びっくり仰天のニュースが飛び込んできた!小林繁氏が急死。
クラウンライター・ライオンズ(現、埼玉西武ライオンズ)に1位指名されながら入団拒否を貫き、読売入団をゴリ押しし当時の金子鋭コミッショナーの「強い要望」により江川投手との交換トレードで阪神に移籍したことで知られる、読売や阪神で投手として活躍した現北海道日本ハム1軍投手コーチの小林繁氏が、心不全のため福井市内の病院で亡くなった。57歳だった。小林氏は午前、福井市の自宅で倒れ、病院に運ばれた。
小林氏は1952年、鳥取県出身。1971年にドラフト6位で読売に指名され社会人の全大丸を経て1972年に入団。1973年に1軍に初昇格すると1976年、1977年に18勝を挙げるなど活躍し読売のエースとして活躍した。
阪神移籍1年目の1979年には22勝を挙げ、また、読売戦には滅法強く読売ファンのため息を誘っていた。1983年、13勝(14敗)を挙げながらも31歳の若さで現役を引退。実働11年間での通算成績は139勝95敗17セーブ、防御率3・18。
引退後はテレビ、ラジオ解説者として活躍。31歳と若くして引退したことから、TVのスポーツニュースでは大丸出身らしく?スーツ姿が似合うキャスターとして注目を浴びた。
コーチとしては1997から2001年までは近鉄で、2007年には韓国のSKワイバーンズで、2008年からは北海道日本ハムで梨田監督の下で投手コーチを務めていた。
最多勝利に1度、最優秀投手に2度輝いている。沢村賞、ベストナインも2度選ばれている。
梨田・北海道日本ハム監督
「昨日お会いし、いつもと変わらぬ元気な姿を拝見していただけに信じられない思いです。日本一奪回のため小林さんの力をお借りしなければならないと思っていた矢先のことで残念でなりません」
真弓・阪神監督
「阪神に同じ年(1979年)に入団し、キャンプで同部屋だった。ともに気疲れしていたのか、二人でよく寝坊した。マウンドでの気迫はすごく、特に巨人戦では後ろから見ていても気持ちで投げていると感じた」
長嶋・巨人軍終身名誉監督
「細身の体からは想像もつかないぐらいスタミナがあり、本当に頼りがいのある投手だった。正直に言うと、阪神へトレードになったのは残念な思いでいっぱい。現場の監督として悪いことをしてしまったという気持ちが、いまだに残っています」
【年度別成績】
1973年 読売 0勝0敗
1974年 読売 8勝5敗2S
1975年 読売 5勝6敗
1976年 読売18勝8敗2S
1977年 読売18勝8敗7S
1978年 読売13勝12敗2S
1979年 阪神22勝9敗1S
1980年 阪神15勝14敗
1981年 阪神16勝10敗2S
1982年 阪神11勝9敗
1983年 阪神13勝14敗1S
通算 139勝95敗17S
小林氏というとやはり「江川事件」は避けて通れない。当時、読売のエースとして売り出していて、まさか、江川の「犠牲者」となって阪神にトレードされるなんて思ってもいなかった。
「空白の一日」を突いての契約を無効と鈴木セ・リーグ会長が裁定したことで事態が複雑化した。金子コミッショナーの「強い要望」が出されてから、読売と阪神間で交換要員を巡って何度も話し合いが持たれた。阪神側は読売側が提示したレギュラークラスの野手(淡口)を拒否して、あくまでもエース級の投手を要求。結局、キャンプイン直前に小林投手を交換要員とすることで決着した。
この読売のゴリ押しで小林には「悲劇の投手」のイメージが定着し、女性ファンからも同情された。阪神移籍初年は22勝を上げる大活躍で注目を一心に浴びた。
その江川とは数年前に日本酒のCMで「共演」したことで話題を呼んでいた。
細身でサイドハンド気味に腕が遅れて出て一度止まる様な独特のフォームから繰り出す直球と変化球(スライダー、フォーク)のキレは抜群だった。31歳と若くして引退したのは残念だったが、引退後もTVキャスターとして、コーチとしても常に脚光を浴びていた。
冥福をお祈りいたします。
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