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Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

極私的ベスト5(3/16付)

2009年03月16日 | Weblog
第1位安室奈美恵「Dr.」
素晴らしすぎ。名曲。今年は、ユニコーンの「WAO!」といい、よい曲がよいと評価されるまっとうな年だ(といいなあ)。Perfume人気のやや80年代と90年代のノスタルジーが含まれているのと比べると、圧倒的に今日的で前向きな印象を受ける(Perfume好きだけど、けど「ワンルーム・ディスコ」はどうなんだろ、リサーチ曲という気がしてしまう、というか、徹底的にリサーチするとこういうテーマじゃなくなるんじゃないかな)。Aと一緒に一週間前に、横浜アリーナで彼女の公演を見て、本当に興奮し感動してしまった。アイドルって本当に、人びとに力を与えてくれる存在なんだよね。性欲を満たすとか、そういうのアイドルっていうのちょっと狭いよ、ずれてるよ、って普通の批判を述べたくなります、いまの安室のパワーに乗っかって。どうも、曲の途中に2回はいる「タッ、タタタタッ」ってリズムのところは「ボレロ」を素にしているらしいんだけれど「ボレロ」というよりマーチとか「軍隊的」なイメージがありますよね。この展開がなんだかとてもクレイジーでいいのです。それでいて、「あの時の言葉を消して/二人を未来へと繋げて/give me a chance」と歌う辺りは、なんだか初期の曲調にも聞こえてくる。あの頃「Chase the Chance」と歌っていた安室がいまもまだ「give me a chance」と歌っていることのなんともいえない切なさに、この十年の社会の停滞とかも透かし見てしまう。

この曲は、ライブでは確か、テクノな銀色のスーツを着て踊っていたんです、それでPerfumeのことを重ねて見ていました。そのときの安室のダンスはストリート文脈のもので、2009年らしいのはテクノなPerfumeの方だと思うんだけれど、躍動的で人間味を残しているダンスはそんなに悪い気がしなかった。というか、2時間半、踊り続け、歌い続けなので、ただただ圧倒されてしまった。

ところで、3/6に快快の「MY NAME IS I LOVE YOU」を見たんですけれど、ゲネプロだったので善し悪しは正直判断つけられないところがありました。改善の余地がたくさんあったのは事実でした。けれども、未来世界の渋谷に徘徊するダッチワイフのロボットというのが登場人物でいたんだけれど、これ見ながら、なんだか未来の話だけれど、すごくリアルだなあって思って、こういうキャラとかテーマとかいまの彼ららしいなあと好感持ちました。そのリアルだなあって思ったというのは、彼女達の客へのアピールとかサーヴィスとかはすべて「プログラム」化されたものだというところでした。いま、ぼくたちのメンタリティというのは、こういう話を聞くとSFだよなあとか、非現実的だなあと感じてきた昔とは違って、まあ、ぼくたちもそんなもんだよな、と受けとるようになってきている。ぼくたちの身体も神からデータを入力されたロボットみたいなものだよな、といった気持ちというのは、いまのぼくたちにとってそんなに突飛ではないだろう。90年代の後半くらいから、まさにアムラーの登場してきたあたりから、社会の流れとして個性とか自己肯定とかが推進されていった。それは努力云々ではなく私たち自身をその存在をそれ自体としてみとめて!肯定して!というメッセージが語り語られる風潮を生み出した。努力ぬきに存在を肯定するということは、がんばる能力というよりもそもそも備わった性能でそのひとの価値を決めるということを随伴していた。だから、実は「存在をそれ自体としてみとめて!」というのは、結構怖いメッセージだった。プログラムされていなければどんな努力しても出来るわけないじゃんという思考は、近代的な啓蒙思想に相反するものだろう、であるならば、それはまた教育というものは無意味、という思考でもあろう。その視点からすれば、ダメなやつはダメ、ということになる。

それは、脳を含めた各人の身体の肯定であるとともに、強力な否定としても作用するように思う。なぜならば、性能を持っているか否かが重要であるならば「やってみなきゃわからない」といった次元は否定されることになるだろうから。けれども、この「やってみなきゃわからない」ということこそ、身体の存在意義なのではないかな。いまWBCでイチローが苦しんでいるけれども、「やってみなきゃわからない」次元にイチローの身体もまた置かれているからだろう。イチローもまた苦しむことが出来るのである。ゲームというのは、そういう失敗する可能性のある身体があってはじめて成立するものだ。100発100中の身体には、ゲームは出来ない(といったのは前田司郎)。そうしたゲームの可能性としての身体を否定する傾向が、「ロボットとしての身体」「プログラムとしての自分」という思考のなかにあるとぼくは思う。

こうした2つの身体観が拮抗している時代として、いまを考えてみてはどうだろう。

安室は、そうした消せない過去を抱えて過去の自分に対して歌う。過去が示したプログラム(あるいは過去に書き込まれてしまったデータ)は書き直せないものなのだろうか、と。青山テルマも誰々も盛んに過去の恋愛への後悔を歌っている。それはどうしてなのだろう。追憶ほど甘いものはない、からなのか。追憶は裏切らないし、追憶はいくらでも解釈可能だからか。安室の「Dr.」はちょっと違う気がする。絶望の度合いが違う。歌のなかで「助けて」と叫ぶ。この叫びのリアリティが安室の人気なのだと思う。

「行き場所のない愛」こそ、ぼくたちの愛なのか。成就する愛は、しょせんプログラムが作動しただけのこと、であるとすれば、不可能の愛こそが、「ぼくたちの愛」なのであって、そのなかにだけ「ぼくたち」といいうる何かがあるということなのか。(ってちょっと雑誌に寄稿するみたいにまとめてしまった……恥)

田中ロミオ『AURA~魔竜院光牙最後の戦い~』

2009年02月10日 | Weblog
「できない、この世界で冒険なんて……」
「できる」
「どこで?」
もう良子の顔も見えない。体温に熱せられた涙滴だけが、雨のように顔を打ち続ける。とても心地よい。感情のパイプが繋がっているんだ、今やっと、こいつと。
 泣かせているのに楽しいだなんてヒドいやつ。俺はやっぱり魔属性さ。
「ドイトとか。あとダイソーとか」
(田中ロミオ『AURA~魔竜院光牙最後の戦い~』)

ということで、さっきこの本を読み、ちょっと感動して、その感動とは別に、ここを読んだ時に、「あこれは」と思ったのでエントリーします。この世界で冒険とはダイソーとかで可能なのだということをガチで実践してみる企画が2/15にあります。わたしの奥さん伊藤亜紗さんが編集長の雑誌『レビューハウス』が行う初のイベントレビューハウス☆ドリームナイトがそれです。よく誤解されているのですが、ぼくはこの雑誌の編集には一切関わっていません、食卓の話題で「へーそうするんだー」とか言っているだけです。一執筆者です。一執筆者としてこの雑誌を応援してまして、この企画もおもしろそうなので、紹介します。あの、お客さんとして行っていいはずなので、わいわいと冒険の成果を楽しんでみましょう。

極私的ベスト5(2/5付)

2009年02月05日 | Weblog
この一週間くらいというのは、極私的になかなか大変でした。そんななか、これは!と思わず膝を叩いたひとたちものたちことたちを勝手にランキング。

第1位 神村恵ソロ「Seeing is believing」
2/1「We dance」というイベントで見たダンス作品。南米民謡のような曲をバックに、曲の独特のインパクトと拮抗する(ただし曲とは)全く関係のない動きをし続けた。冒頭、顔は前を見たまま少しずつ斜め前に進んでくる神村に、観客は笑いを押し殺すのがやっと(あまりにもその動きがとっぴだったのだ)。激しく顔を上下させるときの紅潮した表情とか変なスキップみたいにしてまた首を激しく動かすのとか、体が徹底的に素材のレヴェルで扱われていて、それは乱暴とも言えるのだけれど、その乱暴さが何か通念としてあるダンス作品の余計な部分を払い落としてゆくのだった。We danceというイベントでは、沢山の振付家やダンサーの話を聞いたけれど、ダンサーとダンスは切り離せないというあの文句を想起させる言葉が頻繁に語られたのが印象的で、でもあえて、「それ、きっちゃいなよ」とそれ聞くたび思っていた。神村はきっていて、だからよかったんだと思う。だからみんな楽しめたんじゃないだろうか。きっちゃってたのは、あと山下残がそうだった。彼の場合は、自分は踊らずに自分の語りと重なったりずれたりする振りを山賀ざくろに踊らせたわけだから、山下の場合には物理的にもきれていたわけだけれど。あの、神村作品、ほんと面白かったよ!

第2位 おもしろいって言う若い子たち
またまたWe danceがらみなのですが(そして若干手前味噌な話なのですが)、「おもしろいって言う係」という四人組の係がオフィシャルでこのイベントに参加してまして、彼らは1日目にみた感想を2日目の昼には「ダンス通信」と称して会場で配っていました。ぼくは、荷物係(誌面を作る紙を運んでいました)として、彼らが喋ったジョナサンの隣のテーブルで寝てましたが、寝ながら聞いていた限り、彼らの率直かつ真摯な態度と鋭い眼差しに感銘を受けました。ちょっと辛口だったんだけれど、彼らのいらいらはまじめさのあらわれだと思っていいんじゃないか。少なくとも、観劇後、適当に「よかったよ」とかいってしまわないまじめさがそこには貫かれていたと思う。ぼくは彼らのファンになりました。1日目に寿町で宿泊した平川くんは、幽霊見たとか見ないとか言ってました。

第3位 (音がバンド名)
まだまだランクインです。2/23@円盤での自主企画が今から楽しみです。なにやらこれまでの企画のスタンスで行うのは、これが最後とのことなので、これは見に行かなきゃかもですよ。We danceでも会うひと会うひとに勧めてしまいまして、第3位。

第4位 島袋道浩「美術の星の人たちへ」@ワタリウム美術館
昨日、2度目を見に行ってしまった。学生達と一緒に行ったら、「ウケる!」連発。その前に、「アーツ&クラフツ展」見て、はしごだったらどうかと思ったら、両方楽しんでいた。でも、誰よりも自分自身に夢中な年頃なので、屋上に上ってキャーキャー言い過ぎて、象の鳴き声を聞きそびれてました。

第5位 BS2放送のPerfume武道館ライブ
大学にあるDVDレコーダーに録ってあって、時間があると見直してしまうのだけれど、何度見ても感動する。今日も。








「(音がバンド名)presents」を見た

2009年01月27日 | Weblog
1/26
恥ずかしながら初円盤。10人弱の観客を前に、驚愕のプレイ連続。小林亮平は、magical, TV(1/13)にも出演、またmagicalの美術展「Mr. Freedom X」にも美術作品を出展するなど、音楽の分野に限定されない活動を、今月、明らかにしている。「Mr. Freedom X」でのドローイング展示は、ミニアチュール好きのぼくにはたまらないものがあった。極小のキャラ達がスライド増殖するさまが六十センチ平方くらいのスペースに五十個くらい展開している。それは、迷うためにある空間と物語のように思われ、その迷う様は、何よりも彼のパフォーマンスそのものでもある。「あ、」「えっ、」とかいいながらコンセントを探したり、接触の悪い部分を直したり、注意がひたすら散漫な身振りは、どこに行き着くということではなく、いまをただいまを見つめさせる。音が出なくなって直してようやく復活したリズムボックスをあっさり阪神のプラスチックバットでぶっ叩き、また音が出なくなり、「あれ?」と直して、、、を繰り返す。こどもチャレンジ製・五十音の音声がボタンを押すと流れるおもちゃで、観客共々こっくりさんを展開するあたりで、その弛緩する時間はピークに。後半に登場の川染は、随時思いついた物語の断片を口にしつつ即座にあたかも音楽機材でそうするかのようにその断片にカット&ペースト+エフェクトを試みる、オペラ・リハーサルを上演。演劇をめざましく変換させてしまうミキシング・セットを空想し、むりやりステージ上で実行してしまうというばかばかしい遊びは、くだらなくまた崇高。観客に常に語りかけラッパー振りする彼が、そのさなか不意に「これをダンスとしてみて欲しい、舞踏としてみて欲しい、つーか、ダンス公演に出演させて下さい」と漏らしたのは、本気か否か。(ぼくに語りかけてきたのかは皆目分からないけれど)ぼくは本気です。2人とも、アートの境界線を激しく揺さぶる根源的にアート的な公演だった。しかもキュリアスでキュート。スゲー。個人的には、DCにオファーしたい超強力候補!これに対抗出来る根源的にアート的で、しかもキュートなコレオグラファーはいるのか?

そういや、こんな文章を昼間読んでから出かけたのだった。

「--ハプニングについては、どう思われますか。
ハプニングはとても私の気にいっています。それは、はっきりと画架の上のタブローに対立するようなものなのですから。
--それは、あなたの《観客》の理論と実にピッタリと対応していますね。
まさにその通りです。ハプニングは、芸術のなかにそれまで誰も置いたことのないひとつの要素を導入しました。退屈です。それを見ている人が退屈するように何かをすること、そんなことを一度だって考えたことがありませんでした。残念です。それはとてもすてきな考えですから。音楽におけるジョン・ケージの沈黙も、実際、それと同じ考えです。誰もそれを考えたことがありませんでした。」(『デュシャンは語る』)

芸術ににおける「退屈」(アンニュイ)の発明者としてのケージ。この退屈に彼らのトライアルも関係していると思うけれど、ぼくはともかく面白かったのだ。バリのオダラン(村祭り)のなかに居る感じに近いかも。いつなにがはじまるか誰にも分からない時の、弛緩したまま興奮している時間。


極私的ベスト5(1/26付)

2009年01月26日 | Weblog
なんだか、勝手に「極私的ベストテン」とかやりたくなりまして、、、「テン」は大変だから「5」くらいにしました。ぼくがいいと思って体の中でヘヴィローテになっているものを勝手に応援します。続くかな?

第1位ユニコーン「WAO!」
はじめてJ-WAVEで流れた瞬間から「こりゃきた!」と。「大迷惑」「ヒゲとボイン」など労働歌を歌ってきたユニコーンがこうやって復活しちゃうと、勝ち組オーラで勝ち続けてきたEXILEとかがちっちゃな存在に思えてくる。ロックいいじゃん、ロックでいいじゃん、ロックがいいじゃんと思わされた。第3位~第5位はこの曲に触発されノミネート。

第2位泉太郎「山ができずに穴できた」+『美術妙論家 池田シゲル』
下記の通り、素晴らしい。「WAO!」聴きながら見たら、どっちもいい感じになるのだろうなー。

第3位U2「Get on Your Boots」
以前、目覚ましテレビ見てたらボノが映ってて、ロックには硬直化した世界をマッサージする力があると話していて、むちゃくちゃ感動したことがあった。世界を救うのはマッサージ力。ロックは身体をシェイクして次へと促す実際的な力をもっているよなあ。あと、この曲なんだかちょっとふざけているみたいに聞こえるんだよね。ロックに対してもクールであるが故にロックであり続ける、、、ってU2らしいなという印象。

第4位VAN HALLEN「PANAMA」
と、ユニコーンの「WAO!」のサビには、懐かしのライトハンド奏法が展開されてて(この曲のもっともいいところだと思う、そんな遊び心は)、ならばやっぱ聞きたいよねというところでヴァン・ヘイレン。でも、頭に流れてきたのは「JUMP」じゃなく、何故かこの曲だった。

第5位AC/DC「Rising Power」
そうそう、ぼくはギターリフというのが好きだったんだ。反復するフレーズ、エコバニはその点でぼくのヒーローだった(中2)。小6のときだったか、はじめて自分で買ったヘビメタのアルバムの一曲目がこの曲だった。スピーカーからこのリフが出現したとき、感電した。


1月4日

2009年01月04日 | Weblog
新年も4日が過ぎようとしています。
みなさん今年もよろしくお願いします。

『帝国、エアリアル』含め、大橋可也関連、特に帝国ナイトのこととか、「キレなかった14才リターンズ」のこととか、HARAJUKU PERFORMANCE PLUSのこととか、いろいろとありましたが、あらためて、どこかに書くと思います。
そのときはお知らせします。

今年は、沢山のひとと会って、話をして、そこから発見をしていく、そうしたことを積み重ねていきたいと思っています(個人で何かをやるよりも対話的な作業によって出てくるものの方が、面白そうな気がしているのです)。

1/10-11には、grow up! Danceの関連でアサヒ・アートスクエアにてイベントを行います。ダンス作品を作ってみたい方、作っているのだけれどまだ自分のやり方に確信のもてない方、もろちん、今回ご応募頂いた方、どうぞ、お越し下さい。





諸々

2008年12月21日 | Weblog
先日アップしたDC批評文募集第二席(大谷)の黒川さんは、自己紹介用のブログアドレスを送って下さっていました。こことあと講評を載せたエントリーページに記しておきます。

黒川直樹さんのブログ

昨日、「grow up! Dance」プロジェクトのサポートアーティスト、捩子ぴじんさんと石川勇太さんと浅草でお会いして、初めてのミーティングを行った。本番までは四ヶ月しかない。短い期間ではあるけれど、優れた作品、野心的な作品を作って欲しいなあと切に願っている。「サポート」なんてとてもおこがましいことだと思っている。けれども、誰もやらないなら、そしてこういう企画に声をかけてくださるなら、自分のできる限りをやりますと、そういう気持ちでいる。ぼくの野心は、ダンスをよく見ている観客にインパクトを与えることのみならず、ダンス以外の分野の関係者・観客にちゃんとアピール出来る公演を打ってもらうことにある。もっと知的で、かつもっとポップで。脱自己表現。脱自己満足。

そして、来年の1月10日、11日には、このプロジェクトでミーティング&トークを行います。選考委員やサポートアーティストと来てくださる皆さんとで、ダンスをめぐるあれこれについて「率直なところどうなのだろう」「率直なところどうすればいいのだろう」とお喋り会う場です。レクチャーの企画もありますが、主となるのは、各人が気取らないで自分の考えを吐き出すことです。ここには誰もえらいひと、えばっているひとはいない。ただダンスを愛しているひと、ダンス公演の制作に悩んでいるひと、ダンスって一体何なのだろう、何が出来るアートなんだろうと疑問に思っているひとが、集まってくださればと思っています。今回、応募してくださった方は是非、みなさんお越し下さい。「なぜ、私を選ばなかった!」と訴えてくださって結構です。まさに、そういう具体的で個別的なことから話していきたいと思っています。詳細は、GUDPのブログにて、発表しています。よろしくお願いします。



東証株価8000円割

2008年10月25日 | Weblog
10/25
一ヶ月くらい前だったか、講義の前にたまたま研究室でラジオを付けていたら、高城剛がインタビューを受けていて、インターネットの情報というのは、二級のものだからネットではなく現実世界から情報を採り入れる方がいいというようなことを言っていて、確かに、例えば自分がブログに書くことというのは、雑誌に書く文章のあまりもののようなところがあって、本当に重要なことじっくり考えたことはブログでは書いていなくて、自分のことを考えてもネットは二級は分かるところがあるな、と思っているうちに、いまの不活性なエントリー状態になっています。ネットの有効性は確かにある。紙媒体に書かせてもらう努力や紙媒体を自力で作る努力に比べると楽に自分の意見が公表出来る。最近も、あまりにあんまりな誌面構成・時評文の質になったと思って、あの雑誌のオルタナティヴをどうにか自力で出来ないものかと考え、さしあたりやっぱりネットを使うべきかなとか思っていたところではあったのだけれど、それでも、大事なことは、情報よりもコミュニケーションというかコンタクトだと、結構切実に感じるようになっている。で、高城のインタビューをネットで(アレ、、、笑)見つけたので、貼り付けてみます。
高城剛「21世紀の正体」

『REVIEW HOUSE』の第二号が出ました。以前からお話ししているように、ぼくは会田誠と彼の周辺の若手作家達(とくにChim↑Pomや遠藤一郎)は、似て非なる存在であり、両者の差異を分析することで、今日の日本の美術がその相貌をあらわすのではないか、といった原稿を書きました。キーワードは「アイロニー」です。「アイロニー」は僕だけのキーワードではなく、パラパラめくると何人かの書き手が同様にアイロニーを問題にしています。そして、考えていることは、大方共通している。自分が書いたからということ以上に、是非RH読んでみて欲しいです。ここから始まる何かがある気がしてしようがないです。サブテキストとしていま書店に並んでいる堀北真希が表紙の『クイック・ジャパン』遠藤一郎インタビューもあわせてお読み下さい。あと、RHでは、この十年くらいコンテンポラリーダンスをフォローしてきた3人の書き手が寄稿しています。この3人がひとつの誌面で書くというのははじめてのことで、内輪的な話ではあるけれどとても画期的なことです(ぼくはこの件に関して何もしてません、編集者さんの尽力の賜です)。ただ、桜井さんは庭劇団ペニノ、武藤さんはアジアのダンサー、でぼくは現代美術と3人とも日本のコンテンポラリーダンスを取り上げていない。偶然でしょうかね。(ただ、小沢+桜井+木村の鼎談とか、鈴木ユキオ、神村恵のテクストとか、日本のコンテンポラリーダンスがまったく無視されていると言うことはなく、むしろ例外的にフォローされているというべきでしょう)



なんとなく

2008年10月18日 | Weblog
最近、こちらに何かを書き付けることにあまり意欲がかき立てられなくなり、それは一体何でなんだろうと思いながら、日々のことどもに忙殺されつつ、そういう「どうして書く気が起きないのか」ということくらい書いてみてもいいじゃないか、、、などとは思ってみたりもいするのだけれど、それにも意欲的になれず、秋という憂鬱を楽しむ季節にやられているということなのか、そもそも根本的な何かがもうブログというフォーマットに書くことを躊躇させているのか、それも分からず、確かに「吾妻橋ダンスクロッシング」を見たり、大学の講義で大学生御用達系のファッション雑誌(20冊近く)をマップ化して、それについて授業したこととか(これにいまはまっている)、昨日は昨日で、多摩美術大学の活きのいい若手作家(二年生)のH君が主宰する「かえりの会」に参加して、20人ほどの学生の作品を見て、講評をするという、すごく楽しいのだが、夜が深まるにつれどんどん寒くなり、でも非公式の会なので教室を借りたりなんて贅沢はなしで、半野外のスペースにノンストップで四時間半という過酷な空間・時間でもあって、でもやはりすごく楽しくて、学生たちのまじめで暗くて誠実な話(いまどき聞けないよね、、、でもいまの大学生くらいの若い人って結構「まじめ」で「暗く」て「誠実」なのではないか)をじっくり聞いたこととか、いろいろとこれまでのブログに書いてきたようなことは、いろいろと身の回りで起きてはいる。

『文学界』『新潮』をめくれば、鹿島田真希の新作短編がそれぞれ載っていて、やはり圧倒的に面白く、青木淳悟の作品もちらっと読むとグーグルのストリートビューを素材にしたもので、これはある意味、徹底的にタスクないしインストラクションな作品だよなと思って、面白いと思ったり、東浩紀の「なんとなく、考える」も、ぐずぐずで、「(ふ)まじめ」についてで、まずどうしてここまで東さんというひとはひとの人気を気にするのだろうと思ったりして(その一種の演劇性が気になって、それとポストモダンの思想との関係とか、、、)、でも、そんなこと思うと書かないブログを気にしている自分のことに考えが進んで、不可視の読み手ということについて思いが及んだり。いろいろと考えているのだけれど、あまり前向きにならない。

現在発売中の『クイック・ジャパン』に、「遠藤一郎に会ってきた」というタイトルで、横浜・寿町にて未来美術家・遠藤一郎にインタビューしたときの記事が載っています。彼は重要です。どう重要なのか、迫ってみました。ご一読下さい。ちなみに、ぼくのページの手前には、「超詳解!20世紀ダンス入門」でお世話になったプリコグ代表・中村茜さんのインタビューがありましたよ。

あと、そろそろ『REVIEW HOUSE 02』がどうも発売しそうです。出版予定の8月が9月に9月が10月になっていましたが、10月が11月に変更することなく、どうも出そうです。Aが家でそわそわしてます。ぼくは小沢康夫さんと桜井圭介さんと日本のコンテンポラリーダンス周辺の「流通と批評」という観点から鼎談をしました。今世紀のダンスの動向がかなりの程度明確になるだろう記事です。それと、単独では「彼らは「日本・現代・美術」ではない」というタイトルの批評文を書きました。もちろん椹木野衣さんの『日本・現代・美術』について言及していますが、会田誠とChim↑Pomや遠藤一郎は似て非なる存在ではないか、二組の間には時代を画する何かがあるのではないか、という問いを中心に据えて20枚にまとめました。簡略的にいえば、「ポスト戦後的美術の動向」ということになるでしょうか。こちらも、ご一読を願います。

それといま、一年前に開講したBRAINZ「フィジカル・アート・セオリー入門」の書籍化に向けて原稿を書いている最中です。乞うご期待。

9/13-9/29

2008年10月05日 | Weblog
ずいぶんと間が空きました。備忘録的につらつらと最近あったことのメモ。

9/13横浜トリエンナーレ
横トリ初日。Joan Jonasのパフォーマンス公演があるとのことで、まずそれを目指して午前中から動く。ダンテの朗読にあわせて、映像や舞台上の仮面などを用いたパフォーマンスや、カメラにオブジェを写してアニメーションのようなものを作ったりとか、そうしたさまざまなことどもが舞台上で重なり合う。
赤レンガ倉庫のブースは、具体や土方巽や風の旅団などの映像を上映。チェルフィッチュ「フリータイム」も。続けて新港ピアのブースにも行くが、全体的にぼわっとしていて、作品の力強さがあまり感じられない。作品解説が不十分なのではないかとAの解釈。パフォーマンス・アートに焦点があるのは好感をもつところではある。ただし、これではパフォーマンス・アート嫌いを増産するだけばかりではないか。BankArtにも行く。オノ・ヨーコ「カット・ピース」。しゃがむパフォーマーから衣服代わりだろう白いテープを剥がしてみる。ハサミで切る野蛮さはない。ただ貼りついた糊を剥がすめりめりという感触は、パフォーマーの身体に間接的に触れる行為ではあった。中西夏之の絵画作品は、倉庫の改造した会場のワイルドさにさらされて、日光にもあてられて、ちょっとかわいそうに思う。脆弱なるキャンバス。

9/16-17箱根→鎌倉旅行(出張)
ポーラ美術館にて、レオナール・フジタの子供を描いた作品を見る。神奈川県立近代美術館にて、岡村桂三郎見る。

9/19清澄白河のhiromi yoshiiにて、泉太郎の新作。複数のビデオカメラと複数のテレビが交差しあい、重なり合い、重層的な映像をライヴで生成している。扇風機はカメラの前に吊られた切り絵の動物たちを揺らす。映像を見る者は茶の間のような引きこもれる場所が与えられずに、映像の一部になることを余儀なくされる。スタジオであり居間である居間でありスタジオである空間。
Dance As!a「Encounter: ジェコ・シオンポとディック・ウォン」(@森下スタジオ)を見た。「異質な他者との絶え間ない接触と共生が大前提とならざるをえない空間としての「アジア」なるもの」(当日配付資料)、それが立ち上がってくる空間を生み出し、「そこにおいてダンスはどんな可能性をもつのかと考えてみること」(同上)が、Dance Asiaの基本コンセプトなのだという。ジェコ・シオンポはインドネシア、パプア州のダンサー。『Tikus-Tikus(ネズミ)』『The Behind is in Front』10分程の2作を上演。ちっちゃくて、まるっこくて、手足が短くて、顔の大きいダンサーは往々にして魅力的なのだ。何故か。動きが小さくてはやいのと、短さが不十分な印象を与え、しかしそれによってリハーサル的な軽さ、いい意味での適当さを感じるからではないか。ちょっとへんなくせもあって、無駄な動きが、思いがけず、ちょっとしたスリルも生んでいる。見慣れない新味なダンスは、ユニヴァーサルな尺度も日本国内の尺度もうまく当てはまらずに、どう評価していいのか戸惑う。けれども、そこに「アジア」という中間的な尺度があるともいいきれない。ヒップホップの要素にミックスするシオンポの独特な身体からは、ポストモダンの多元性とマルチカルチュラリズムの多元性とのどちらも感じるのだが、そうした多元的なものを肯定するというだけではいまやあまり作品の価値を感じ取れなくなっているわけで、こうした作品にどう向き合うのかというのは、とても難しい問題だと思う。もうひとりのディック・ウォンは香港で活動するアーティスト。捩子ぴじんとのデュオ作品で、2人は、互いに相手の振りを交換したり共有したりする。先に挙げた言葉を使うなら多元的な世界での互いに異質な者の出会いが、テーマとなった作品。きわめて優等生的な作品。けれども、ここにあるのは「アジア」という切り口というよりは、各人のルーツであり、交換する試みとそこに生じるある一定の満足であろうか。ともかくも彼ら2人のダンサー、アーティストは、いまの日本にない個性を見せてくれた。その点で、こうした発掘作業を継続的にこのDance Asiaの制作者たちがしてくれるのなら、見る者はその度に何かを確実に得られることだろう。ただし、何故「アジア」という枠組みなのか?という疑問は残る。自分たちがアジアの一員だからというのは、安易だろう。これが「アジア」だという強い印象を、とくにダンスの分野においてどうしたら観客の内に引き出せるのか。「アジアの身体性とは何か」という問いをつきつめた先にその方途が見えてくるのだろうか。

9/20横浜・寿町にて未来美術家・遠藤一郎にインタビュー
すでに脱稿しているのだが、『美術手帖』と同サイズのサブカル雑誌誌面において遠藤一郎へのインタビューが出来ることとなった。初・寿町。すごい。もうなんていえばいいんだろう、空気の中になにやらひとを脱力させる薬が含有されているみたいに、そこここにいるおじさんたちは、みんな一様にだらーっとしている。地獄のようなところかと思っていたが、そのディストリクトに入ってしばらくして、ここは本当は天国なのだと分かった。職安の二階の野外でインタビュー。途中で救急車は来るわ、2人の目の前でひとが担架で運ばれるわ、ギャングのような子供たちが、騒がしく団地でドラゴンボールごっこしてるわ、お母さんは子供を叱って「鳥の糞はさわっちゃだめよ!」と絶叫するわ。

9/21勅使川原三郎「Here to Here」(@彩の国さいたま芸術劇場)
三方を取り囲む白い壁は実は膜と言いたくなるような布で、明るい白い空間は、その背後にいる者が影絵であらわれたり、幻想的な場にも変貌する。膜の柔らかさが硬質な勅使川原の身体とうまく響きあっていない気がした。ゴスな雰囲気とか、面白いようにも思ったが、全体としては単調な印象をもってしまった。
Chim↑Pom「オーマイゴッド 気分はマイアミビーチ」(@無人島プロダクション)
エリイ作の映像作品がちょっとよかった。「ERIGERO」にちょっと似ていて、椰子の木の木屑を吸飲する。

9/24多摩美のHくんとKさんとで打ち合わせ(下北沢)。多摩美周辺で今後イベントがはじまる予定。
会田誠「ワシはミヅマの岩鬼じゃーい!!」(@ミヅマアートギャラリー)
「判断力批判批判」という作品は、岩波文庫のカント『判断力批判』を一枚一枚ディスプレイして(壁一面を使って)、そこに落書き(ドローイング)がなされているというもの。会田はほんとに勤勉だと感じる。カントまで、会田のフィールドに入ってくるのか。美学・美術(の受容)批判としての会田美術のさらなる前進。愛憎。アイロニー。五階では、武蔵野美術大学の学生とのコラボ作品が展示してあった。ゴシック美術(教会)を元ネタにして、ダンボールでオブジェを制作せよとのインストラクションが学生に課せられていたらしい。

「都市のディオラマ」(@トーキョーワンダーサイト渋谷)
エキソニモ、アレックス・ガヴロンスキ、パラモデル、ゲイル・プリースト、ティム・シルバー、鈴木ヒラク

9/25後期の講義開始。

9/28「THE ECHO」展(@横浜ZAIM)
最後に見た泉の作品には、何というか素直に面白いと思えたのだが、それ以外のほとんどの作品には、ぴんとこなかった。なんか痩せた、髪型が鬼太郎みたいなよく見る若者の姿を透かし見ていた。どうしても「かっこつけ」ているように見えてしまって、それはおやじ(=ぼく)の愚痴なのかもとも思うので、若いひとの感想とかも聞きたいのだけれど、ぼくの周りの若者はもっと批判的なこと言っていたので、どう考えればいいのかよく分からない。等身大の自分を表現することに専心している気がして、芸術というのは自己表現に他ならないということなのか、、、そんなことも無いはずだ、、、などと。
川上幸之介、鬼頭健吾、田幡浩一、名和晃平、泉孝昭、榎本耕一、秋吉風人、大庭大介、星野武彦、政田武史、渡部豪、さわひらき、榊原澄人、天野亨彦、磯邉一郎、大野智史、竹村涼、泉太郎、増田佳江、山口智子、青山悟

大橋可也&ダンサーズ「Black Swan」(@BankArt NYK)
THE ECHO展の後、ZAIMから歩いてNYKへ。小雨がちらちらでも本降りにならずに終演してほんとに良かった、などと身内のような気分で見てしまった野外公演ヴァージョン。ダンサー(人間)は、横浜の年季の入った町並みの建物や道路等々と比べるととてもやわだ。そうした硬質なオブジェ達に囲まれた「Black Swan」は、月島のギャラリー・スペースで見るよりも、当然だけど、現実とぶつかり合っていた。遠くに見える車の流れが、シリアスな雰囲気をつくる音響とともに見るときには、まさに緊急事態で過ぎゆくもののように見えたりした。大橋作品で重要だと思うのは、記憶を喚起させるところだ。「緊急事態」をリアルに透かし見てしまったのは、ぼくの「緊急」なあれこれの時が想起させられたから、だと思う。記憶を喚起させる装置が振り付けとか、照明とか音響とか、さまざまに備え付けられている。それを可能にするデリケートな手つきが大橋作品らしさだと思う。それはなんだかときに催眠術のように感じる時がある。

9/29 イオネスコ「瀕死の王」(@あうるすぽっと)を見た。


盗用

2008年09月04日 | Weblog
下に、DC2に関する新しい記事を書いたばかりですが、備忘録として。

ちょっと前の宮沢章夫「富士日記2.1」に、学生のレポートのことがあった。ぼくも2つの大学で7月の末から8月にかけて採点をしていた。400人分のレポートとかテストとかに目を通して、宮沢さんとほぼ同じ経験をした。ぼくの場合は、なんとぼくのHPからまるまるコピペした輩が出た。頭と尻尾にちょっとコメントしているのだが、それもほとんど内容に触れておらず、しかもその内容の部分で引用先がまったく記載されていなかった。つまり、その学生は自分が書いたことにしていたのだった。「それ、書いたの俺だよ」って言ってやりたいが、もう講義は終わってしまった。ホガースという美術家が書いた美術理論書にダンスのことが書いてあって、という非常にマイナーだがぼくにとっては大事なポイントについてメモしたもので、でもまさか学生がホガースのダンス論のことなどひとりで思いつくわけはなく(講義でも今回取り上げなかった)、誰の本を読んだんだ(誰もいないよな)?、、、と読み進めたら、文体に何だか見覚えがあるよ、ってこれ俺じゃん!

こんなレポートに単位をやるべきか。どうしたかはここでは触れないけれど、一個考えることがあった。学生はなんでこんなに簡単に、コピペした文章を大事な、自分の成績に関わるレポートとして提出してしまうのか。ばれないと思っているのかも知れないけれど、別件で、学生番号の近い、つまり学科の友人らしい2人組は、あからさま似ている内容の文章を提出してきたりして、それはどこかのHPから借用して、適当に自分の言葉に直して提出しただけだろーと、そんなのすぐばれちゃうじゃんってことを実に平気でしてしまったりするのもいた。レポートの1割弱は、そうしたコピペレポートだった(どこの大学かは明記しないでおく)。

何でこんなに簡単にコピペレポートを出してしまうのか、ばれないと思っている以外では、どんなことが考えられるだろう。

ひとつの仮説は、デスクトップに映るデータは自分の物という意識があるのではないかということ。windows95が出て、自分のパソコンとネットが繋がった時に、一番感動したのは、ネット上にあるデータを自分のパソコン内に所有出来るということだった。画像とかとくに。デスクトップには故に、自分の物と他人の物の区別がつきにくくさせる、というところがあるのではないか。

もうひとつの仮説は、自分の意見というのは、すべて他人の意見のコピーだから、他人の意見をコピペして自分の意見にしてもあまり気にならないということ。人間のレディ・メイド化。自分の考えなど、他人に同調することでしかない。コスプレみたいなもの。自分の意見は思い凝らしてえるものではなく(ネット上にあるものから)選んでえるものと考えているのではないか。

この夏の一番嫌な出来事だったなー。

ペドロ・コスタ『骨』、鈴木治行『語りもの』

2008年08月19日 | Weblog
8/18
『Review House 02』へ寄稿する文章がようやく完成。編集の方々を待たせに待たせた。ここから彼らのだめ出しをもらって書き直して正式に脱稿ということになるが、今回は、会田誠と遠藤一郎やChim↑Pomや加藤愛はどう違うのかという内容で一本書いた。自分を確認するような原稿になったと思う。「アイロニー」VS「痙攣」というか「モダニズム」VS「アヴァンギャルディズム」というか。

ペドロ・コスタ『骨』(1997)を見た。どんどん眠くなり、どんどんフォロー出来ない感が高まるものの、ずっと見ていたくもなって、ぼくにとってさしあたりペドロ・コスタ作品は、退屈だが吸引力のある映画といったところ(映画見る力が昔より衰えているのかも、リハビリリハビリ)。『血』にあった、古典的映画を意識したコード性は希薄になって、だから役者が何してんだかほとんどわからないショットが繋がっていく。『溶岩の家』については、古典的な映画の体系性とアフリカのポルトガル人という地政学的な事象とが、つかず離れず、その緊張が映画になっているように思ったのだけれど、今回は、映画力が古典性にあまりこだわらずに発揮されている気がした。コスタのことは、『ヴァンダの部屋』を見てからあらためて考えてみようと思う。

夜、久しぶりにゴールデンタイムのテレビ番組をボーっと見ていたら、「HEY!HEY!HEY!」に出ていたグラビアアイドル3人組が「口パクアイドル」と称して出ていた。『Review House 01』に「あて振りとしてのアート」というタイトルの文章を書いたぼくとしては、この辺り、気になる。歌は別の人が歌い、自分たちは歌っている振りをして踊るだけなのだという。実際パフォーマンスを見ていると、「口パク」も真剣にやっていないので、そこは本当に芸がないなーと思うが(これに比べればAneCanの押切もえがジェームス・ブラウンの口パクやっているのの方がずっと興味深い)、こういうビジュアル(視覚)とオーディオ(聴覚)の分離と接合、分身的な表現は、今後も様々試みられるのだろう。

8/19
朝、鈴木治行『語りもの』を聴いた。ちょっとこれはとてつもなく素晴らしいと思う。タイトル通り、音楽と「語り」が並置と混淆の状態になっていて、とくにキャッチーで面白いのは、「自己言及性」と本人が言っている手法で、音楽演奏を語りが実況するところ。例えば「演奏が始まる」などと冒頭で語られたりする。アンチイリュージョニズムの芸術にとって歌詞とは、何であり得るかという問いへのなるほど、もっともまっとうな回答だ。チェルフィッチュを思い返しもするが、ちょっと違うのは、チェルフィッチュの場合「フリータイムってのを始めます」と役者が言う時、まさに自分がこれから始める芝居というものを名指しするのだけれど、鈴木の語りが言及するのは音楽についてなのである。語りにとって隣の他人である音楽を語りの対象とするという発想が、妙な連想を膨らませる。音楽の分身-心霊。あと、物語の要点のようなものを淡々と話すようなところでは、「ああ、映画というのは、語るだけで成立するのか」と思った。映画がコードの体系で、イメージはそのコードを指し示す仕事をしているのならば(その仕事にイメージの仕事を思い切って短絡させてしまうなら)、コード(これは極めて言語的な存在だ)を言語に置き換えてそれをぽつり呟くだけで、映画は成立してしまうのだ。フィルムというマテリアルの代わりに、この映画では、頭のなかに浮かんだ映像がイメージとなる。ぼくはボクデスの「ムニャムニャくん」に、そうした言葉が聞く者の頭にイメージを喚起させてしまうという暴力の存在を読み取ってきたのだけれど、そうしたイメージの喚起力が映画となって迫ってくるのを鈴木の「語り」には感じたのだった。

ずっとレディ・メイド(既製品)、分身、幽霊、心霊について考えている。すべてはこの問題に行き着くのじゃないかというくらい気になる。幽霊はいる。というよりも幽霊しかいない。このことを、全てはコピーとみなすシミュラクル論、二次創作論etc.として捉えてもいいのだけれど、鳥瞰視的にではなく、見てしまった!という驚愕(背筋ぞくぞく)と共に考えること。すべて身体は幽霊体である。再認しかぼくたちには許されていない、ということなのか。

『スカイ・クロラ』『溶岩の家』

2008年08月16日 | Weblog
8/14
お盆で帰省後(珍しく、小学校からの友人と会った。あと、田舎では地元に起きた殺人事件で話題持ちきりという様子だった。新聞に出てたよ!とその殺人事件そのものよりもそれがメディアに取り上げられたことの方が事件のようだった)、その足で押井守の『スカイ・クロラ』を見た。

8/16
ペドロ・コスタ『溶岩の家』を見た。

「リアル系」

2008年08月10日 | Weblog
最近読んだ2冊の本で「リアル」や「純粋」という語彙が論じられていて、それがとても興味深かったので、ごく簡単に整理してみようかと思う。

速水健朗『ケータイ小説的。』(原書房)は、副題に「再ヤンキー化時代の少女たち」とあるように、ヤンキー的なマインドの今日的展開を「ケータイ小説」の分析を通して明らかにしている。「ヤンキー」への眼差しという点がまず、ぼくとしてはとても気になっていて、以前からここでも書いていたことだけれど、サブカル系批評やオタク系批評はあるのに、なぜヤンキー系批評はないの?と以前から思っていたので、その興味からこの本を読み始めた。面白いポイントいくつもあるけれど、何より「リアル系」というキーワードが図抜けて面白かった。

「ケータイ小説を巡る言説で必ず問題とされるキーワードに「リアル」もしくは「リアリティ」がある。『文學界』二〇〇八年」一月号における座談会「ケータイ小説は『作家』を殺すか」において、魔法のiらんど編成部長の草野亜紀夫は、『恋空』がうけた理由として、「作者の美嘉さんの実体験だから共感を呼んだんじゃないでしょうか」「私たちとしては、これを実話ベースの物語として読みますし、だからこそ読者も物語に入り込めるんだと思うんです」と発言している。」(72頁)

ケータイ小説の読者はそれが「リアルか否か」という観点を重視している、と速水は整理する。

「「リアル系」を求める読者は、単に物語を求めるのではなく、それが本当にあったかどうかを重要視するのだ」(79頁)

物語の時代ではなく事実の時代、フィクションではなくノン・フィクションの時代、そう言い切れたらきれいなのだが、そうすっきりとはいかない。「外れない作家は相田みつおです。彼は「リアル系」の王者です。「リアル系」の子達は相田みつおが好きです。なぜかというと、情緒がないから。「リアル系」の子達がなにが苦手なのかというと、情緒が苦手なんです。」(80頁)と児童文学評論家の赤木かん子の言葉を取り上げて、「リアル系」の「子達」のマインドに絞り込みをかてゆく。そして速水は、読者達がいうリアルとは、本当に読者達にとってリアルティのあるものなのかどうか、と切り出す。

「レイプやドラッグは「実際にある問題」ではあるだろうが、本当にリアルと言えるレベルで日常生活と結びついているものだろうか」(73頁)

「日常と結びついている」=「リアル」という図式ではどうもないのではないか。大事なのは、本当に「リアル」かどうかではなく「リアル」と謳われているかどうかにある、そう速水は考える。

「赤木が指摘する「リアル系」とは、ドキュメンタリー的なものだけに限らない。『ほんとにあった怖い話』というテレビ番組のように、単なるキャッチコピーレベルの「ほんとにあった」までが含まれている。つまり、赤木が指摘する「ケータイ小説のリアル」とは、このようなキャッチコピーレベルの「リアル」なのだ。なんのことはない、大人の目にはかけらもリアルではないケータイ小説が、読者である十代の中高生に「リアル」と思われているのは、ケータイ小説が「本当の話である」と謳われているところにあるのだ」(81-82頁)

すると、「リアル系」=「「リアリティ」の有る無しとは関係なく「事実」「ほんとの話」であると謳った作品」(83頁)ということになる。「ほんと」と謳えば謳うほど「嘘」の可能性が高いなどという考え方は、多分ないのだろう。そういえば、先日遊びに来た学生がYou Tubeの心霊映像をさかんにみんなに見せようとしていたのを思い出す。彼女曰く、「これは「リアル」だから「ホラー映画」よりも怖い」のだそう。この発言自体なんか「ねじれ」があるような気がするのだけれど、まさに「リアル系」の時代の身振りのように思えて、印象に残っている。


土井隆義『友だち地獄 「空気を読む」世代のサバイバル』(ちくま新書)は、「リアル系」という言葉は出てこなかったけれど、同様の傾向を「純愛」「ノンフィクション」のなかに見ている。

「一般に、人びとが純愛に惹かれるのは、そこに理想の人間関係を見出すからだろう。私たちは、互いの利害関係や既存の役割関係にとらわれない純粋な人間関係こそ、この世界でもっとも尊いものだと感じている。そこには純粋な自分も存在するはずだからである。」(108頁)

こういう純愛観は、どの世代にも共通なものだろうと土井はまとめながら、しかし、反社会的でも非社会的でもなく脱社会的な現在の若者たちにとって、「純粋さ」とは、ダイレクトに自分自身が対象となるものであり、しかもそれは観念的であるというよりも身体的な自分なのだという。

「現在の若者たちにとって純粋さとは、社会の不純さと向き合うことで対抗的に研ぎ澄まされていくような相対的なものではなく、むしろ身体のように生まれながらに与えられた絶対的なものである。だから、死や病といった生物学的で絶対的な障壁が、その純粋さのレベルをさらに高次元へと押し上げることになるのだろう」(110頁)

ケータイ小説などで展開される「純愛」が「死」や「病」を求めるのは、そうした「身体」のレベルにこそリアリティが潜在しているからだ、というわけである。それは「素」という「リアル」を示す「天然キャラ」への注目という話へと連動していくのだが、この「素」というのはあくまでも「素のままのキャラ」といういささか矛盾するような存在であることが重要である。

「若者向けのテレビ番組で、素のままのキャラに独自の存在感を示す天然ボケのようなタレントに人気が集まるのも、おそらく同様のメンタリティに由来した現象といえるだろう。そこでは、天然であることが純粋さの寓意となっているからである。天然とは、脱社会的なものである。彼らに惹かれる視聴者の多くは、そこに演技性を超えた脱社会的な純粋さを見出しているのである」(111頁)

なるほど「純粋さ」は、身体的リアリティを感じさせるものでなければならず、そこにあるのは「素」という状態ではないか。しかし、速水の指摘する「リアル系」と同様、この「素」もまた一枚岩ではない。「素」ではなく、いわば「素のままのキャラ」を味わうところに、「純粋」な身体的リアリティの発生するポイントがある、というのである。

「セルフ・ノンフィクションにせよ、純愛物語にせよ、読者を惹きつけているのは筋立ての斬新さではなく、自分が「泣ける」ほどの強烈なキャラをもった登場人物である。だからどんなに荒唐無稽な筋立てであろうと、逆にきわめてベタな筋立てであろうと、あるいは筋立てすらなく、たんなるエピソードの羅列であろうと、さしたる違和感もなく受け入れられることになる。話の筋は、あくまでも際立ったキャラを味わうための素材にすぎないからである。」(114頁)

それは「セルフ・ノンフィクション」の分野でベストセラーになる乙武氏の本のような「身体障害者」の「泣ける」本などのことを鑑みれば自明のように「身体障害者=純粋なる者というステレオ・タイプ的な図式」(111頁)に乗っている展開こそが、彼らにとって「純粋」なのである。

ようは、キャラがキャラをまっとうしてくれていることが「純粋さ」のそして「リアル」の証になる、というわけである。

そうそう、そういう意味で、「神話作用」のような「キャラ作用」のごとき考察こそ、今必要なのではと思う。ひとはもう個人というものを社会に対して表明することはほとんどしていなくて、キャラであることをまっとうしようとして生きているようなところがある。少なくとも、ひとにたいしてそういうもののみを求めているところがある。このあたりの「リアル」を、つまりキャラとしてのリアル、レディ・メイド(既製品)としてのリアルを問題にしていかないと、「リアル」を論じる努力は空転しかねない気がする。

その最大の祭りがオリンピックだろうし、「リアル」な(つまりキャラ立ちした、そしてキャラであることがまっとうされる)ストーリーを描こうとして、テレビは必死になっている。

「注目すべき人々との出会い・その1」(Loop-Line)

2008年08月10日 | Weblog
「注目すべき人々との出会い・その1」の2日目をLoop-Lineへ見に行った。初Loop-Line。最初は、角田、杉本、宇波の3人がそれぞれ自分の演奏に没頭する70分。角田は、上向きにした二台の裸のスピーカーがあれはハウリングを起こしているのだろうか大きく上下に振動しているが、音はそこからほとんど出ないか微妙に振動のような低いのが出ているだけ、それとときおり演奏空間の対角線上に弦が一本張られていて、それを揺らして鳴らしている。杉本はドットが整列した譜面を見ながら木を叩き、宇波はギターと電子音とを低く鳴らす。ぼくは、音楽演奏のよいオーディエンスではない。初心者だ。だからか、演奏どうのというよりも、この奇怪な芸(術)を思いついた各人が勝手に自分の仕事をやっている感じが気になってしようがなく、そんな彼らは芸術家と言うよりも芸人ぽくて、ところどころ爆笑したくなったが、大声を出すとそりゃ演奏を妨げてしまうわけで、でも、きっとオーディエンスはそんなこんなクスクスと内側でやっているに相違なく、これは我慢比べみたいな時間だなーなどと思ってその時間を過ごしていた。前衛と爆笑。後半は志水児王というアーティストを紹介する時間で、志水の作風のきわめて興味深いことのみならず、予備校時代友人だったという角田とのやりとりがなんだかすこぶる面白く、杉本さんや宇波さんもそうなんだけれどなんで音楽家のひとたちはこんなにパーソナリティがユニークでしゃべると面白いひとたちばかりなんだろうと、そのことがすごく気になった。「言葉」の人というか「しゃべり」の人。前衛としゃべり。