歴声庵

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茨城県:大洗町の歴史めぐり その1

2013年05月12日 17時50分18秒 | 登城記・史跡訪問

大洗と河川流通について
 今回は『ガルパン』を離れて、純粋に大洗町の歴史めぐりをしたいと思います。現在の大洗の主要産業は漁業と観光業ですが、江戸時代は漁業と共に河川流通で繁栄した町でした。江戸時代の奥州諸藩が江戸に米や特産品を送る際は、太平洋上を海岸沿いに南下しながら那珂湊で川船に積み替えて、涸沼川を進み途中陸送して巴川まで運び、そこから北浦を経て利根川に入って江戸に至ると言うのが一般的なルートでした(江戸時代当時は房総半島周りのルートは技術的に使えませんでした)。
 この当時の奥州から江戸に至る物流ルート沿いに位置する大洗の町は、河川流通の拠点としても栄えました。特筆すべきは『ガルパン』最終話の優勝パレードを通った県道106号線は、元々運河だったのを埋め立てて作られた道でした。この大貫運河は涸沼川から分岐されて掘られており、奥州から運ばれた物資を大洗で卸すのにも、大洗の名産物を江戸に荷揚げするのにも最適な河岸でした。大洗を聖地巡礼した方ならば判ると思いますが、町内の道でこの県道106号だけやけに道幅が広いのは、かつては運河だった名残です。今でこそこの県道106号の周辺は住宅地になっていますが、江戸時代はこの運河周辺が大洗の中では磯前神社周辺と並んで栄えていました。もっとも現在の大洗の町自身が江戸時代は大貫・磯浜・祝町に分かれており、大貫は大貫運河を中心に商業で栄え、磯浜は磯前神社への参拝客相手で栄えた町と表現するのが正しいかもしれません。


 現県道106号


 同じ県道106号線、右奥に現存している運河との合流点が見えます。


 現存している大貫運河。奥に涸沼川が見えます。

 
 涸沼川の現況。

 今でも旧大貫運河の県道106号線沿いに若干の米屋や寿司屋がありますが、江戸時代に運河から荷揚げ荷卸しして商売していた頃からの老舗の可能性が高いです。よそ者からするとこの県道106号線が、大洗の商店街の終点との印象がありますが、この県道106号線の南に「上宿」「中宿」「下宿」と言う地名が在るのを考えると、当時はこの運河(106号線)の南側に、大貫の宿場町が形成されていたと考えられます。ある意味運河の北側が商業街で、南側が宿場町と分かれていたのかもしれません。




 バス停の標識から、かつてここが宿場町だったのを偲ぶ事が出来ます。

大洗の台場(砲台跡) 
 幾ら河川流通で栄えたと言っても、大洗の特徴は太平洋に面している事。この為に幕末には幕府から命じられて、異国船を砲撃する砲台(台場)が、大洗の中に二つ(磯浜海防陣屋と祝町向洲台場)築かれます。この内、磯浜海防陣屋は『ガルパン』四話で一年生チームが木登りして戦況を見ていた小山と言えば判るでしょうか。元々は日下ヶ塚古墳と呼ばれる前方後円墳の上に築かれており、そのような意味では第四話で一年生チームが登っていたのは小山では無く、古墳と呼ぶべきでしょうか。
 大洗沖に出現する異国船を砲撃する為に築かれただけあって、見晴らしは良いです。しかしこの砲台が異国船相手に砲撃をする事は無く、皮肉にも水戸藩内の内戦である天狗党の乱にて実戦を経験する事になります。

 
 海防陣屋跡。


 海防陣屋跡からは大洗沖が一望出来ます。


 ここは陣屋跡なのか、古墳跡のどっちなのでしょう。


 日下ヶ塚古墳の碑。

大洗と天狗党の乱
 水戸藩の内訌については、大洗の歴史とは直接関係ないので割愛させて頂きます。幕末に多くの藩で起きた尊王派と保守派の権力闘争が、特に激しくなったものと考えて頂ければ結構です。
 元治元年(1864年)の水戸藩の藩政は保守派である諸生派が握っていました。一方の尊皇派である天狗党は、幕府の対外姿勢に不満を持ち、藤田小四郎を盟主として筑波山にて挙兵します。この反幕姿勢を取る天狗党に対して、藩の存続を危ぶんだ諸生派が天狗党への弾圧を開始したので、水戸藩内は内戦状態になりました。自藩の内戦状態を知った江戸在府の水戸藩主徳川慶篤は、水戸藩支藩の宍戸藩(現笠間市、大野さんの出身地)主である松平頼徳に、水戸藩内の鎮静を依頼して出兵させます。こうして頼徳は宍戸藩兵を率いて水戸を目指しましたが、その中には天狗党の武田耕雲斎も含まれていました。
 水戸城下に八月十日に到着した頼徳勢でしたが、諸生派との交渉に失敗すると一旦那珂湊に後退するものの、既にこの時点で諸生派の軍勢と交戦し、なし崩し的に反諸生派となってしまいます。頼徳は更に那珂湊から後退し大洗に入り、前述の海防陣屋を拠点とします。大洗内では祝町の願入寺が諸生派の拠点になっていましたが、頼徳勢は十二日に願入寺を攻撃して諸生派を追い払った為、大洗は一時的に頼徳勢に占拠されます。
 翌十三日、那珂湊の諸生派と大洗の頼徳勢の間で砲撃戦が行われます。頼徳勢は祝町向洲台場から那珂湊の諸生派を砲撃した為、遂に諸生派も水戸に後退したので、頼徳勢は那珂湊の占拠にも成功します。頼徳は拠点を那珂湊に移して、再度水戸に侵攻を開始するものの、水戸城下の戦いでは諸生党の守りを破る事は出来ずに、結局再び那珂湊に後退します。尚、諸生派と交戦する頼徳の元には次第に天狗党や湖来勢等が集まった為、実質頼徳は天狗党との認識をされるようになります。
 九月までは頼徳勢と諸生派との戦線は膠着状態だったものの、九月中旬になると正式に幕府が天狗党討伐の為に出兵させた、幕府陸軍と諸藩兵による追討軍が大洗にも到着します。十九日には頼徳勢が大貫運河を越えて、大貫町の浅間神社に陣する幕府軍を攻撃するなど攻勢に出る場面もありましたが、基本的には大貫運河を挟んで両軍が睨み合う戦況が続きました。しかし二十二日に幕府軍の総攻撃が行われると、遂に頼徳勢の防衛ラインも破られ、、大貫運河の突破を許す事になります。大貫運河を突破した幕府軍は、更に海防陣屋にも迫った為、頼徳勢は海防陣屋を放棄、西福寺(肴屋旅館さん北東、月の井酒造さんの裏手)まで戦線を後退させます。しかしこれ以上戦線を保持するのは無理と判断した頼徳勢は、磯浜町と祝町に火を放ち那珂湊に後退したので、この日をもって大洗の天狗党の乱は終わりを告げました。




 天狗党の乱で、幕府軍の本営となった西光院。

 こうして大洗の天狗党の乱は終わりましたが、その後の天狗党に着いて簡単に説明させて頂きます。頼徳は最終的に幕府に謝罪降伏するものの、幕府から切腹を命じられて、宍戸藩もとり潰しとなってしまいます。一方の天狗党は常陸から離れて、尊皇派に理解があると言われる京の一橋慶喜(水戸藩主慶篤の弟、後の最後の将軍徳川慶喜)に陳情しようと、京を目指して行軍を始めました。しかし目指した慶喜自身が天狗党討伐の兵を率いて来た事を知ると、進路を北に取り絶望の逃避行の末に越前敦賀で降伏します。ここで武田や藤田を始め多くの者が処刑されると言う悲劇を生みます。
 余談ですが、諸生派により徹底的に粛清された天狗党と言えども生き残りは居て、天狗党の乱から四年後の戊辰戦争では、武田の孫が明治新政府から諸生派を討伐する許可を得て水戸に進駐。今度は逆に諸生派関係者の粛清を行います。これを知った水戸を離れていた諸生派は、戦況も何も関係なく水戸を目指し、水戸城下で再び諸生派と天狗党は激突するものの、もはやこれは「戦争」ではなく、「殺し合い」に過ぎませんでした。こうして明治維新・戊辰戦争の大事な時期に身内同士の殺し合いに狂奔した水戸藩は、明治新政府に優位な人材を送る事が出来ず、かつては尊王思想の総本山だった水戸藩は時代の流れに取り残されてしまったのです。

 このような身内・近隣同士の殺し合いとなった天狗党の乱については、特に水戸の方はあまり話したがらないと聞きます。しかし大洗は天狗党の乱の舞台にはなったものの、大洗の住民が諸生派と天狗党に分かれて争った訳ではないので、地元の方もフラットな視点で天狗党の乱についての話を聞かせてくれたのが印象的でした。その一方で「天狗党」の事を「天狗」と呼ぶなど、この町には天狗党の乱と言う歴史が息づいているのが実感出来ました。
 さて今回の記事では大貫運河と河川流通、天狗党の乱の際の大洗南部の戦いについてを中心に書かせて頂きましたが、後日作成する予定の、その2では大洗磯前神社と祝町向洲台場についての歴史、そして天狗党の乱での大洗北部の戦況について書かせて頂きたいと思います。

 訪問日:2013年05月05、06日


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