
コロナウイルスは広がる一方ですが、平成15(2003)年に流行したSARSよりも大きな問題に発展しそうです。中国発の疫病はいままで何度も全人類を襲い、地球史そのものを変えてきました。今回もその可能性があります。以下の記事はSARS流行の際に書かれたものですが、主張点はそのまま現在に通用します。
■1.SARSは「封じ込められた」だけ■
7月5日、世界保健機関(WHO)は新型肺炎(重症急性呼吸器症候群=SARS)に関し、最後に残っていた台湾に対する「流行地域」指定解除を発表した。これによって死者812人、感染者8439人もの猛威をふるったSARSは世界全体で「制圧」されたとマスコミ各社は報道した。
しかしこの「制圧」とは、新型肺炎が絶滅したという意味ではない。WHOの発表の原文では"the global SARS outbreak has been contained (SARSのグローバルな爆発的流行は封じ込められた)"であり、SARS自体はいまだ脅威として残っている事を意味している。
これを「制圧」と訳したのでは、あたかも人類がSARSの脅威から永久に解放されたような錯覚を与えるもので誤訳に近い。WHOは例年インフルエンザが広まる冬季に、新型肺炎が再流行する恐れが十分あるとして、引き続き警戒を呼び掛けている。
インフルエンザ・ウイルスやSARSを引き起こしたコロナ・ウイルスなど呼吸器感染症を起こすウイルスの多くは、寒くて乾燥した環境を好み、冬季に流行する。インフルエンザ・ウイルスは夏の間はヒトの体内で軽い症状の感染を繰り返しながら潜み、冬を待っているという。コロナ・ウィルスも夏の間にひそかに感染者を広げ、冬にまた猛威を振るい始めるという可能性が十分あるのである。
来シーズンもSARSが中国でぶり返したら、どうなるだろうか。今シーズンは百十数カ国が中国人の入国ビザ停止など中国隔離政策をとった。今度はそれ以上に厳しい措置がとられるだろう。しかし歴史を辿れば、中国発の疫病が世界にまき散らされ、地球史を大きく変えたというケースは何度も見られるのである。
■2.中世ヨーロッパを襲ったペスト■
8世紀頃に約2700万人だったヨーロッパの人口は、その後、順調に増大して1300年には7300万人にまで膨れあがった。しかし1348年にペストが大流行し、わずか3年間で人口の三分の一を失うにいたる。健康な人間が伝染病で次々と倒れていく様を見た人びとは、今まで信じていた神に懐疑的となり、これが宗教改革のきっかけとなった。
この時のペストがどこで発生したかについては諸説あるが、もっとも有力な説は中国の南宋王朝で流行し、南宋と戦っていたモンゴル軍へと伝染したというものだ。チンギス・カーンの孫で南宋征討を行っていたモンケ・カーンはその途上でペストにより病死している。
モンゴル帝国はアジアの大半からヨーロッパにかけて広大な領土を占有し、その支配下で中央アジアのステップ地帯を横断する東西貿易が盛んになった。その交易品の中にペスト菌を運ぶネズミがいたのであろう。ペストは西アジアからクリミア、ベネチア、北アルプスを経て、ヨーロッパ全体に広がった。シルク・ロードは疫病の通り道でもあったのである。
モンゴル帝国は1200年から1350年に最盛期を迎えたが、その後、弱体化し分裂していく。中国においては1368年、朱元璋が中国華南地域を統一し、明王朝を建てた。モンゴル帝国が衰退した理由の一つに異常気象とそれに伴う飢饉、ペストの大流行が挙げられている。1200年には1億3千万人だった中国大陸の人口は、1393年には6千万人と半分以下になってしまった。
■3.相継ぐ中国発の疫病大流行■
モンゴル帝国による元朝を駆逐して新たな支配者となった明朝は1644年に滅亡するが、その原因の一つになったのがやはり疫病の大流行であった。明朝末期の萬暦・崇禎(1573年〜1644年)に、華北地方ではペストや天然痘が猛威を振るい、少なくとも1千万人の死者が出たという。同時に飢饉が続き、民衆が共食いをしたという記録が残っている。各地で農民が反乱を起こし、流民・流賊の移動がさらに疫病を広げる結果となった。
その混乱をついて満洲族王朝・清が1644年に中国本土に侵入して征服したが、順治18(1661)年の人口はわずか2460余万人だったという。明王朝最盛期の三分の一でしかない。
1820年には広東でコレラが大流行し、翌年には北京にも広まった。今回のSARSと同じ経路である。その直後、1822年10月から11月中旬にコレラは初めて日本に上陸し、全土に広まった。経路については2つあり、中国との貿易拠点である長崎経由で伝わったという説と、朝鮮から対馬経由で入ったという説がある。いずれにしろ、日本は鎖国中であったが、わずかな隙をついて、中国発のコレラに襲われたのである。
19世紀末には雲南省で発生したペストが中国全土に広がり、広東省から香港を経由し、船でサンフランシスコに伝染し、全米に流行した。インドでも600万人が死亡した。
この時、香港は英国の統治下にあったが、英国側の調査に対して、香港の衛生担当者は「ペストなどありえない。雨がふれば大丈夫」と答えている。情報隠しも今回とまったく同じである。
■4.地球規模のウィルス感染■
1918年秋、全世界で「スペイン風邪」と呼ばれるインフルエンザが猛威をふるった。世界で6億人が感染し、死者は2千万人から4千万人と言われる。日本でも2300万人以上が感染し、39万人が死亡した。米国での死者は、南北戦争と第二次世界大戦の戦死者よりも多かった。
「スペイン風邪」という名称から、スペインが発源地と誤解されやすいが、スペイン王室の一員がこのインフルエンザにかかって新聞に報道されたことから、この名称が使われるようになったらしい。
そもそもは1918年5月末、フランスのマルセイユで流行し始め、半月ほどの間に第一次世界大戦の西部戦線でにらみ合っていた両軍兵士たちの間に蔓延した。一説ではマルセイユの前にインドで発生していて、インド─マルセイユ間を行き来する船に乗る人々によってフランス南部に持ち込まれたと言われる。そしてインドには中国・広東省から伝染したという説が多くの学者によって支持されている。
別の説では中国人労働者から米国内の米軍人が感染し、彼らがマルセイユ経由で欧州に派兵させられたことによって西部戦線に広がったという考え方もある。この説でも発生地は中国と考えられている。
20世紀に入ってから、ウィルスによる感染症の地球規模の大流行は3度あった。このスペイン風邪と、57年のアジア風邪、68年の香港風邪である。いずれも中国発のインフルエンザだと言われている。こうしてみると今回のSARSは中国発の地球規模のウィルス感染としては、20世紀に入ってからでさえすでに4度目と言える。
■5.清浄の思想を持たない中国人■
なぜこのように中国が様々な疫病の発源地となるのだろうか?
黄文雄氏はこう説く。
中華文明は黄河の濁流から生まれた。そこから、穢れを忌避しない儒教のドグマ(教義)ができあがった。そして、中国人は文明が誕生したときから今まで、変わることなく清浄の思想を持ってこなかったのだ。その結果、世界でもっとも不衛生で不潔な国ができあがったのである。
かつて日本に留学し、軍隊生活も経験した蒋介石は、日本人の生活の規則正しさと清潔さに驚いたという。蒋介石は、中国人はどこでも構わず痰を吐き、家の中は掃除もしない。食事は立ったままで、野菜の切れ端や残飯はあたりに撒き散らかされ、足の踏み場もないほどだ、と嘆き、1930年代に「新生活運動」を鼓舞して、日本に学ぼうとした。しかし、数千年来の生活習慣は、一時的な精神運動で変わるはずもなかった。
現代中国においても、蒋介石が嘆いた有様はまだまだ続いている。筆者が広東省にある日系企業の工場を見たときの事である。その工場には女子作業者のための5階建ての立派な寮があるのだが、その隣にある平屋の建物の屋根には残飯がたくさん散らばっていた。
驚いて日本人社長に聞くと、寮の女子作業者たちが食べかすを窓から投げ捨ててしまうのだという。見つけたら罰金をとるなどして一生懸命にしつけようとしているが、なかなか直らないと、その社長は嘆いていた。
工場では一生懸命に働き、また田舎の父母に仕送りをしている感心な女の子が多いのだが、勤勉や親孝行という徳目はあっても、「清浄」という思想はないようだ。日本でも最近は随分マナーが悪くなって、道路でのタバコや空き缶のポイ捨てが目立つようになったが、さすがに自分の家の窓から残飯を外に投げ捨てる人はいない。
■6.近代化とは?■
シンガポールは中国系の住民が大半だが、清潔で美しい街である。それもそのはず、たとえばタバコの吸い殻を路上に捨てると150シンガポールドル(約1万2千円)、バスからゴミを捨てたら1000ドル(約8万円)、その他、痰を吐いても、公衆トイレを流し忘れても罰金が科される。
黄文雄氏は、中国人には「清浄」の観念が欠如しているので、衛生向上のためには法によって厳しく罰する以外、手がないのだ、と主張している。
シンガポールは蒋介石が志した新生活運動を厳罰によって成功させた事例と言えるが、もう一つの成功例がある。日本統治時代の台湾である。清朝時代の台湾は「瘴癘(しょうれい、風土病)の地」とも呼ばれ、毎年のように数千名のコレラ患者が発生していた。台湾平定時の日本軍は戦死者164名に対し、病死者が実に4642名という有様だった。
内務省衛生局長から台湾の民政長官に抜擢された後藤新平は疫病予防は上下水道の設置から始まるとして、大規模な上水道と、パリの下水道にならった排水路を建設した。これらの上下水道は東京よりもずっと早く完備したと、台湾の人々は自慢にしていた。また主要道路は舗装して深い側溝を作り、汚水雨水の排出を速やかにした。
ほとんど都市の形をなしていなかった台北では大都市計画を実行し、整然とした清潔な市街を作り上げた。さらに伝染病を抑えるために、台湾医学校を設立して、多くの台湾人医師を育てた。こうした努力により、台湾では日本と同様の近代的な公衆衛生インフラが築かれたのである。
しかし日本の敗戦によって台湾に入ってきた国民党軍は、再び疫病を持ち込んだ。1946年にはコレラ、ペスト、翌年には天然痘が大流行した。いずれも日本統治時代に絶滅していた疫病である。この時は国連の指導と救援で、なんとか疫病撲滅に成功した。
近代化とは、目に見える高層ビルや空港を作ることばかりではない。現代のシンガポールや日本統治時代の台湾のように上下水などの衛生環境、検疫予防、医師の育成から民衆の生活習慣改善まで地道な公衆衛生インフラの整備が必要なのである。今回のSARSの流行を見ても、大陸中国ではこうした地道な努力が欠如していると言える。
■7.「東亜の病夫」■
こうした公衆衛生インフラの欠陥により、中国は国外に疫病をまき散らしてきたのだが、国内での不健康状態も日本人の想像を絶する。
揚子江流域は、世界最大のB型ウィルス感染地帯であり、感染者は1億人を超えている。農村では6千万人から1億人の住血吸虫患者がいる。WHO(世界保険機構)の資料では、首都・北京でさえ、人口の5割は寄生虫保卵者であるとしている。そのほか肺結核感染者が4億人いると中国の衛生省が発表している。さらに栄養不足や環境悪化からくるカルシウム不足が深刻化しており、1億5千万人が歯の病気、骨疎症にかかっていると言われている。
またエイズにいたるHIV感染者・患者数は、2001年末の中国の公式報告では3万736人だったのが、突如、上方修正され、02年上期ではすでに感染者・患者数は100万人を突破、「対策が不十分だと、2010年には感染者は1千万人に達する」との予測が発表された。
これらに比べるとSARSの被害などはほとんど無視できるレベルのものだ。ただ海外諸国が大騒ぎをして、中国の経済発展に直接的なダメージを与えたからこそ、中国政府は真剣な取り組みをしただけで、現実には中国国民はそれ以上に深刻ないくつもの病気に脅かされているのである。
戦前の中国は「東亜の病夫」を自認していた。今は病気で弱っているが、いずれ健康になれば「眠れる獅子」が目覚めるのだという一種の強がりであると同時に、もう一つ、疫病、風土病に悩み続けている国、という意味もあった。現在、沿岸の都市部こそ経済的に「眠れる獅子」は目覚めたが、後者の意味での「東亜の病夫」はまだまだ続いている。
■8.「適度の距離」■
日本はもっとグローバリゼーションを推し進めなければならない、と多くの人が言う。そしてグローバリゼーションとは無条件に良いものと我々日本人は受け止めやすい。中国崇拝、欧米崇拝の伝統があるからである。
グローバリゼーションの始まりの一つが、モンゴル帝国によって中国大陸からヨーロッパまでの東西通商が盛んになった事であるが、この時に同時にペストが中国からシルクロードを通って中世ヨーロッパに運ばれ、壊滅的打撃を与えた事を考え合わせねばならない。
光あれば影ありという我々の常識を思いだそう。グローバリゼーションにも当然、影の部分がある。「14億の巨大市場」「安価で良質、無尽蔵の労働力」に魅せられて日本企業の中国進出が続き、日中の経済は史上かつてないほどに一体化しつつあるが、無数の「東亜の病夫」との一体化までは何としても避けねばならない。
日本列島は中国大陸とは日本海で隔てられ、遠からず近からずの「適度な距離」にある。吾らが父祖はこの適度な距離を利用して、巧みに中国文明の中から文字、仏教、儒教、書画、茶などの良い部分のみを選択的に輸入し、同時にアヘンや宦官、戦乱など悪しきものは頑なに拒んできた。グローバリゼーションが声高に叫ばれる現代こそ「適度な距離」という伝統的な叡智を思い起こすべきであろう。
(文責:伊勢雅臣)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます