歴声庵

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長岡紀行二日目

2006年09月16日 20時07分00秒 | 登城記・史跡訪問
 二日目は前日とは違いホテルで自転車を借り、今町・八丁沖西部及び東部戦線の古戦場巡りを目標に出発しました。この日のコースは長岡を出発後北上し、十二潟・大口等の八丁沖西部戦線を通って今町に入りました。

 今町には過去二度訪れましたが、今町攻防戦最大の激戦が行なわれ、長府藩報国隊軍監の熊野直介も戦死した場所である源介坂を見つける事が出来なかったので、今度こそ見つけようと自転車で散策したのですが、この辺かな?と思える場所はあったのですが、確証を得れなくて悩んでいました。
 そんな自転車でウロウロしていたら、農作業していたご老人がいらっしゃったので、駄目もとで源介坂の事を聞いてみたら、この方が幸いにも地元の歴史に興味を持っている方で、驚いた事に関東では国会図書館にしか置いてなく、しかもマイクロフィルムで読めない「戊辰の役と今町」を所有している方だったので(何でも地元に購入しないかとの回覧版が回ってきたらしい、羨ましい・・・)、源介坂について色々教えてもらいました。
 この方によると、何でも河川工事と国道の通過により刈谷田川の流域は移動したらしく、昔の刈谷田川の堤防に繋がる道が源介坂と呼ばれていたが(これについては「戊辰の役と今町」でも確認)、前述の工事により昔の堤防は壊されてしまったので、その際に源介坂は坂ではなくなり、ただの小道になってしまったと教えてもらいました。なるほど源介坂は今はもう坂ではないのか、それは坂を探しても見つからない筈だと納得しました。
 またこの方に色々教えてもらっていたら、よそ者が珍しいのか近所の老人の方々が集まって来て、井戸端会議の中心になってしまいました(汗) でもおかげで複数の方から源介坂の確証が取れましたし、また源介坂の由来も教えて頂き勉強になりました。また米沢藩が見附の本陣とした旧金井邸の場所まで教えて頂き本当に助かりました。結局かれこれ一時間以上色々教えてもらったのですが、本当に今町の方はご親切で助かりました。

 こうして教えてもらった事を頼りに、今まで見つからなかった源介坂跡と見附市内の旧金井邸跡を訪れて、今度は八丁沖東部戦線に向かいました。八丁沖東部戦線では主街道ではなく山腹の間道を通ったのですが小川が無数にあり、当時はもっとこの水の流れにより通行は困難だっただろうと考えると、東部戦線だからといって決して水とは無縁ではいられなかったのだろうと実感出来ました。
 また旧亀崎村辺りの田んぼの中に丘があり、地元の人に聞くと昔からあった丘らしいので、北越戦争の際はこの丘に陣地が設けられのではないかと思ったのですが、これは今後の課題としたいと思います。

 こうして東部戦線を散策した後、今度は西部戦線に移動、朝も通った十二潟・大口方面に再び向かいました。昼に今町で刈谷田川の流域が代わったと教えてもらいましたが、刈谷田川が河川工事をされたのならば、八丁沖西部戦線内を流れる猿橋川も河川工事をされてるのではと考えて向かいました。案の定旧猿橋川の流域を見つけ、本当の当時の十二潟村と大口村の境界、つまり本当の当時の十二潟村と大口村間の戦線が判ったので、満足してこの日はホテルに帰りました。

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