歩き〉。走っている時の10-40分あたりで訪れるスーッとした高揚感がたまらない。夏休みは、芸能人のドラッグネタに頭が汚染されて、そのせいだろうと思うんだけれど9月頭に気づいたら渋谷の葉巻喫茶に行ってて、人生初の葉巻体験などしてしまったが、こんなかわいいドラッグ体験なんかよりも、ずっとダイナミックな快楽がジョグにはあって、、、とまあどれくらい続くかは定かではないですが。冬に比べれば5キロくらい痩せたんだけど、誰も気づいてくれないんですね。もうちょっとすると、大学生時代くらいの体型にはなるかもしれないので、そのあたりまで(カール・ラガーフェルドが目標なんだけど、どすかね、大それてる?無理かな)。

KAT@日女祭は、ギャラリーは限りなく0に近い状態でしたが(泣)、かなりいいものが残りました。この模様は、雑誌『KAT』に掲載しようと思っています。いま、文フリでの販売目指して学生たちとちょこちょこやってます。ぼくはKREVAのことと、ブリトニーのことを書くんですけれど、学生たちは、浅野いにおや相対性理論や東京アリスfetinismや遠藤一郎や女性っぽい男たちについてやいろいろと取り上げています。どれもノーマッチョなテクストで、新鮮に読んでもらえる気がしています。

ここ数日で、関かおりの公演、神里雄大の公演を見た。神里のは、わざと受けない芸人のようなノリで役者たちを動かしているのが、いいのか悪いのか正直わからなかった(話は、二組のカップルが登場し、別れを切り出した男に対して未練の残る女たちの思いが、カラオケ店、床屋で語られるというもの)。関のダンス作品は、個性的な運動に目を惹かれた。女の子特有のグロテスクなものへの志向、母性に対する嫌悪感などが、作品の核になっていた。自分の感覚からぶれずにそこに徹底することによって出てきたもので、その点での達成度は感じた。つまり関かおりらしさが、独りよがりというのとはちょっと違う感じで作品化されていた。けれども、関=女の子という等号は成立しないとも思った。つまり、特殊な女の子像で、それに賛同するひともいるだろうけれども、もう少し間口の広い女の子の姿を語っても良いのではないか、と思ってしまう。

あと、昨日、ドネルモの代表山内泰さんが、大学に遊びに来てくれた。昼休みのKATのミーティングの終わり頃に来て、三限の時間、講義はないけど頻繁に学生が卒論のこととか相談に来るその合間に二人で話し合いをして、四限のゼミにはコメンテイター的な立場で聴講もしてくださり、さらにゼミの後にも二人で話し合いをした。その模様は、後日ドネルモHPにて掲載をしてくださることになっているので、もしよかったら、その折には、読んでみてください。

ドリームナイト2

2009年08月24日 | Weblog
一緒に暮らしていても、知らないことは多くて、家にある四台の同じような白いマックのノートブックのどれかを互いが叩いていても、同じ家にいる相手が何を今しているのか、案外知らなかったりするもので。

レビューハウス☆ドリームナイト2が8/30に渋谷アップリンクであるみたいで、カオス*ラウンジ(夏)のことを調べている内に知りました(まあ、「めざましテレビ」見ながらとか何となくそんなこと、Aが言ってたような気が、何となく思い出してきた)。藤城嘘も出品するそうで、楽しみです。というか、松井みどりさんがゲストというのが、なかなかすごい、予測不能。見たいような見たくないような見たいような、、、ですね。

ところで、
「23才の夏休み」

「九十九里浜に
叫んでしまったよー」


名曲だなあ、去年?いまぼくははじめて聴いたから、ぼくには今年の名曲。

夏休みの宿題

2009年07月26日 | Weblog
最近はブログの方が更新進んでいませんが、何人かの方からそれのために「忙しそうですね」と言われてしまいまして、ちょっと反省しました、今日は何か書いておこうと思います。

夏休みに入り、やりたいことをリスト化するとなんだか100日くらい欲しいなあと思わせるものになって困ってますが、佐々木敦さんの活動などを脇で見ているとそんなこと言ってちゃだめじゃんと反省させられたりもして、がんばってやっていこうと思います。

〈夏休みの宿題〉
A 後期の講義で80-90年代文化論が出来るように、資料整理をする
B 後期の講義で話が出来るように、現代女性ファッション誌分析を進める
C 後期の講義で話が出来るように、現代女性ポップ・アーティストのパフォーマンス論をまとめる
D 大学で行っている自主研究会(通称KAT)で文化祭イベントを行うのとメンバーと雑誌をつくり、文フリで売る計画をたてているので、それを進める
E 翻訳作業
F BRAINZ本『フィジカル・アート・セオリー入門』の出版

はー、多いですね。Fはいまのところ、第2校をチェックしているところでして、、、ずいぶんと遅れてしまっていますが(図版を収集するのがことのほか大変だったのです)、、、どうにか火急的速やかにやっていきます。Eは、ちょこちょこですね(Ramsay BurtのJDTを出したいのですよ、本ブログ中に部分的に訳と解説をつけているあれを、毎朝起きて1時間やって行けたらと思います)。

と、宿題は宣言化しておくと少しでも実現するかも知れないので、そのつもりでつらつら書いておきます。

Aは、個人的にぼくたちの思考のOSがどう変化していったのかということを考えるためにやりたいと思っています。学生にとっては、何となく知っているけれども、よくは知らないものを、ちゃんと文脈含めて学生達に知ってもらうためにやりたいと思っています。80年代文化が現在の日本のポップ文化のベースになっているところは絶対にある。と、それと同時に、機能不全になっているところもあって、力を残しているものと形骸化しているもの、ぼくたちを束縛しているものとそうでないものとを具体的な資料をブラウズしていきながら分析していきたいのです。田中康夫『なんとなく、クリスタル』のことを以前このプログで取り上げたのは、その一環でした。この本に小説にもかかわらず厖大な注がついているのはよく知られたことですし、そのことを言及して、この小説を位置づけることはありふれたことです。けれども、あそこで言及されたさまざまなアイテムがいま私たちの耳にどう響くのかを実際に確認する必要があると思うのです。その響きの中に、OSの変化を察知する可能性があるような気がするのです。

当時のソフトをさまざま手に取ってみることを通して、ソフトではなくOSについて考えることをしてみたい。

例えば、さしあたり集めたひとつは『宝島』(1980-1983分)です。ここには、「サブカルチャー」や「若者文化」のひな形や「雑誌文化」のひな形が示されているように思います。ここで機能している「サブカルチャー」や「若者」とはかくなりという思考の形態、「雑誌」とはかくなりという思考の形態は、今日の眼差しからすればかなり機能不全を起こしている気がします。今年の『STUDIO VOICE』の休刊は衝撃的な出来事ですが、その現状は、こうした80年代初頭につくられた思考形態がいま空振り状態になっていることを明かしているような気がするのです。余談ですが、1980年頃の連載の中に「さだまさし、ニューミュージック嫌いのための 月評さだまさし」というのがあって、要はさだまさしをこき下ろすことで自分たちのアイデンティティを確認するものなのですが、このさだまさしと『宝島』公認アーティストでもあった佐野元春が昨日、NHKで「ソングライターズ」という大学の講義をベースにした番組で共演していたのは、印象的でした。きっと80年代にはありえなかっただうこうしたカップリングが可能になるのが、いまだとして、それがまた生産的な何かであるとすれば、ぼくたちはかつてのOSがアップデートされたことをよいこととして考えることが出来るでしょう。とはいえ、その「月評さだまさし」(渡辺利一)のクオリティはそんなにダメなものじゃなくて(例えば、1980年4月の第2回)、「唄を本気で抱いた」ショーケンのパフォーマンスと「演技力」をもったさだまさしとを比較していて興味深い。ちょっと長くなりますが、「演技力ではなく表現力のある人間が欲しいと映画監督の東陽一が某新聞で言っていた」と筆者は書いた後で

「このニュアンスの違いには整合された意識の管理下にある熟練した"演技"と、"生"の一回性ということを見据える危ういがしかし溌剌とした"表現"という意識とは裏腹の狂気とでも言うべきほどの差がある。そういう"眼"でさだまさしを見るならまさしく彼は相当の"演技力"を持ったシンガー=ソングライター(役者兼作家)であり、、、」

と続けるんですね。演技か表現か、意識か狂気かといった二元論がこの時代の重要なOSだったことは、明らかです。そして、恐らく、今日のOSはこうした思考を(そのままの仕方で)起動させることはほとんどないでしょう。だから、さだと佐野が対談できるとも言えるし(だからものごとをうやむやにしてしまう今日のOS はダメなんだとかつてのOSを起動させてみることもできるし)、だから、今や80年代のOS意味ないよとも言える。

なんてことを夏休みにぐずぐず考えてみようかと、思っています。

で、
Bは、まだほとんど世間的には発表していないのですが、この数年こつこつと研究しているものです。去年20冊ほどの雑誌をマップ化して整理してみたのですが、『CanCam』の不振や『Ageha』の躍進など、この分野の状況はこの1年でずいぶんと様変わりしていると思います。出来れば、マップをアップデイトしておきたい、というのがBの宿題です。学生たちと「現代女性ファッション誌研究所」をひらく(といって狭い個人研究室に集まっておしゃべりするだけなんですけど)のがひとつの目論見です。

で、
Cは、去年の講義でもやった「見られる存在としての女性がパフォーマーとしてどのような戦略を立てて、不利な立場を反転させようとしてきたか」という内容をグレードアップするのが目標。マドンナのライブをともかく見られるだけ見たいのと、ブリトニー・スピアーズの復活についてじっくり考えたいのがありますね。プリトニーVSパパラッチは、いじめの構図として考えることで、一般化して行くことは出来ないか、自虐的に自分をプロデュースしつつ、自分の本当に知ってもらいたい部分へと観客をアクセストーさせようとする戦略は、なかなかに興味深いと思うのです。

Dは、学生達にがんばってもらって。上手くいけば何ですけれど、大学生の考えていること、とくに女子学生の考えていること(が書かれているテクスト)って、ほとんど世間に読まれていないと思うんですよね。静かに無視されている存在のような気がして、彼女達の発言をなるべくそのまま原稿化していって、ひとに読んでもらいたいというのがぼくが密かに思っている願望です。


「超・日本パフォーマンス論!」開講

2009年05月31日 | Weblog
超・日本パフォーマンス論!が明日から開講されます。伊藤亜紗が宇治野宗輝さんや小沢康夫さんと一緒に、毎週、講義やワークショップを美学校で行うという企画です。各回、その筋の専門家である講師を招く予定で、ぼくも呼ばれていますが、このラインナップ、なかなかでしょう。

各所から「すげー」との叫び声を耳にしていますが、「パフォーマンス」のことをとことん知りたい「パフォーマンス」作品をまじで作っていきたいというみなさん、是非、この機会を逃さないようにして下さい。昨日、動作確認で伊藤のパワーポイント見ていましたが、超盛りだくさんでしたよ~。

ところで、いま、いろんなところで語られているのは、アートの「インフラ整備」です。恐らく最大の問題は小中高の学校教育で美術が中途半端な状態になっているところにあると思うんだけれど、教育重要だよね、というわけです(学校の美術教員のみなさんもどうぞ、「出張」していらしてください~)。歴史的作品を多く展示した「ヴィデオを待ちながら」も、ここからはじめようという啓蒙の気持ちが学芸員さんに強くあったのだそうです。いまは、力を溜める時ですよ、きっと。

2009年05月02日 | Weblog
忌野清志郎が逝去した。小学三年の時だったろうか、土曜日の昼間テレビを付けていたら、たまたま見てしまった武道館ライブにショックを受けたのが、ぼくの最初のライブ体験だった。それが「ライブ」を愛するぼくの人生を決定づけたのは間違いない。

尊敬していました。ご冥福をお祈り申し上げます。

川染、秋山

2009年04月09日 | Weblog
4/7
夕方、大学で学生達と自主研究会KATの時間を過ごし(一人の学生がテレビに登場する「女性的な男性達」をマップ化してくれた。性同一性障害、オネエmans系、ニューハーフ系、おかま系などが見事整理させていて、今年度二年生になったばかりというのに、素晴らしい分析だった)、その後、円盤にて川染喜弘presentsを見た。ともかく、昨年の秋以来見た、秋山徹次のパフォーマンスはすごかった。少し暗くして下さいと、後ろの壁にチェ・ゲバラの旗を貼り付けた後に呟くと、目出し帽を被って秋山は新聞を読む。しばらくして、新聞を脇に置くと、次に目の前のターンテーブルを回しはじめた。レコードは二枚ともペコペコになっていて、針はうまく溝を刻めず、ちょんちょんと内側へ向かって何度か飛ぶと中心の紙の辺りで紙を引っ掻くだけになってしまう。その妙なスクラッチ音のなかで、秋山はしゃべる。詩のようでまた哲学的でもあるような、でも目出し帽の男の発言だから、すべてテロリストの声明のように聞こえてしまう、そんな言葉達。そうこうしている内、今度は缶で出来たガスバーナーを手にする、とそこにマイクを近づけその「スー」という音を拾わせる。でも「このままで済むはずはないな」と思っていると、その青い光をペコペコのレコードにあてていった。黒い盤に青い光が照る。美しく異常な景色。客席に笑いが漏れたのは、熱でぐちゃぐちゃになると思いきや、盤は次第に品行方正にというか平らになっていったから。あり得ない仕方で、時間が逆戻りしてゆがみが元に戻ったなんて、不可思議なイメージに戸惑う。けれど、また冷めていくと盤はゆがみだし、さらに一層溝は複雑に破壊され、針を拒む。なんてやっている間にも、秋山は時折平然と詩のような声明のような何かを喋る。ガスバーナーの音を拾っていたマイクは、今度は、青い炎の餌食となり、赤くなって、鉄の融けるノイズ音を最後に音が消え、それを秋山は脇に置いた洗面に浸け、水攻めに処す。炎にとろけていく機材達。融かす音と融ける音が一緒に音として並んでいる。残酷で官能的な、処刑のような時間。夜は、JR豊田駅から帰る。Aはいま豊田がお気に入りらしい。駅前のマックが大きくて、確かになんだか「アメ」っぽい。

春のイベント

2009年03月31日 | Weblog
3/29
DENPAに行ってみた(なんと昼の二時に開始)。その後、ル・デコ近くの釣具店で、何故か蛍光色のキャップを購入。コスプレしたいという潜在意識がつい出たのか、冷静に考えると自分でも何故買ったのか分からない。早めに就寝。Aが風邪気味でうなされている。その声で突然目が覚めてしまい、何だかすごい不安な気持ちになって二時頃にテレビをひとりで見ながら、呼吸を整えていた。コスプレの「変容」ってよく考えるとちょっと怖い、子供の頃ってそういうの怖かったよねとか、そんな話を昼にしたからか。

3/30
昼に浅草へ行く。海外の旅行客は半袖姿で吾妻橋を歩いている、けれど、まだちょっと寒さが抜けたわけではない。しぶとい。4/5に迫った、gudp (grow Up! Danceプロジェクト)のCRP(クリティカル・レスポンス・プロセス)の準備のために、打ち合わせがあったのだ。ご存じない方もいると思うので説明すると、gudpとは、「自分の作品をブラッシュアップしたい」と考える振付家を昨年11月に公募し、選考されたアーティストがいろいろとワークショップや稽古を重ねながら半年後に公演を打つ、という企画。石川勇太くんと捩子ぴじんくんが選ばれた。ぼくは選考委員のひとりとしてこれに関わっている。作風は違えど今後が大いに期待できる二人。今日は、五割くらいの出来のものを見てきた。「五割」なので、わくわくとどきどきが半々。彼らの本公演(4/24,25,26)もお勧めしますが、その前、4/5にはCRPがあります(13:00-17:30@浅草アサヒアートスクエア)。これは、観客の方に作品をめぐっていろいろと作家と意見交換をしてもらうイベントです。中間発表→観客との意見交換が主要コンテンツです。入場無料。作家の制作過程に興味をお持ちの方、自分も作品を作っている作りたいと思っている方、批評やキュレーション、制作などに興味のある方には、有意義な時間になることと思います。興味のある方は、お名前、電話番号、メールアドレスを明記して、gudp@arts-npo.orgまで連絡して下さい。

その後、東京国立近代美術館で明日(3/31)からはじまる「ヴィデオを待ちながら 映像、60年代から今日へ」のオープニングレセプションに。50点ほどの作品が展示されているということ、これは少なくはありません、じっくり見ようとすれば時間がかかりますよ。是非、時間に余裕のある時にいらっしゃることをお勧めします。前記しましたが、5/23の14:00には、ぼくのレクチャーがあります。60年代のダンスと美術の話をする予定です。いまのところは、「タスク」-「「見出された(ファウンド)」ムーヴメント」-「レディメイド」(アンフラマンス)-「演劇性」あたりをめぐるお話しをしようかと。
見所のたくさんある展覧会だと思いますが、昨日気になったのは、泉太郎と小林耕平の違いです。二人を比較対照するなんて、こういう機会がないとなかなか思いつかない。けれど、こうやって一カ所に集まった状態で見ると気づくのは、泉が徹底してひとりで制作するのに対して、小林作品は出演者である小林とカメラマンの二人によって制作されているという違い。あえていえば、小林が漫才的であるとすれば、泉はピン芸的で、小林の場合、カメラマンと出演者のセッションが時間を推進させているとすれば、他方、泉の場合、セッションの相手として観客の存在が不可欠になっている。泉の作品を見ていると、作家に「おいおい!」とつっこみを入れたくなる。観客との関係がダイレクトで、作品の一部になっているのだ。だからだと思うのだけれど、泉の作品は、どれもインスタレーションに工夫がある。観客の「見ること」に対して、作家がさまざま介入している。簡単には見せてくれないのだ。その点、小林の作品は、そうした工夫を必要としていない。なんちゅうところとか、見所のひとつじゃないですかねー。

イチローと物語

2009年03月25日 | Weblog
昨日(3/24)、WBCの決勝戦があり、10回の表、イチローのセンター前ヒットによって二点差がつき、宿敵韓国に対する勝利が決まった。あらかじめこのようなラストエンディングのシナリオがどこかに用意されていたかのような、身震いするような結末だった(押さえで出場し、9回の裏に同点弾をゆるしたダルビッシュ有も正に「身震いした」とこの瞬間を語っていた)。この試合というよりも今回のWBC全体が、最後のイチローの一発によって、あまりに美しい物語へと結晶されていった。イチローの不振は、このエンディングを最も派手に輝かせるためにあったかのように、こう終わってしまえば、すべてはキラキラした思い出と化すのだろう。

ぼくたちはこうしてあっさりと忘れてしまう、イチローがずっと不振だったこと、そしてその様子を、見る側の呑気なぼくたちはイライラして見ていたこと。この「イチローの不振」は、何か面白いテーマだと思って見ていた。哲学的というと大袈裟なんだけれど、考えるに値するものが含まれている気がしていた。岩村だったか、今朝のワイドショーのインタビューで語っていたけれど、「イチローも人間なんだ」とみなが感じた。イチローが天才だとして、天才が打てないというのは、どう考えても概念に対して矛盾しているわけだ。だけれども、こうした矛盾が現に起こってしまうということこそ、ゲームなるものの面白さなのである。

この矛盾の原因は、イチローが身体的な存在だということにある。誰もがそうであるように。身体は、ダメな時もいい時もある。気まぐれなところがある。「調子」なんて言葉があるとおり、身体というのはとても不安定。しかし、この不安定な身体なしには、プレイは出来ない。

A 天分と努力のたまものであるイチローの身体は、性能としては天才である。性能(技術)からすれば、まあだいたい打席に立てば打てるはずだ(4割程度としても)。

B しかし、現実は打てるか打てないか分からない不確定要素を多分に含んでいる。単に個人の「調子」だけでなく、敵の「調子」「気持ち」「力」なども不確定性を高める。


スポーツというのは、このAという可能性とBという現実を可能な限りイコールにしようとする物語である。Aという性能が、未来の可能性としての勝利を夢見させる。そして、その夢がBにおいて実現するとき、それは勝利の実現であり、また夢の実現ということになる。スポーツは、ラストシーンで胴上げしている自分たちという絵空事を現実にしていく過程であり、敵もまたそうした過程を生きているわけで、ラストシーンがハッピーエンドである状態を互いに奪い合う、「勝利の物語」(A’)を「奪い合う物語」(B’)が試合であって、「勝利の物語」(A’)=「奪い合う物語」(B’)となることを目指すのがプレイヤーの仕事なのである。プレイヤーは、自分の性能Aを信じてその性能が最大限発揮されることA=Bを目指し、敵に対峙する。

このAもBも英語で言えば、「パフォーマンス」だ。performanceには、「性能」という意味と「遂行」という意味がある。「やれること」と「やること」はともにパフォーマンスと呼ばれる。「出来ること」(A)と、「やること」(B)と、「出来たこと」(A=B)あるいは「出来ないこと」(A≠B)はそれぞれ違う。それぞれ違う局面に、物語を喚起する要素がちりばめられている(例えば、A≠Bという「イチローの不振」なる事態は、イチローという才能はもちろんあるとして、しかし大将気どりをあらわにしたそんな男のふがいなさを世間に物語らせた)。Aは即Bではないということ、その間にパフォーマンスというものがそうとくにいわれる何かがあるのではないだろうか。あらためて辞書を見てみると、動詞形のperformは、per(完全に)+form(供給する)という意味があるという。

ぼくたちは、しばしばAを固定的に考えてしまいがちだし(「イチローは天才」など)、Aは即座にBを意味するものだと考えてしまいがちだし、もっとそうしがちだと言えるのは、AがBとイコールにならないと、すぐにAの主体をバッシングするということ。「ありえない!」などと嘆息するのは、まさにそうした思いがさせることだろう。けれども、そうは問屋が卸さないというのが現実というものだ。

それでもプレイヤーは夢見る。他人がこのA=Bという式を夢見ていることをプレイヤーは夢見る。そして、その夢にうなされながら、どうにかその夢が単なる夢ではなくなることを勝利という現実を手中にすることを夢見る。舞台のパフォーマンスは、夢が現実になる必要はない。夢を夢として呈示できればいい(そのための現実の努力はスポーツに似ているかも知れない)。スポーツのプレイヤーは、物語の書き手であり、物語をフィクションではなくノンフィクションにする労働者でもある。いわば労働する書き手だ。作者としての彼らにさほどの苦労はない。けれども、この書き手は言った傍から現実へとその物語をダウンロードしなければならい。その苦労は、想像を絶する。

イチローは、最後の打席で、「いろいろなことを考えていた」と発言している。「無心」でいたかったけれど、そんなことは出来ずに、いま日本ではすごい視聴率なんだろうなとか、いまここで打ったらおれは「持っている」なとか、自分の現状を実況しながら打席に立っていたというのだ。イチローには見えていた、AとBが。「無心」というのは、AもBも意識せずにいられる状態のことだろう。ただ、バットがボールに見事ミートするその等号(=)の瞬間だけをイメージする状態なのだろう。イチローは、等号に集中せず分裂していた。分裂したままだった。それでも打てたということは、彼にあらたな成長を与えることとなった(といったことを本人は述べていた)。彼はつい「神」という言葉を漏らす。「持っている」という言葉を漏らす。「持っている」という言葉は、面白いなあ。イチローはよく使っていたな、松坂に対してとか。これこそまさにperformanceだよね。単に性能ではなく、性能を証明する遂行がなされたということこそ、イチローに「持っている」という言葉をいわせるポイントなのだろう。

なんてことを思いながら見ていた。見ている時には、Aとくだらないおしゃべりをしていた。突然、応援するチームを変えてみることは出来るのか、とか。延長戦が決まった辺りで、眠くなって、横になったりした。ぼやぼやといい気なものだ、応援する側なんて。ぼくはあのセンター前に飛んだ(ほとんどテレビ画面を見るこちらに飛んできた)あのボールを、あの一瞬をぼくはいつまで覚えているのだろう。前回のWBCのこととかほとんど覚えていないもんなー。いい気なものですわ。

昨日は夕方、同僚の先生とご夫人とAとぼくとで新百合ヶ丘にてご飯を食べた。1年がようやく終わろうとしている、なんて気持ちになった。