東アジア歴史文化研究会

日本人の素晴らしい伝統と文化を再発見しよう
歴史の書き換えはすでに始まっている

「死を迎える前に」カール・ベッカー京都大学教授(日経新聞夕刊インタビュー記事)

2013-11-01 | 日本の素晴らしい文化
以下、ベッカー教授がいつも話されている持論である。つい先日、ご両親が短期間で相次いでお亡くなりになった方が、あの世に両親はいるのだろうかと聞いてこられた。そもそもあの世があるのか実証されたわけでもないが、ベッカー教授の臨死体験の話をしてあげた。ベッカー教授は死んだら終わりではないと。人間の魂は永遠であること。臨死体験をした人々は必ず今は亡きご先祖、もしくはそれに準ずる人に会っている。だから、今でもあの世から見守っておられると。しかし、もっとも重要なことは「死を迎える前に」我々はどう生きるかであろう。

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「死を迎える前に」カール・ベッカー京都大学教授
(日経新聞夕刊インタビュー記事)

死をタブー視する社会を変える教育を

米国のハワイ大で学んでいた頃(1970年代半ば)に、(現地の)日系人の末期患者が潔く死んでいく姿や、家族のみとりの様子に感銘を受けました。1975年に来日して京都大などで日本古来の死生観や宗教観を研究。死を迎える伝統的な知恵を明らかにし、時代の変化にも着目しました。

戦前までの日本は死を自然の摂理、次の世への出発であると受け入れ、死を怖がらない社会でした。しかし私が来日したころから死の迎え方が大きく変わります。それまでは8割が自宅、2割が病院で亡くなっていたのが、70~80年代に逆転し、今や病院死が8割以上。長寿にもなって、身近に死をみとる経験が減り、死が知らない怖いものになりました。死を覆い隠す社会が死への恐怖と無知を生み、残虐な殺人や自殺につながる面もあると思います。

大家族でない米国では、ベトナム戦争の経験も経て80年代ごろに、『なぜ、どのように死んでいくのか。なぜ、どのように生きていくのか』という死生観教育が学校に取り入れられました。しかし日本では、誰もが経験する死について学校で教えず、生のリアリティーも希薄になっています。

日本の死生観教育は、ぬいぐるみや財布をなくして寂しい、悔しいという喪失体験から始めるのがよい。亡くなった祖父母の思い出などにつなげて死の話へのタブーをなくしていく。喪失体験を乗り越える技術と同時に、かけがえのなさに気づかせる教育ができるはずなのです。

「かつてはお寺でお坊さんが漢方や鍼灸で檀家や門徒の回復を祈り、治らなければ枕経をあげて家族のカウンセリングをしていました。老・病・死をどう乗り越え消化できるか。その知恵の災害が多く、死が身近だった日本の歴史に潜んでいます。宮本武蔵、二宮尊徳、鈴木大拙などはみな死を視野に入れた生き方をわれわれに語ってくれます」。

死はすべての終りではない

ベッカー教授は「日本往生極楽記」「扶桑略記」などの古文書を研究するとともに、日米で数十人の臨死体験者から話を聞き分析してきた。

「死を恐れるのは、まだやるべきことを十分やっていないというほかに、死がすべての終りと思うからです。臨死体験者はみな、この世だけで説明できない意味が絶対にあると言います。この人生が小学校のような段階であり、魂や意識がこの体を卒業しても、また別の段階で試練や勉強がある。あの世の存在は証明できませんが、体験者が口をそろえて言うのです」。

「日本では平安時代から様々な臨死体験を記録して、死の研究では進んだ国の一つでしたが、明治の近代化以降は途絶えてしまいました。一方、90年代あたりから欧米の医学雑誌などにも何百もの臨死体験が取り上げられ、臨死体験は宗教から医学の領域に入ってきました。しかし日本の医学は依然として死ぬ間際のところや死んでからの意識の行方をタブー視しています」。

それでも欧米が学ぶべきことが日本にはあります。家庭には仏壇があり、先祖を思い出しながら、大事な相談や報告をしている。先祖の知恵を心の中によみがえらせて守っているわけです。自分の身体や財産、知恵や教育は自分だけで作ったものではなく、先祖の営みでいただけたものです。その恩恵を思い出せば、子孫にも何を残すかが、大事になってきます。

人間は個としては生きていません。社会の横のつながりと同時に、時代時代の縦のつながりがあります。自分が死んでもその意識や影響が続く可能性もあると考えると、死はすべての終りではないのです。そう思えば、個別の死を乗り越える力や勇気が湧いてきます。

末期の過ごし方は素直に考えたい

患者の死生観を調べるために病院に出入りするうちに、テーマは生命・医療倫理や環境倫理に広がった。日本の医療が日本人の伝統的な価値観や死生観と相反するのに疑問を持ち、日本的な医療倫理の構築に取り組むとともに、末期患者や遺族のケアをするカウンセラーの育成に力を注ぐ。

日本の病院ほど死を迎えるのにふさわしくない場所はありません。欧米と違い、多くの日本の病院には精神をケアする部門がない。臨床心理士による末期患者や遺族へのカウンセリングは大変有益だと信じていますが、日本ではまだ根拠となる研究が不足し、なかなか広がりません。

それでも福知山線の脱線事故や、東日本大震災をきっかけにカウンセリングに価値を認めるようになってきました。医療や福祉、宗教の関係者が加わった臨床スピリチュアルケア協会や日本スピリチュアルケア学会も相次いで設立され、必要な教育や実習を話し合っています。

そもそも病院は死をみとる場所ではなく、病気を治す場所です。病気と闘って勝つ見込みがあるなら、主治医に頑張ってもらいたいのですが、勝つ見込みがない場合、どういう末期を過ごしたいのかをもっと素直に考えたい。

私自身も準備しています。まず保険などを可能な限り共同名義にし、残された人に使いやすくする。自分が急病や事故で意識不明になった場合、すべての決定をゆだねる代理決定者も決めています。それから尊厳死宣言。もしよみがえる見込みがないと医師に判断された場合、いたずらな延命措置をすべてやめてもらいたい。そして比叡山にベッカー家の墓を確保しました。

末期患者の多くは人生を振り返り、何が良くて何が悪かったのか、自分で自分を裁きます。それなら末期まで待たず、毎晩、お風呂に入った時や寝る前に『今日はこれで良かったんだろうか』と考えてみてはどうでしょう。一日を大事にし反省を込めて生きることで、価値観が変わって見えます。

(編集委員 宮内禎一)


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